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2011年2月21日 (月)

世界中が動き始めた

 チュニジアとエジプトで始まった、「市民革命」の嵐は、中東全土に拡がりつつあり、また中国にも飛び火しつつある。そしてこの「革命」にインターネット網が大きな役割を果たしていることも注目すべきことである(これについては別項であらためて述べる)。

 これらの「革命」が意味するものと、それが成功するかしないかは各国の置かれた状況によって様々に異なる条件を考えなければ分からないが、一方でこれら全体に共通する「何か」が感じられる。

 それは、抑圧された人々の怒りである。おそらく地球上の総人口のうち、「抑圧されてはいない」と感じている人々に対して、「抑圧されている」と感じている人々の数は圧倒的に多数であろう。「抑圧されていない」と感じている人の比率が高い、欧米や日本のような国々では、よくその実情を見れば、それが違った形でくすぶっていることが見えてくる。

 つまり、警察や軍隊などの国家権力が人々の言論や政府の施策への反対表明を強力に抑えつける機構をもっている、という意味での「抑圧」と、生活が圧迫され、就労の自由を奪われ、孤独死に追い込まれるという意味での柔らかなしかし深刻な「抑圧」との違いであろう。

 われわれ日本に住む者は、いま中東を中心に起きている「革命」が求めている「言論の自由」はすでにそれを手にしており、そういう視点から、それらの「革命」を「見下ろす」傾向があるのではないだろうか?彼らにもわれわれのような「自由」を与えるべきだ、と。

 しかし、われわれの社会が置かれている「自由」が、国際市場競争での労働搾取への自由であり、自然資源の浪費や地球環境破壊への自由であり、それによる莫大な富の私有化への自由であり、一方搾取される側の、生産手段からの「自由(free from つまり持っていないということ)」であり、失業の自由であり、孤独死への自由であることは、だれしも薄々感じているはずである。

 国家権力による言論の抑圧が、「明示的抑圧」であるのに対して、「自由」の名における人間存在への実質的抑圧は「暗黙的抑圧」とでも呼ぶべきものであろう。

 明示的抑圧から解放された人々が、次のハードルとして「暗黙的抑圧」の段階を経る運命にある、とは考えるべきでない。それは、われわれが辿ってきた歴史を彼らが一周遅れで同じように歩まねばならないとする誤った認識であり、現在進行中の「革命」にはわれわれの置かれた「暗黙的抑圧」をも同時にはねのけるような可能性を孕んでいるのだと思う。そういう視点でいま起きている「革命」を見るべきなのだと思う。

 つまりわれわれは「高み」から見下ろすのではなく同じ現在という地平にたった「連帯」の立場にあるのだと思う。そして、実はその本質が、まさしく階級闘争なのだということを知るべきなのではないだろうか。

 われわれが求める自由はブルジョア的政党や政府が掲げる「自由と民主主義」などのような「チャチで嘘にまみれた「自由」なんかではないのだ!

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