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2011年2月10日 (木)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー5)

 ではそのような展望のもとで、われわれが獲得すべき社会のイメージはどのようなものか考えて見よう。

 ラトゥーシュは、生産主義や「労働中毒」を解毒して労働を削減し、生活は地域内での手作り生産や共同作業などで賄い、遊びや余暇を楽しむことで共愉あふれる<脱成長>社会を目指そうという。しかし、私は、社会にとって必要な労働においてこそ、それを分担する労働者の存在意義が示され、彼/彼女がそこで生きていることの意味を実感できることが、まず必要だと考える。だから労働そのものが資本主義的な疎外労働ではない、本来の労働へと、労働種の種類や個々の労働の内容において変革されることになるだろう。 そこでマルクスが資本論で描き出した労働過程が各労働部門において実質的な形で行われることになり、ここで初めて本来のデザイン的行為が各労働の過程において実現され、「共愉あふれる」労働とそれらの連帯を享受することになるだろう。したがって、今日の資本主義社会での特有な分業構成のもとで、消費財商品販売促進のために登場したデザイナーという職能はもはやそこでは存在意義がなくなるであろう。

 また、労働時間について言えば、現在資本主義体制のもとで行われている生産的労働は、実質的にはその70-80%が剰余労働として資本に搾取されているであろうと思われるので、少なくともいまの3分の1か4分の1程度の労働時間で、生活を維持し必要最小限の社会的再生産をするに(必要労働時間)は十分だろう。

 しかし実際には社会共通のファンド(障害者や高齢者の生活維持、防災、危機への備えなどなどに必要なファンドであって、資本のことではない)が必用なので、これを剰余労働の成果から拠出することになるので、実際には現在の半分以下の労働時間で社会的に必要にして十分な生産的労働が充たされるれるだろう。だから一日4−5時間働けば済むはずである。そして残りの時間は余暇として自分のやりたいことをやるか、他の人の手助けや自分の人間としての成長のために時間として費やせるだろう。そして言うまでもなく無駄な労働時間が減った分、資源やエネルギーの消費も大幅に削減されるし、無駄な生産物も作らないで済むようになる。

 問題はこうした社会的に必要な諸労働から拠出され蓄積された「社会共有ファンド」を誰がどのように管理運営するのかであるが、そのためには単なるローカルな共同体だけではなく、労働者階級全体によるこれらのファンドの管理運営を実施する組織が必要となるであろう。これは従来の資本主義社会におけるブルジョア的「国家」に代わる組織と言ってもよいであろう。

 このような社会では、要求のないところに恣意的に「ニーズ」を生み出し、それに「応えて」新商品をどんどん作って買わせようとする資本のプレッシャーはなくなり労働者階級自身が生産を直接コントロールできるので、本当に必要なものを必要な量だけ生産すれば済む体制が出来上がっており、不必要な「消費(購買)」は生み出されなくなる。だからあの膨大な量の虚偽と欺瞞に満ちた広告やCFもなくなり(従って広告産業もなくなる)、しかし製品に関する情報はユーザが求めればインターネットなどを通じていつでも入手できるようになっている。

 その代わり、一つの製品を長く使うためのメンテナンスや改造、転用などの技術が必須のものとなり、それらが今後大きな産業部門になるだろう。それにともなって製品の設計目標も大きく変化するだろう。

 一方でこれまで莫大な富として蓄積され、国際市場で資本家同士の争奪戦をドライブしていた、労働の成果物は、当然のことながらそれを生み出した人々の手に還されるだろう。もちろん個人的に払い戻されるのではなく、社会的共有ファンドとして還元されることになるだろう(実際いまわれわれを苦しめている重税や社会保障の削減などはこれが実現すれば一気に解決するはずである)。そして当然のことながら自らは何ら生産的な労働をすることもなく、際限のない欲望で資本をかき集め、世界中で労働者を搾取していた資本家階級とくに金融資本の所有者たちはこの世界から永久に消え去ることになる。したがって従来のような金融企業や証券取引企業は当然のことながら消えてなくなるだろう。

 生産部門や流通部門など社会的に必要な部門の労働者は自らその企業を運営することになるだろう。だから経営者としての労働者は存在するが、彼はもはやかっての資本家の様に利潤を上げることが至上命令なのではなく、必要なものを出来るだけ良質なかたちで必要なだけ生産する方法や過程の管理と労働者同士のチームワークの維持に全力を注ぐであろう。

 資源や土地などの人間の生活に共通に必要な自然的条件の私有化は法律で禁止されるだろう。当然、個人の生活に必要な土地や自然環境はもちろん個人の使用に供され、その裁量にまかされねばならないが、使用されていない土地を所有し、売買するようなことは禁止されることになるだろう。したがって従来の不動産業はなくなるだろう。

 擬似的な商品経済の形態は依然として残るかもしれないが、そこで商品を購入するのに使われる貨幣はもはや単なる支払い手段でしかなく、資本の一形態ではなくなっている。そして労働賃金は、労働者の生活資料と交換されるための前貸し資本としてではなく、社会的な必要労働時間を何時間働いたかによって、その労働の証明(労働証書)としての形で支払われるだろう。したがってそれが支払い手段としての貨幣の機能を果たすか、それと同等のものになるだろう。

 社会的生産を司る労働者自身が直接社会の生産や流通、消費の場をコントロールし、それを通じて社会全体の運営を行うことになるので、そこでは何の嘘も虚偽もない社会運営が労働者的な民主主義に基づいて行われるであろう。そこには資本主義社会における階級隠蔽のための擬制的共同体である「国家」ではなく、労働の全社会的結びつきとしての共同社会が存在するだろう。

 その労働者の共同社会を運営する「労働者政府」によって、民主的かつ客観的な方法で社会に必要な労働の創出と労働力の社会的配分が検討され、それにしたがって労働者が自ら希望する分野で労働を行うことができるようになるだろう。そこにはもう、就職戦線も失業もなくなるのだ。

 もちろん、こうしたイメージはあくまで「目標」であって、そこに至るまでの道筋(方法)はそのときどきの状況に応じて様々であり得る。あるときは激しい衝突が生じ、目標への接近は失敗に終わるかもしれないし、あるときはスムースに目標に近づくことができるかもしれない。これは現時点において予測することは難しい。そのような試行錯誤によって、目標を少しずつ実現に近づけ、その過程で目標自体もまたより具体化されて行くのである。

 マルクスも示唆するように、そこに近づくための運動それ自体が、担い手自身を変革して行くものでなければならないだろう。言い換えれば、いまここにある問題を上記のようなおおきな目標を射程として捉えながら、この場でできる解決に全力をあげることこそ、マルクス的な意味でのコミュニズムであろうと思われる。

(続く)

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