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2011年2月 1日 (火)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その現状認識)

 まず、ラトゥーシュが、現状をどのように捉えているか、そしてどのような問題意識を持っているのかを見ていこう。

 フランス哲学系論者は、たとえばボードリヤールなどのように、特有のレトリックに富んだ、入り組んだ表現が多く、私はその種のくねくねした論述が苦手であるが、ラトゥーシュはその中ではまあ分かりやすい方である。というのも彼の思想はそれほど複雑な論理で出来上がっているわけではなく、一般人にも分かりやすいのである。しかし、その中に出てくる様々な国際会議や機関の宣言やスローガン、そして最近の思想家たちの引用が多いので、その中から彼自身の見解の全体像を抽出しなければならないのが少々骨が折れる。

 ラトゥーシュは、さまざまな事例や見解を引用しながら、現在の先進諸国がそれぞれの利害を含めた合意のもとで進めている、「発展」というコンセプトを激しく否定する。ラトゥーシュは次のように言う。「...つまり(発展という概念は)1750年代から1800年代の間に英国でみられた産業革命以来の経済的実践という西洋の経験と共有する何かを表す。1949年にトルーマン大統領が模範として提唱し、その後ロストウによって理論化されたのはまさにこの経験である。この場合、発展という言葉にどのような形容詞を付けようとも、その明示的ないし含意的な内容は経済成長、つまり容赦なき競争、不平等の際限なき拡大、および自然の自制なき略奪といった、われわれが知るところのあらゆる正の効果と負の効果の双方をともなう資本蓄積のことを指す。ところであらゆる発展が右に述べた経験と共有するこの核心は、進歩、普遍主義、自然支配、事物を数量で計る合理性、といった「価値」と結びついている。発展が依拠するこれらの価値ー特に進歩という価値ーは、真に普遍的な希求には露ほども対応していない。これらの価値は西洋の歴史と結びついており、他の社会ではほとんど共有されることがないのだ。」(「経済成長なき社会発展は可能か?」p.042より)その上で彼は資本主義陣営側が持ち出す「持続的発展」や「環境効率性」というというコンセプトの欺瞞性を指摘し、それらが基本的には、経済成長や発展という考え方の修正版に過ぎないことを批判している。

 さらに、「成長や発展」が地球の自然を食い尽くし、いまやその限界的な危機が明白になっており、自由貿易のスローガンのもとで国際的資本主義市場に組み込まれた「開発途上国」の人々が、資本主義社会よりもはるかに古くからあった独自の生活形態を破壊され、「貧困化」させられているにも拘わらず、さらなる「成長や発展」の「トリックル・ダウン効果」(富者がより豊かになれば、貧者もそのおこぼれに預かれる)によりそれらの貧困を救済しようとしているかのように見せかけながら「開発・発展」を推し進めていることを激しく指弾する。

 ラトゥーシュは、「この発展概念の中にある、さほど経済的でない社会的な次元(教育、保険衛生、栄養摂取)での「人間開発」やドルで換算される一人当たりの所得額で示される「生活水準」という考え方についても次のように批判する。「ジル・セラファンが指摘していることであるが、「西洋の(理想的な)生活様式の諸要素を基本的ニーズとして捉えることは、そのような生活様式をその他の社会に内在する想念の中に象徴的に強要することを可能にする。人間開発というまさにその概念規定は、文化帝国主義からも自文化中心主義からも逃れていない。「国民総生産の増加は良いことであり、その他のあらゆる生活改善の条件である」という信仰は人間開発言説において中心的位置を占めている。...(中略)...これこそまさに近代の論理において世界の経済化を通じて西洋の経済的基準が正常に作動するようになる根拠である。グローバル化した世界では、市場価値(価格による量的評価)以外の価値は存在しないのだ。」と述べている。(前掲書p.056)

 ラトゥーシュは、「現実に起こっている発展は、経済戦争であり(勝者はもちろんのこと、それ以上に多くの敗者をともなう経済戦争である)、自然の完膚なきまでの略奪であり、世界の西洋化であり、地球の単一化である。現実に起こっている経済発展は文化の多様性を根絶やしにするか、あるいは少なくとも文化の殺戮を行うのだ。」(前掲書p.096より)

 このようにラトゥーシュの捉える現代社会のさまざまな矛盾とそれらが構造化された全体として形成されている状況は、彼自身も述べているとおり、まさに資本主義社会特有の矛盾なのである。しかし一方でラトゥーシュは、これらの成長・発展主義を根本において支える「生産主義」は、資本主義だけではなく社会主義も同罪であるとして、社会主義を否定し、マルクスの思想にも批判の矛先を向けるのである。

 これらのラトゥーシュの問題意識は次のようにまとめることができるように思う。

(1)「開発・発展」主義による自然と人間存在のトータルな破壊という現実への批判

(2)「開発・発展」主義の修正版である「持続的発展」という欺瞞への批判

(3)「開発・発展」主義のパラダイムを支える「進歩、普遍主義、自然支配、(近代的)合理主義」という(暗黙の)西欧文化中心主義の弊害と限界の指摘

(4)自由貿易主義に象徴されるグローバル資本主義経済の否定

(5)これらによる地域社会の破壊と画一化への拒否

そして

(6)資本主義への強力な批判であった社会主義もその現実は資本主義と同列の「生産主義」であり「発展主義」として否定すべきものであるという主張

であろう。

 では次にこれらの問題認識からラトゥーシュがそれをどのようして実践的にこれを克服して行こうとしているのかを見てみよう。

(続く)

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