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2011年2月10日 (木)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー4)

 さて、ではどうすべきなのかを考えて見よう。われわれの住む国では、現在の政党政治が、ほとんど現代的な形態の資本主義社会を代表する政党であって、その右派的な部分と左派的な部分が同じ土俵で相撲をとっているのは明らかである。だからいろいろ八百長も出てくるし、確かな見通しもなく格好だけの「マニフェスト」を掲げて、選挙で勝っても実際には何も前に進まないという現状であるのは周知の通りである。

 結論から言えば、労働者階級が結束して、その立場を代表する人を政治の世界に送り出すべきであって、そのための母体となる組織が必要である。従来、労働組合がその役割を演じてきたが、その労働組合がすっかり労働者階級の自覚を失ってしまい、市民主義あるいはプチ・ブルジョア主義に陥ってしまったことで、資本家的経営者となれ合いとなり、その労働組合運動を代表すべき立場にあった政党も同様に小市民主義的なイデオロギーに呑み込まれれてしまったために、労働者は市民主義的政党にはかない期待を託すことしかできなくなっているのだ。

 その原因は、1960年代からの資本主義経済の進展(いわゆる「高度成長」)により、いわゆる「トリックル・ダウン効果」(富者が儲かれば貧者もそのおこぼれに預かれる)が可能となり、労働者が、「消費者」として位置づけられることで、高騰した労働賃金のほとんどを商品の購入にあてさせることで、消費財の生産流通を担う資本家が利益をあげ、それが起爆剤となってすべての資本家階級が潤うという仕組みが完成したからである。

 それによって次から次へと買わせる商法が一般となり、労働者は常に資本の側から恣意的に作られる「ニーズ」によって欲求をかき立てられ、まるで商品を買うことが人生の喜びであるかのような生活に浸って行くことになった。労働者はそれを「豊かな生活」と勘違いさせられているうちに、労働者階級という意識も現実的でなくなり、「消費者」という小市民意識が社会を支配するようになった。そして大量生産・大量消費体制は加速され、その結果蓄積された莫大な過剰資本は国際的な流動資本となって投機や新たな(多くはいわゆる「開発途上国」の)労働力搾取のための投資に投入され、人間存在の自然的条件である土地や自然資源が売買の対象となり、自然は破壊され、過剰な消費(実は消費されないで廃棄されることがほとんどなのであるが)による膨大な廃棄物で地球環境は汚染され、バブル経済が破綻して多くの労働者が失業するというところまで来てしまったのである。

 それでもまだ労働者は、自ら労働の場で主人公になることなど考えもせず、「市民」として選挙を通じて社会の主人公になっていると勘違いし、ただただ「会社が国際競争力をつけて、市場競争で勝ち、利益を上げ、世の中景気がよくなれば、自分たちの生活も安定する」という幻想の中に置かれたままなのである。そして日ごとに悪化する労働条件や生活事情も、景気が良くなれば何とかなるだろうとはかない希望に未来を託し、耐えているのである。しかしもう再び高度成長期の「トリックル・ダウン」は来ないだろうし、資本家代表政府の誰一人として社会の今後についての見通しは持っていないのである。

 こうした状況で、ラトゥーシュのような考え方が出てくるのはむしろ当然であると思う。つまり政治的には政党を頼らず、ローカルな生活域の自主管理から経済の仕組みを変えていくという構想、そして無駄な消費を減らして行くということ、などなどである。

 しかし、そうであっても社会を支えるには誰かが生産活動を維持しなくてはならないし、物資の流通やインフラの維持整備、そして医療や教育といった生活に必用な労働は必ず必用である。そしてそうした社会に必用な労働を支える人々が資本を媒介せずに社会の運営を直接行えるようになることが絶対に必要であるし、それは単なるローカリズムの枠組みに収まる問題ではない。

 私はラトゥーシュのいうローカリズムはある面で同意できる。例えば「地産地消」運動や、コミュニティーレベルでの自治管理や生活維持のための助け合いなど、おそらく必須のことだと思う。TPP協定などによって国際市場での農業資本の要求を呑むことは、こうした運動を破壊することであり、私は反対である。しかし、それをローカルな地域運動で食い止められるかといえば、それは絶対に不可能であろう。

 要は、実際の生活面での地域的自主管理の育成とともに、一方で進む「開国」という名目で国際資本にわれわれの生活を預けてしまうことには反対運動を起こすべきであろう。地域における生活自主管理運動は、必然的に国内全体での共通な問題をともに考え、訴える組織を必用とするだろうし、それがなければ資本家代表政府に対抗できないであろう。国際的には、「国家」の名の下に労働者階級への支配と管理を強め、国際市場での資本家同士の競争に勝つためにその労働強化を推し進めようとする資本家階級グループへの反撃の拠点としての労働者を代表する国際組織(ILOなどがあったが現在では実質的に機能していない)が必要となるだろう。

 絶対に必要な「国際化」は、各国で同じようにグローバル資本により支配され搾取されている労働者階級同士が国境を越えて手を結び、これに対抗することであり、そのためには、やはりマルクスが突破口を生み出した考え方をいまの時代に即した形で獲得し、再生すべきなのだと思う。

 グローバル資本と対決する労働者階級の代表組織は、その組織それ自体が、新たな民主主義の実践の場でなければならず、ブルジョア的民主主義ではない、労働者階級的な民主主義をその組織に中で生みだし、絶えず試行錯誤の中でそれを育てあげていかねばならないのだ。それが失敗するとかつての共産党のような官僚的統制で支配された独裁的組織に成り下がってしまうのである。

 こうした展望のもとに、危機的な状況を迎えた地球環境や資源問題とともに、社会のために働く人々が主人公であるような政府ができなければ、問題は本質的には解決しないであろう。

(続く)

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