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2011年2月 9日 (水)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー3)

 ラトゥーシュは次のように言う「一部の極左的活動家たちによる伝統的な応答は、要するに、あらゆる停滞とわれわれのあらゆる無力の源泉を「資本主義」という実体に起因させ、そうすることで打倒すべき城塞の場を定義するというものであった。しかし現実問題として、敵と正面衝突することは今日においては問題含みである。なぜなら多国籍企業をはじめ権力の実態を掌握している諸々の経済的実体は、その性質上権力を直接行使することができないからである。ビッグ・ブラザーは匿名であるが、主体の隷属はかってなく自主的であり(このフレーズの意味は不明である誤訳か?ーー引用者注)商業用宣伝広告の操作は政治プロパガンダの宣布にも増してどこまでも狡猾である。このような条件の中でどのようにしてメガマシン(近代社会の総体)に「政治的に」立ち向かえばよいのだろうか」と弱音とも思われる心情を吐露したのちに、こう言う「資本主義を問題視するだけでは不十分であり、あらゆる成長社会をも批判する必要がある。この点においてマルクスは道を誤った。成長社会の批判は資本主義の批判を包含するが、その逆は有り得ないのだ。多かれ少なかれ自由主義的な資本主義と生産主義的な社会主義は成長社会という同一のプロジェクトの二つの類型であり、人類を進歩へ向かう行進へと担ぎ出すとされる生産力の発展に基づいている。」(「経済成長なき社会発展は可能か?」p.245)

 こうしたラトゥーシュの「生産主義批判」の立場は、前回述べたように、資本主義社会が生み出した「生産概念」つまり資本の生産としての「ものづくり」とマルクスがいう、それの否定としての本来の生産概念を、完全に混同している(あるいは区別がついていない)ことの表れである。

 さらに「この事実から、生産関係の変革(必要かつ望ましい革命を含む)は、成長の果実の分配において権利を所有する人々の地位を多かれ少なかれ暴力的に動揺させることに還元されてしまう。つまり[マルクス主義的な批判に従えば]、われわれは成長の中身について理屈を述べることができるがその原理を根本から問うことはできないのである」としてマルクスの主張を資本主義と同列の生産主義であると決めつけるのであるが、その直後にこう言っている「成長と発展はそれぞれ資本蓄積の成長と資本主義の発展であり、<脱成長>は蓄積、資本主義、搾取、略奪の縮小のほかにはない。蓄積の速度を緩めるだけではなく、資本蓄積の破壊的なプロセスを逆転させるために、蓄積概念を根本から覆すことが重要である」(前掲書p.246)

 ここでラトゥーシュが言う、「成長の原理」こそ資本蓄積の原理であり、「成長の中身」こそ「資本の成長」と「それを否定した本来の社会的成長」との区別であり違いなのである。彼の「成長」の把握は転倒している。

 そして、ラトゥーシュがここで言っている「概念の変革」の主張は次のような彼の主張によって一層はっきりする。「<脱成長>は断固として反資本主義の立場をとる。それは資本主義の矛盾や生態系ならびに社会における限界を非難するという理由のみにとどまらず、なによりもマックス・ウェーバーが「資本主義の精神」を資本主義社会の実現の条件と捉えるまさにその意味において、<脱成長>は「精神」を根本から問いただすからである」(p.246)

 しかし、明白なことは、「資本主義の精神」が資本主義社会を生み出したのではなく、資本主義社会の歴史的進展が資本主義的「精神」や資本主義的「生産概念」を生み出したのだ。ラトゥーシュにおいては、まさに原因と結果が完全に逆転しているのである。

 ラトゥーシュの目指す「エコロジカル社会主義」あるいは「エコロジーの民主主義プロジェクトへの組み込み」は、政党の結成を目指すのではないらしい。彼は言う「だからといって、<脱成長>の政党を結成し、いまから<脱成長>運動を凝固させる必用があるだろうか。筆者(ラトゥーシュ)はそのように思わない。政党の存在を通じて<脱成長>のプログラムを未成熟なままで制度化することは、われわれを政党政治の罠に貶める危険がある。そのような政治は、政治アクターによる種々の社会的現実の放棄を意味し、<脱成長>社会の構築を実行に移すことを望むための諸条件が整備されないうちに、そして<脱成長>社会が国民国家を超克した枠組みの中に効果的に含まれることがはっきりしないうちに、<脱成長>の政党を政党政治のゲームに閉じ込める」(前掲書p.253)

 ある意味、現在の政党政治(左翼政党も含めて)への不信感の表れであるが、彼の主張する市民主義的(ローカリズム)で精神主義的なエコロジカル運動が、社会的生産や政治的実権を掌握し、したがってイデオロギーをも支配している支配階級の圧倒的力に対抗するにはあまりにも貧弱であり、彼がいくら過激な言葉で「精神革命」の檄を飛ばしても、所詮現体制への「補完的存在」に過ぎないものになっていることは否定できないのではないか?

 われわれはもっと冷静に現実を分析し、判断した上で、理論だった方法でしかも長期的展望に立って、現実に立ち向かうべきでなのではないだろうか?

(続く)

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