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2011年2月11日 (金)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー6)

 さて、私のラトゥーシュ批判も終わりに近づいたが、ラトゥーシュが次のように言っていることは、まったく私もよく分かるのである。「...理論家は開いている扉をぶち壊すかのような感情に駆られると同時に、砂漠の中で説法をするような感覚に駆られるのである。無限の成長は有限の世界とは相容れないということ、われわれの消費活動と同様に生産活動は生態系の再生能力を超えることができないということを指摘する場合、そのような意見は大した苦労もなく他人に受け入れられるだろう。反対に、これらの生産活動と消費活動そのものを縮減しなければならないということ(フランスの場合、訳三分の二の縮減)、そしてあらゆる方面に体系化されている成長の論理(その中でも核となるのは、金融資本に対する強迫観念と中毒である)を疑問視し、さらにわれわれの生活様式も問いに付す必要があるという抗いがたい結論は、この上もなく否定的に受け止められる」(「経済成長なき社会発展は可能か?」p.134-135)

 ラトゥーシュは、このジレンマに対して、いまここで実現できそうな課題を「オルタナティブ」として掲げるのであるが、その気持ちもよく分かる。

 しかし、いかなる現実的で卑近な課題にあっても、それがどのような歴史的な展望のもとに位置づけられているのかが明らかでなければ、結局はいまの資本主義社会の修正や補間に陥ってしまう危険が常にあるのだ。

 その意味で私はラトゥーシュの提案する地道なプログラムのいくつかに関しては賛成するが、それがやはりマルクスが示した様な歴史的な展望のもとに置かれなければ単なるエピソードに終わってしまうことを危惧する。

 デクロワッサンスは日本語的な「縮退」という意味よりも、無際限で歯止めのない量的な生産の拡大ではなく凝縮された質の高い生産の発展であり、なによりもそれを生み出す労働それ自体の変革と、それに基づく人間存在の変革であると捉えたい。

 私がこうした問題を「新デザイン論」というカテゴリーに入れて論じてきたのも、いまのデザイン論や研究が単なる職能としてのデザインについての方法や歴史(それを普遍的なかたちとして捉えている)であったのに対して、それが実は20世紀後半の資本主義社会が生み出した特有の職能であって、それが資本主義社会で果たした役割はすでに資本主義社会が大きな壁にぶつかっているいまでは、その矛盾が明確なものとなり、われわれをとりまく社会全体の変化の中で再把握しなければならなくなったと感じているからである。

 職能としてのデザインの様々な形(工学的設計を含む)から単に共通要素を抽出してデザイン行為一般として論じること(例えば一般設計学のように)がデザインの普遍的なかたちの把握であるかのように考えられているが、これも実は間違っており、現実的な矛盾の否定から導かれたあるべき「デザイン的な行為」を論じるのとはまったく次元が異なるのである。

 私はその意味でラトゥーシュが彼の生涯をかけて現代社会の矛盾を明らかにし、そこからその否定としての次世代社会のデザインを行おうとしていることに心情的に大変親しみを感じるのである。だからこそ彼への批判が必要であったのだ。

 私の主張を意図的に無視し、これを単に「独りよがりな考え方」としてくずかごに捨ててしまう現在のデザイン論研究者には、私は何の親しみをも感じないのである。

 私自身「独りよがり」にならないためにも、私は、論争という形を希望する。

(完)

 

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