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2011年3月19日 (土)

人間の尊厳を個々の人々が問われる時

 この大震災が突然襲ってきたとき、被災地に住んでいた人々にとっては、まさに一瞬を争う判断と、そこでの重い決断があったはずである。

 身体が不自由で動くこともままならない高齢者の人は、若い家族に助けられながら、きっと「俺のような手足まといになる人間は置いていっていいから、若い人たちの命だけは助かってほしい」という思いがあっただろう。そしてその高齢な家族を助けるために命をかけた人々は、高齢で身体が不自由であれ家族を置いて逃げることなど決してできない、という思いであったに違いない。

 そして、このような限界状況に突如としておかれたとき、人間は、一刻をあらそう事態の中で困難な判断を迫られることになる。無数にあったと思われるそうした状況を想像するだけで、胸が締め付けられるような思いになるのは誰しも同じであろう。

 そして不本意にも家族と別れ別れになってしまった人々の、心の中に重くのしかかる呵責の念は想像に絶するものがある。その呵責の念は生涯その人の心の中でまるで鉛のように留まり続けるかもしれない。

 しかし、私は思う、人間にはこうした呵責の念がある限り、人と人が協力して生きて行かねばならない「社会」というものの絆が切れることはないのだと。

 数年前、岩手の遠野を訪れたとき、村はずれに「でんでらの」という小さな藁葺き小屋があった。それはまるで弥生時代の竪穴式住居のようであった。そこにあった観光用の説明を読むと、この東北の貧しい農村では、高齢になって働けなくなった人は、自分の意志で家族から離れ、この村はずれの「でんでらの」に移り住んだそうである。そしてときどき野良仕事を手伝いに行きながら、やがてやってくる孤独な死を迎える準備をするのである。

 今回の震災では突発的な災害のなかであったが、東北の農村では何百年もの間続いたその貧しさの中で、年老いた家族がその身を自ら処する方法が暗黙のうちに出来ていたのである。

 私はこの「でんでらの」を知ったときに胸を締め付けられるような悲しみを感じたが、いま21世紀の世の中で、もしかするとそれに近い現実が起きているのではないかと思うと、明るい気持ちにはなることなど到底できない。

 無慈悲な大自然の破壊は、こうして一人一人の人間の尊厳とは何かを問うことを突きつけたのである。

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