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2011年8月15日 (月)

敗戦の日の思い出、そしていま...

 今日は「終戦記念日」である。私は1945年のあのときには、疎開先の新潟の田舎にいた。小さな村で私たちが間借りしていた寺には電気も来ていなかった。まだものごころがついたばかりで、当時の日本の置かれた状況など知るよしもなかったが、唯一ラジオがある地主さんの家にみなが集まって昼から始まる「重大放送」に耳を傾けていた。みなが畏まって放送を聞いているのがなんだかおかしかった。母に聞くと、日本が戦争に負けたのだそうだ。なんだか悲しそうに泣いている人もいたが、私には、もうあの恐ろしい空襲も機銃掃射もなくなるんだと思うとホッとする気持ちだった。ただ、大好きだった、あの日の丸を付けた戦闘機がもう見られなくなるらしいと兄や姉から聞かされてがっかりした。

 その夜は、真っ暗闇の中で、遠くで村人達がたたく、盆踊りの太鼓の音が聞こえていたのを覚えている。お盆はどんなときでもやってくるのである。

 そして数日後にやってきた叔母が、「アメリカ軍が上陸してくると、女は奴隷として連れて行かれるらしい」というようなことを口走っていた。そして、「みんなで山の中に逃げるか、さもなくば自決するしかないかもしれない」等と言っていた。「毒入りまんじゅうかなんかを子供に食べさせて自決しようなんてことになったら、尚ちゃんなんか喜んでたべるだろね〜」などと冗談だか本気だか分からないことを言っていたのを覚えている。

 そしてそれから約1ヶ月後に、幸いにして自決することもなく、私たち母子は、医者として東京の高円寺に残っていた父のもとに、臨時列車で戻ることになった。猛烈に混んだ列車の長旅でクタクタになって、真夜中になんとか高円寺駅に着いたが、駅の周辺は明かりもなく真っ暗で、どうやら辺り一面焼け野が原になっているらしいことが察せられた。父が開業していた高円寺駅前の診療所は空襲で跡形もなくなっているようだった。

 クタクタになった母が私と手を繋いで大きなリュックを背負っていたが、歩く度に、リュックのなかで疎開先から持ち帰ってきた柱時計が「ボンボン」と音をたてていた。

 それからの65年間、私は、ゼロから再スタートした日本を、自分の成長過程と重ね合わせて見てきたのである。それはまさに日本という国の復興と「経済成長」と、その中で渦巻いていた矛盾そのものであった。そしていま...。

 すでに父も母も亡く、私は38年間奉職してきた大学の教員(そのうちの11年間は学生運動に関与したという理由で干されていたのだが)をリタイアし、考えることは、「これでよかったのだろうか?」という問いだけである。とりわけ、55歳にしてようやく取ったドクターで何とか教授に昇任し、「遅れ」を取り戻そうと懸命に突っ走ってきた研究活動のすべてが、矛盾に満ちたものであり、自分の本心と研究活動がどんどん離れていくことを感じていた。

 いま、何と無意味な人生であったことか、と思う気持ちと、満ち足りた人生を送れた人などごくわずかしかいないのだ、これが人生というものだ、という気持ちが交錯している。

 しかし、あの戦争で不条理な死をとげた300万人以上の人々が味わったであろう、無念の人生に比べれば、私の人生などは平和で牧歌的でさえあったとしか言えないのかも知れない。

 これから残された人生は、思い切り、自分の本心をぶちまけて生きようと思っている。

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