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2011年9月 5日 (月)

「賃労働の疎外態としての資本による生産=消費の支配」について

 前回のブログにmizzさんからコメントが付いて、もう一度読み返してみると表記の一文がキーワードとなっていながら、読む人にとっては少し分かり難いと気づいたので、少し長くなるがこの文の補足説明を行おうと思う。

 どのような社会であっても、その社会での生活を支えるために必要な生活物資の生産、そしてそれを作り出すための生産手段の生産やそれによる生産物の社会的分配などにはそれぞれに一定量の労働が必要である。これら社会的に必要な労働において、それぞれの持ち場で労働を行う労働者が、どの程度それに寄与したかを表すのが「価値」の本来の機能であるが、本質的に無政府的な自然発生的市場経済においては、価値が、需要と供給のバランスによって決まる「価格」を媒介として計られ、「交換価値」による取引が行われる。そこに、あらゆる商品と交換しうる商品として「貨幣」が登場し、貨幣が価値の「目に見える表象」として機能することになった。

 そこに、実際は過去の労働の成果を価値として表象する貨幣が、あらゆるものと交換できる能力を持ったものとして立ち現れることとなり、それを獲得し所有することを目的とする人々(資本家の原型)が登場することになった。

 市場経済が拡大し、商業資本家(ブルジョアジー)が社会の経済的実権を握るようになるにつれて、彼らは私的財産の増殖を目的とした市場での「自由な」交換の権利を主張し、それを基礎に、あらゆる過去における他者の労働の成果を私的に獲得し所有することが「合法的」な権利として認められるようになったのである。これが近代的「個」と「自由」の発生の土台である。

 さらに、資本家たちは、市場に流通する商品のみならず、社会的生産そのものまでも、私的財産の増殖という目的のための手段とするようになった。そして古い職人的生産体制(ギルド)は作業機の並んだマニュファクチュア的分割労働工場に変質し、やがて機械制大工業の中で機械の動きに従属する労働者を生み出していくことになった。その結果、社会的に必要な生活資料はすべて資本家的企業で商品として生み出されることになった。

 そこでは、「等価交換」が経済的ルールとして確立され、労働者の能力も商品として扱われるようになり、その労働力商品の価値は、彼らが労働力を維持し翌日もそれを資本家に提供できるようにするために生活の中で消費される生活資料の価値で決められ、これが労働市場(資本家と雇用関係を結ぶ就職戦線)で決められ労働賃金として支払われるようになった。しかし、労働力商品は、他の「もの」としての商品とは異なり、自ら労働において新たな価値を生み出す商品である。したがって、その労働賃金で支払われる価値を超えて新たな価値を生産物に付け加えることができる。つまり労働力商品は決して「等価交換」されてはいない。そしてこの労働力商品としての価値(賃金で表される)を超えて生み出された剰余価値部分を無償で資本家が獲得することになり、これが社会常識として「合法化」されることになったのである。資本家はこの本来なら社会的な共有財であるはずの剰余価値を私的に収奪することによって財産を蓄積し、それを新たな投資先に回すことができるようになるが、労働者はつねに自らの労働力を資本家に売りに出さねば生きてゆけないことになるのである。

 こうして、本来、労働者たちが生み出したはずの労働の成果が資本家の私的財産として収奪され、それが自分たちに対立する存在となり、自分たちを労働者として雇用し働かせ、ふたたび剰余価値の不当な収奪を可能にさせている、というのが、「賃労働の疎外態としての資本による生産の支配」の意味である。

 ところで、こうした産業資本主義経済体制は、19世紀末にはその矛盾を露わにし、資本を投資してもそれに見合うだけの利潤が得られなくなるという現象が現れる。過剰資本の形成である。それは従来よりも経済恐慌を長引かせた。それに対して、それまで、産業資本家などの遊休資本を有効に活用させるために機能していた金融資本家が、過剰資本を金融資本のもとに(株式会社などという形を駆使して)吸収し、それをそれまで産業資本家にとって投資の対象にならなかったようなあらゆる領域にまで投資することで、何とか過剰資本の圧迫から逃れると同時に、金融資本が資本主義社会の支配権を確立していった。

 しかしそれでも過剰資本の圧迫は資本家に重くのしかかり、第一次大戦と第二次大戦という大量殺戮とそのために必要な膨大な軍需生産(労働者階級の大量死と破壊をもたらす武器)という大量な不生産的生産によってなんとか息をつないできたのである。

 しかし、第二次大戦直前に、ついに世界的金融大恐慌が訪れ、崩壊の危機に立たされた。そしてこのとき、ケインズらの提唱する「有効需要の創出」という新たな方向に活路を見いだすことになったのである。それはそれまでのように「生産」に重きを置くのではなく、逆に「消費」に着目することで「消費主導型」の資本主義体制を再構築し、過剰資本の圧迫から逃れることであった。それによって20世紀後半の資本主義社会は大量消費→大量生産体制に邁進し、消費財産業と軍需産業という2大「不生産的分野」に莫大な投資をすることで「幻影の繁栄」を築くことになったのである。

 そこでは「賃労働の疎外態としての資本が生産のみならず消費をも支配することとなったのである。そして実際には直接的生産過程で労働する労働者階級は「消費者」と呼ばれるようになり、生産手段を所有するだけで生産的労働を行っていない資本家が「生産者」と呼ばれるようになった。いわく「消費者は王様!」。

 しかし、その結果、いまの資本主義経済体制の「支配的階級」を代表する政権は、一方で大規模な環境破壊や資源枯渇が進んでいることを認めざるを得なくなっているにも拘わらず、他方では「消費拡大こそが経済活性化のカギである」「にっぽんを元気にするためには消費の拡大を!」と主張するという全くもって矛盾に充ちた経済政策しか推し進めることが出来なくなっているのである。そしてにっちもさっちも行かなくなると、一方で世界中の投機家や金融資本家が争奪戦を繰り広げている莫大な流動過剰資本(もともと世界中の労働者階級が生み出した富である)には手もつけずに「増税」を持ち出し、労働者階級からさらに社会的資金を絞り出させようとするのである。

 このように支配的階級によって恣意的に生み出されてきた「虚偽のイデオロギー」をあたかも普遍的既成事実のように見なそうとする、最新流行のオピニオンはことごとく信用してはいけないのである。

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