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2011年6月14日 (火)

資本の拡大再生産から見る過剰資本の処理形態について(その6ー「成長」と「縮退」の意味)

 このように見てくると、従来「経済成長」と言われてきたことは、実は不生産的生産による浪費の拡大という形で行われた資本の成長であって、「雇用の拡大」も「豊かな生活」もそのような不生産的分野の拡大によるものであったことが分かる。しかし、それに対する反発が、セルジュ・ラトゥーシュのような「縮退(デクロワッサンス)という風に直対応で捉えられるのは大きな間違いであることも明らかである。縮退せねばならないのは、不生産的生産による浪費であって、社会全体の成長では決してない。(セルジュ・ラトゥーシュについては、このブログで私が今年の1月28日〜2月11日まで、9回にわたって述べた部分を参照していただきたい)

 社会的生産力という意味での資本の生産的成長は、すでにもう100年も前に壁にぶつかり、鈍化していたのであって、20世紀後半からの「成長」は不生産的浪費の拡大によってなんとか資本の再生産を維持してきた資本主義社会の末期的な姿であったことが分かる。

 それが20世紀末に「社会主義圏」がその道を誤って自己崩壊したことをきっかけに、普遍的世界標準の社会形態であるかのように思われるようになった。だが、その「普遍的世界標準の社会形態」は、一方で自ら膨大な浪費の拡大という形で掘った墓穴である地下資源の枯渇や自然環境の破壊という事態と、それだけ浪費しても(金融資本という形で)まだ蓄積する膨大な過剰資本をめぐって、資本家同士のその奪い合いが、グローバル市場での激烈な競争として現れ、労働者階級はそのもとで失業と過重労働という矛盾にみちた困難の中に置かれている。

 問題は、こうである。マルクスの拡大再生産表式 I(v+m)>II(c) を資本の拡大再生産として面からのみ見るのではなく、普遍的な意味での社会の成長を考えるならば、この表式での価値構成を過去の労働の成果 c、現在の生きた労働 v、そして未来のために蓄積されるべき労働の成果 m として本来の形で捉え還すならば、社会的な生産物の普遍的な条件が見えてくるのである。

 マルクスが価値の実体と本質を見いだし、それによって資本の正体を暴き出し、資本主義社会の再生産過程を商品の価値構成という面から捉えたのがこの再生産表式であると言えるが、それはまた、同時に、この価値の本質が社会的に必要な労働の量によって決まる客観的な指標として捉えられたことを通じて、価値法則に支配されている資本主義社会からの解放が、それを意図的で計画的に用いることで本来の社会的再生産を考える手立てとして用いられ得る社会の実現として想定されていると考えてよいであろう。

 つまり、社会的に必要な生産手段の生産分野における、現在の生きた労働の維持再生産に必要な生産物を生み出す労働の量と、それに加えて将来のさまざまな備えとして必要となる生産に要する労働量(社会保障や災害への備えなどの社会的共有ファンド)の和が、社会的に必要な生活手段の生産分野における、その生産に用いる生産手段の生産のために必要だった労働量よりも、大きくなることが、無駄な浪費ではない形での社会的成長の条件であるということであろう。

 このm 部分が資本主義社会においては資本家によって私有される形となっており、その私有という形においてはもはや過剰となった財によっては、本来の意味での社会的成長(いいかえれば本来の形での労働者階級の生活の成長)は不可能になり、むしろ労働者階級をも巻き込んだ膨大な無駄や浪費という形で社会的破壊の方向に向かっているということなのである。

 だから、われわれが目指すべきは、決して「社会のデクロワッサンス」ではなく、莫大な過剰資本という形で蓄積された資本家階級の私有財産(その源はすべて労働者の労働の成果である)のデクロワッサンスであり、それを本来の社会の成長へと転換させる(つまり本来その財を生み出した労働者階級全体にこれを取り戻す)ことが可能な社会システムの構築なのである。

 そこでは、市場の価値法則に任せた無駄な浪費や自然破壊はなくなり、人類全体の共有財である地球資源の合理的で計画的な使用や、必要にして充分な量の生活資料の生産や、自然災害や病気などに対する社会全体のサポートが社会的共有ファンドとして計画的に築かれ得る体制が構築され得るようになるだろう。これがもしもっと早く達成できていれば、今回の大震災にともなう人為的悲劇(原発事故による災害や震災による失業や生活資材の喪失など)は起きなかったであろう。

 さて、こうした大きな枠組みの中で、考えたとき、いま資本主義社会の腐朽化した末期的状況ゆえに、それぞれの職能という形においてさまざまな「場所的困難」に直面している労働者階級は、どうすればよいのであろうか?その問いは私にはあまりに大きすぎて到底的確に答えることはできないが、とりあえず私の専門領域であった「デザイン」(デザイン労働)については何らかの答えを出さねばならないだろう。

 これについついては、別項であらためて考察することにしたい。

(続く)

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