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2011年7月30日 (土)

「批判よりも対案を」の落とし穴

 民主党と自民・公明のやりとりを見ていると、かつて野党だった民主党の菅さんが自民党政権に投げかけた批判的質問の鋭さが、政権についたいま、今度はもっぱら批判される側に立ってまるで精彩を欠いている。しかしかつて政権党だった自民・公明の議員たちの民主党に対する批判はもはや最初から精彩を欠いている。これまで自分たちがやってきたことへの反省がなにもないのだから、もうその中身は割れているからであろう。

 こうした不毛な足の引っ張り合いの中で、いわゆる「良識人」たちや「健全なコモンセンス」を標榜するジャーナリズムが掲げる看板に「批判よりも対案を」というのがある。これはもっともらしく説得力ある看板であり、ネガティブな批判を投げ合うよりもポジティブな対案を示して議論する方が前向きだ、ということなのであるが、よく考えてみると落とし穴がある。

 それは、得てして「対案」というのは相手と同じ土俵の上で出されるものであって、その意味では本当の問題解決になっていないことが多いからだ。要は、相手の問題解決の仕方に対して同じ次元で「対案」を示すのではなく、相手が眼前の問題状況をどのような「問題」として捉えているのか、その視点そのものを問うべきなのだ。同じ問題状況(これは客観的な矛盾といえる)に対して、それをどういう「問題」として捉えているかが問われているのである。同じ問題状況でもそれを捉える立場の視点によって「問題」のとらえ方は大きく異なるし、したがって解決の方向も大きく異なるのだ。

 その意味ではいまの民主党政権と自民・公明陣営は同じ土俵で相手をつぶし合っているとしか言えないだろう。だから不毛なのだ。民主党は「マニフェスト」を掲げて政権を取ったのであれば、そのマニフェストが出てくる背後では、自民・公明政権のやってきたことへの批判をその土俵そのものをひっくるめて行っていなければならなかったはずである。本来の批判とはそういうものではないだろうか?そうでなければいまの世の中は変わらないだろうし、結局は資本家階級(産業界)優先、国民(労働者階級)への増税という方法しか解決方法が見いだせなくなるのだ。

 しなくてもよい「グローバル市場での国際競争」はそれによって一方でますます資本の増殖がもたらされ、他方でますます多くの人々を賃金奴隷化して資本に労働力を提供しなければ生きてゆけなくし、世界中の労働者たちの間に格差を生み出しながら、リッチな人々の浪費生活を促進させて、そのために地球の資源を使い果たし、資源獲得競争を激化させ、原発を「必要化」させ、地球全体に環境破壊をもたらし異常気象を起こさせている。

 このグローバル市場で取引される商品は、同じ価格で売っても労働賃金が高い国で作られた商品より労働賃金の安い国で作られた商品の方がはるかに資本家が大きな利潤を得られる。労働賃金が安い国ということは、生活必需品価格が安い国(それはその国で農業労働者が過酷な生活を強いられていることの表れでもある)であり、同じ労働時間働く労働者でも相対的に労働賃金が安く抑えられるため資本家はより大きな剰余価値部分を獲得できるからである。

 しかも、グローバル市場で取引される商品の支払いに用いられる貨幣の価値は為替レートの変動によって大きく変わる。商品をグローバル市場に出している国の貨幣の価値が上がると商品の価格が同じでもその国の資本家は国際市場での儲けが少なくなる。そのため資本家の利潤を維持するために、その国で輸出商品を作るために働く労働者の労働賃金は低く押さえ込まれ、労働時間はむしろ増加させられ、雇用は控えられ、失業者が増え、全体として生活水準は低下する。運良く首を切られなかった労働者も「国際競争力をつけるためにがんばってくれ!」という資本家たちの掛け声のもと、働いても働いても生活が楽にならない日々を生きねばならない。世の中には有り余るほどの商品があふれているのに。グローバル市場とはこのような矛盾に充ちた商品市場なのである。

