« セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー1) | トップページ | セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー3) »

2011年2月 7日 (月)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー2)

 ラトゥーシュの掲げる<脱成長社会>への8つの"R"プログラム(前々回参照)のうち、(3)社会構造を組み立て直す、と(4)再配分を行う、はきわめて重要であり、ほかの項目と違って政治的スローガンである。彼は(3)では「「再構造化」とは、生産装置と社会関係を諸々の価値変化に応じて調整することを意味する。」と述べており、(4)については「社会関係の再構造化は、すでに事実上の再配分である。再配分は、階級間、世代間、諸個人間といった各社会の内部にとどまらず、北側諸国と南側諸国との間における富および自然資産へのアクセスの分配も含む。」そして「グローバルな消費階級」の権力と手段、特に私服を肥やす略奪者たちの寡占体制が保有する権力と手段を削減する。間接的には誇大妄想的な消費への勧誘を削減する」と言っている。

 一方で、彼は次のように言う。「<脱成長>は政治的な企てである。「政治的企て」という意味は本書では深い意味で使用されており、自立的で共愉にあふれる社会を北側諸国と南側諸国の双方で構築する企てのことを指す。だからといって、<脱成長>運動の政治的企ては議会政治のためのプログラムではない。同運動は政治家による政策政治の一部に非ず、むしろ「政治的なるもの」へあらゆる尊敬を与えるものである。そして<脱成長>は現実的な状況分析に根ざした企てを想定する。しかし、そのような企てが実行可能な種々の目標に直截に置換できるとは言えない。求められているのは、種々の要素の集合体に理論的な一貫性を与えることである。}(「経済成長なき社会発展は可能か?」」p.170)

 しかし、(3)についての「生産装置と社会関係を諸々の価値変化に応じて調整する」とは一体どういうことを意味するのか?そして(4)で言う「「グローバルな消費階級」の権力と手段、特に私服を肥やす略奪者たちの寡占体制が保有する権力と手段を削減する」にはどのようにそれを実行しようというのか?そしてさらに「「政治的なるもの」へあらゆる尊敬を与えるものである」と言うが、これは何を意味するのか?ことごとく曖昧であり、理論的ではないと思えるのだが。

 8つの"R"プログラムでの諸項目間それぞれの関係が示すであろう、<脱成長>社会の全体像が浮かび上がってこない。<脱成長>社会の全体像のイメージとその論理構造が目指すべき社会の目標として見えてこなければ、いくら「現実的な状況分析に根ざした企てを想定」をしても的確な現状分析はできないだろうし、問題の本質的な解決にはならない。<目標>があるから<現状分析>ができるのだ。

 だから、他の6項目に掲げられているきわめて卑近で具体的な提案(行動目標?)がそこから切り離されて、あたかも資本主義社会の補間にすぎない現状のエコ運動と同じレベルにしか映らない。そのため(2)の「概念を再構築する」が真っ先に重要なこととしてクローズアップされてしまうのではないだろうか?

 「概念を再構築する」ためには、まずそれができる<場>あるいは<土台>を獲得することが必要なのであって、そうでなければ「再構築された概念」は所詮資本主義社会の根元的矛盾をそのままにして表面的なその修正や回避という形を取る「補完策」(いまのエコ運動がその典型)にしかなり得ないだろう。その<土台>の獲得が生産関係の変革なのである。

 筆者は、この生産関係の変革が、かつての新左翼運動の一部で見られたような武力闘争でしかなし得ないという主張には同意できない(資本主義が独裁政権と結びついたアフリカやアジア、中南米などではそれもあり得るかもしれないが)。特にいまの資本主義社会が高度に進展したヨーロッパやアメリカ、日本などではそれはむしろ非現実的な主張であると思える。では、選挙による政権交代が唯一の手段なのかと言えば、それも違うと思う。

 例えば昨日明らかになった名古屋市長選の結果などを見ても、人々はすでにいまの政党政治に不信感をみなぎらせている。したがってこの地点でラトゥーシュの主張するような市民的運動がある意味で大きな力を持ちうるのだと思う。しかし、そういう市民運動を支えている「市民意識」がまだ即自的段階にあって、自分たちの不満をどう表現していいのか分からないのが実情なのではないだろうか?だから河村新市長もこの波にのってあまりいい気になっているとどこかでどんでん返しを受けてしまうだろう。現状での「市民意識」とはそういう危ういものなのである。

 問題は、こうした即自的な市民意識がどうすれば、マルクスの明らかにしたような歴史的な展望と使命を持った、労働者階級としての自覚にまで深められるか、ではないだろうか?自分たちが、現実には、社会的に必要な労働を行っていても、その労働の成果のおそらくは70-80%以上は資本という形で自分のものでなくなり、それらを「企業」組織という形で占有する人々(資本家)によって蓄積・運用され、自分たちを支配するための圧倒的な力として作用しているにも拘わらず、あたかも資本家たちと同列の立場で政治や社会に参画しているように見せかけている「民主主義」や「市民意識」というイデオロギー(ブルジョア・イデオロギー)の中に埋没していることに、自ら気づくことそして、そこから解放されること、これが重要である。もしこのことをもってラトゥーシュが、「概念の再構築」というのであれば、私もそれには賛成しよう。

(次回に続く)

|

« セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー1) | トップページ | セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー3) »

新デザイン論」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/50801097

この記事へのトラックバック一覧です: セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー2):

« セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー1) | トップページ | セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー3) »