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2011年2月 5日 (土)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー1)

 さて、以上に見てきたラトゥーシュの思想に関して、その何が問題なのかを、私の立場から述べてみることにしよう。

 まず、ラトゥーシュが反対する「成長」や「発展」がまさしく資本主義経済とそれを土台とした社会の発展であることは明らかであるし、彼自身もそれを指摘している。しかし、彼はそれに対する批判を単に、<そうでないもの>の対置でしか行っていない。例えば、「成長」に対して<デクロワッサンス>を基本とした<ポスト開発>社会の対置、「グローバル」に対して<ローカル>の対置、「生産や労働」に対して<手作り>や<余暇・遊びの対置>、そして何よりも決定的に間違っているのは、生産関係の変革の問題をどこか遠くの彼岸に置いて(彼はローカリズムの発展がそのまま資本主義社会を超えることになると考えているようだ)、もっぱら<概念の革命>を強調する。「まずは考え方を変えなさい、そうすればこの世の中はよくなるのです」と言わんばかりに!

 結局、これは資本主義社会の諸矛盾の表れに対してただその<反対の状態>を直接対置し、考え方を変えることを提案しているに過ぎず、まったく非弁証法的な「否定」である。その内容は資本主義社会の中で商品化された諸個人の「市民意識的実存」をそのままに、そのレベルでの不満を、ただ裏返してひっくりかえしただけの「反対論」なのでないか。

 資本主義社会での「市民」は社会的に必要な生産において労働を資本に搾取され、生活においてはそこで作られた商品を消費することでもその労働の成果物を貨幣に変えて資本に奉仕することが存在意義となってしまった諸個人である。ラトゥーシュも指摘しているとおり、例えば、「ニーズ」や「欲求」も実はそのような資本主義的個人の実存において資本によって作り出される「欲求」なのだ。

 だからそのような「市民意識的欲求のレベル」でにおいて「考え方」を変えようしても、また単に反対物を直接対置させてもそれだけでは現実は本質的に何も変わらないだろう。ラトゥーシュの資本主義社会批判は、一見ラディカルな言葉を使っていながら結局資本主義社会の本質を捉えきれずに、「具体的なユートピア」と称していかにも現実的提案をしているかのように見えるが、結果的にはその補間物になってしまっているという意味で「うらがえしのラディカリズム」とでもいうべきものではないか。

 ラトゥーシュが資本主義社会の本質を捉えていないというのは、次のようなことから言える。彼がいう「生産」とか「労働」とかは、まさに資本主義的生産関係におけるそれであって、資本主義社会「以後」の社会での生産や労働の内容や構造はまるで違ったものになることをマルクスは見抜いていたのである(資本論を精読すればそのことはすぐに分かるはずだ)。

 マルクスが目指していたのは、生産活動の在り方や労働の内容そのものの変革であって、資本主義的生産や労働の延長上での「生産力主義」では決してない。どんな社会にあってもその社会を支える生産活動とそれを実践するさまざまな形の労働が存在する。そしてそれらの生産活動で生み出された生産物はその社会的労働の分担に応じて分配され、消費されることによって生活が営まれる。その中で、自分が何者であるのか(諸個人の実存)は、自分がその社会を支えるどのような労働を行っているのかによって表現される。それは決して生産や労働から切り離された余暇や遊びにおいてではない。

 すべての生産や労働の内容が資本に支配され、資本蓄積のために「合理化」され、効率化され、すべての諸個人が否応なしにその資本の蓄積のために奉仕するように仕向けられる社会、それが資本主義社会である。そこでは「ローカリズム」や「非労働的遊びや余暇」までもが、バッチリ資本蓄積に奉仕させられている。ラトゥーシュはあるときはその実情を適切に批判している(「地域ブランド」などが地域同士でのあらたな競争を生むしくみにしかすぎないなど)が、一方で、それにただ「対案」を対置するだけで「変革」を起こそうとする。だが、必要なのは生産関係の、つまり社会構成の基本的構造の変革なのだ。

 またラトゥーシュは、合理主義や科学までをも否定するようなことを所々で述べている(例えば効率的な生産ではなく手作りの品を、というように)が、これはちょうど19世紀後半に産業資本主義が確立されたイギリスでの生活用品の工業生産化に対抗してウイリアム・モリスが、中世の職人の世界を再現することを目指して手作り工房を作ったのとよく似ている。しかしその運動は結局(必然的に)、高価な工芸品市場の創出と、工業化における商品の品質向上の流れに消されてしまった。

 われわれは、資本主義社会が400年かかって築き上げてきたさまざまな科学や医学、工学などの成果はそれを引き継いで行かねばならないのだと思う。しかし、それを資本主義的生産の合理化という形においてではなく、労働し生活する人々のための共有財産として、そして何よりも諸個人の実存そのものの、まったく新しい発展を可能にするためにそれらは質的にまったく異なった方向に引き継がれ発展させることが必要だろう。

 そのためには、人間とモノとの関係が「逆立ち」した資本主義社会の生産関係(人間が労働において生み出した生産物が資本として生産や労働そして諸個人の実存そのものを支配している)を「正立」させ、本来の生産関係、つまりわれわれが必要なモノを社会の構成員が自分の適性に応じて分担し、必要な量だけ作り出し、消費することで成り立つ社会という意味で、労働者自身が資本を媒介とせずに直接に社会的生産をコントロールしうる社会を取り戻すことこそが必要なのである。そのような社会での生産から消費までの合理的なシステムを考えるのが本来の経済学であるはずではないか。

 次にもう少し具体的にラトゥーシュの考え方の批判を通じて、私のイメージする資本主義以後の社会とそこに至る道筋について述べることにしよう。

 (続く)

 

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