 ここで確かなことは、過剰資本としてだぶついたお金のやりとりによってつねにどこかで巨額の資本が蓄積されていくことである。それはもともと直接的生産者である世界中の労働者の汗と血の結晶であるにも拘わらず、決して彼らに還元されることのない「富」であり、資本家的企業や個人投資家に所有される資本としてそれを増加させ、それが金融機関や証券市場を通じて巨額な金融資本として蓄積され、さらにあらたな金儲けのために市場へ投資され、労働者階級への資本の支配を強化しつつ、地球環境を破壊し、資源を使い尽くしながらグローバルに動き回っているということである。

 こんなおかしな世の中を目の前にして、その事実を謙虚に受け止め、根本的に問題把握の視点を変えることも出来ず、なおも、「経済成長がなければ増税しかない」などという矛盾に充ちた政策しか採れないのがいまの政府である。

 労働者階級の結束とその視点からの問題提起がなければ、このような馬鹿げた政策にただただ同じ土俵での「対案」を探すことしかできない無駄な論議が続くであろう。

 

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コメント

野口さん「批判よりは対案」をという言葉は、私もよく言われたもんだ。そこでそのことを懐かしく思い出しながらメモ的に書かせて貰うことにした。

「批判よりも対案を」にはいろいろ別の言い方がある。曰く「建設的な案」「前進的な案」「総合的な判断」「関連性のある」「経過を踏まえた」「妥協案」「解決的な方向」「可能性を含む案」「優劣の比較ができる案」等々であり、逆の言い方ならば、「テロ的でなく」「後退的でなく」等々となろう。他にも「極端なものではなく」「誰もが理解できないものや、イデオロギー的なものではなく」と云うだろう。とにかく、俺の考えに近いものを出せと言いたいだけなのだ。

もう少し議論が進めば、「人間の自由」とか「自由なる精神」「共通感覚」とかも持ち出されるだろう。「心の自由」とか「人間の感覚」「人間としての哲学」「思考方向」「寛容」「様々な心、様々な人間」「十人十色」「法律・倫理・一般概念」などの言葉遊びも登場するに違いない。「男のロマン」とか「サムライとして」とか云い出すかもしれない。

結果として、これがブルジョワ的な生活が寄り掛かるところの観念であることが明らかになる。であるから、その内容を追及して見れば、思考停止にしか行き着かない。基本的な問い直しは、「何を解決するのか。誰の問題を解決するのか。その結果、何が期待できるのか。」しかない。大抵はブルジョワ階級の問題を解決し、資本の自由を維持することだけだからである。しかも永遠に解決しえない問題をいかに先延ばしするかだけとなる。
「別の問題が生じるだけだろう。それでは解決になっていない。問題発生機能しか持っていないではないか。」と追及できるだろう。つまり労働者階級の問題であることを分からせることができるだろう。

彼等は直ぐに、「日本から脱出する」、「雇用が消滅する」、「不安や危険が増大する」 などと云いだすだろう。「日本から脱出するのは自由であり、雇用するかどうかも自由であり、不安や危険と云う条件を考慮するのも自由であり、それを防止する自由などありはしない。」と云ってやろう。「どうぞご勝手に。 いつでもやっていることではないか。」と。そのくせ、円高で海外では商売ができない、とか、中国の電力事情は良くないとか、中国は新幹線と同様原発も危ないとか云うのである。表現の自由とはいうものの、どうしたいのかさっぱり分からない。現にグローバルにやっているんじゃないのか。中国他でもあんたらはいらないと言われるだろう。韓国やインドから逃げ帰るのがオチではないか。でも帰って来るな。まあ、何が問題で、どう解決できるか分かったら、その件も考えてみよう。可能な限り最大限の努力を払う。あなたたちの口癖の範囲でだが。

大河ドラマの「江」の問題は、自分の人生を自分の感覚で生きることにある。でも翻弄される。秀吉の道具となる。何故か。封建時代の権力は土地所有系列とその石高関係で成り立っている。「江」の生活は、秀吉の土地所有で成り立っている。この問題の解決についてはブルジョワ階級的自由の獲得と言う解決しか、そこにはないだろう。作者たちの思考も多分そんなところにあるのだろう。そのブルジョワ的権力が成り立っているのは、労働の搾取である。労働者階級的解決しか歴史はもう用意していない。

投稿: mizz | 2011年8月 3日 (水) 22時06分

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