« 2011年2月27日 - 2011年3月5日 | トップページ | 2011年3月20日 - 2011年3月26日 »

2011年3月13日 - 2011年3月19日

2011年3月19日 (土)

人間の尊厳を個々の人々が問われる時

 この大震災が突然襲ってきたとき、被災地に住んでいた人々にとっては、まさに一瞬を争う判断と、そこでの重い決断があったはずである。

 身体が不自由で動くこともままならない高齢者の人は、若い家族に助けられながら、きっと「俺のような手足まといになる人間は置いていっていいから、若い人たちの命だけは助かってほしい」という思いがあっただろう。そしてその高齢な家族を助けるために命をかけた人々は、高齢で身体が不自由であれ家族を置いて逃げることなど決してできない、という思いであったに違いない。

 そして、このような限界状況に突如としておかれたとき、人間は、一刻をあらそう事態の中で困難な判断を迫られることになる。無数にあったと思われるそうした状況を想像するだけで、胸が締め付けられるような思いになるのは誰しも同じであろう。

 そして不本意にも家族と別れ別れになってしまった人々の、心の中に重くのしかかる呵責の念は想像に絶するものがある。その呵責の念は生涯その人の心の中でまるで鉛のように留まり続けるかもしれない。

 しかし、私は思う、人間にはこうした呵責の念がある限り、人と人が協力して生きて行かねばならない「社会」というものの絆が切れることはないのだと。

 数年前、岩手の遠野を訪れたとき、村はずれに「でんでらの」という小さな藁葺き小屋があった。それはまるで弥生時代の竪穴式住居のようであった。そこにあった観光用の説明を読むと、この東北の貧しい農村では、高齢になって働けなくなった人は、自分の意志で家族から離れ、この村はずれの「でんでらの」に移り住んだそうである。そしてときどき野良仕事を手伝いに行きながら、やがてやってくる孤独な死を迎える準備をするのである。

 今回の震災では突発的な災害のなかであったが、東北の農村では何百年もの間続いたその貧しさの中で、年老いた家族がその身を自ら処する方法が暗黙のうちに出来ていたのである。

 私はこの「でんでらの」を知ったときに胸を締め付けられるような悲しみを感じたが、いま21世紀の世の中で、もしかするとそれに近い現実が起きているのではないかと思うと、明るい気持ちにはなることなど到底できない。

 無慈悲な大自然の破壊は、こうして一人一人の人間の尊厳とは何かを問うことを突きつけたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月18日 (金)

もはや事態はすでに計画経済体制である

 大震災から1週間たって、いよいよ社会の危機的状態が深まってきた。原発事故を含む発電施設の破壊、それによる電気エネルギーの供給不足、石油精製施設の停止、道路鉄道網の破壊、それらによる石油製品の供給不足。その結果東日本全体でエネルギー供給と物流システムが麻痺状態になってきている。まず、被災者への救援物資が届かない。原発事故で広い範囲が屋内待避地域になっていて、そこに生活する人たちへ物資が届かない。原発はますます危ない状態になっている。そして首都圏をはじめ地域の生活が電気、ガソリンの不足から物流が乱れて、買い占めが起き、生活必需品の供給が滞り始めた。

 こうした事態を乗り越えるためには、「自由市場」を前提とした経済システムはもはや何の役にも立たない。政府が主導して計画的にエネルギーや物資の供給・流通をコントロールする計画的経済システムを実施しなければ混乱を深めるばかりだ。一時的には、配給制のような事態も考慮しなければならないだろう。また消費物資の一人当たりの購入量の制限など政府や自治体が主導権を持って行わねばならなくなってきている。

 このような状況では、まず、つねに的確な状況把握ができるようにしておくことが必要なのは言うまでもないことであるが、限られたエネルギー源の供給に関して、供給先の優先順位をつけること。しかもこの優先順位は状況の変化に応じてフレキシブルに変えられること。生活必需品(医療品を含む)自体の優先順位をつけておくこと。それにより、もっとも優先順位の高い生活必需品から順に上記の優先度の高い供給先にそれを輸送する方法を考えること。その際に、どこの供給先にどれだけの量の生活必需品物資が必要かを見極めておくこと。

 さらに、生活必需品の生産・確保に要する労働力を確保できる体制をつくっておくこと。そのためには、生活必需品生産・確保のために要する労働内容が誰にでも可能な形になっているべきである(資本主義生産体制の中でパート労働や非正規雇用という形で供給される得る単純な労働内容がここでは資本のためにではなく社会全体のために威力を発揮するのである)。

 そしてさらに言えば、その状況においてさらなる事態の悪化に備えて、避難先などを確保しておくこと。避難先が確保できなかった場合の処置を考えておくこと。例えば安全避難場所をあらかじめ考慮しておくこと。そこへの必需品の輸送ルートを確保する手立てを考えておくことが必要だろう。

 状況はダイナミックに変化するので、上記の要件間の動的な相互関係を考えられるようにしておくことが必要である。こうした要件の相互関係の動的変化に対しては本来ならばあらかじめシミュレーションができるシステムを作っておくべきであろう。

 もちろん、これは言わば「非常時経済体制」であるが、常態的な社会経済体制の中でいつでもこうした「非常時体制」に切り替えることが可能でなければならない。このような体制ではもはや市場での競争という観点は障害以外の何物でもない。

 社会的に最低限度必要な経済原則は、限られた資源(リソース)をいかに無駄なく有効に使って、必要な物資を必要な量だけ生産し、それらを必要な場所に確実に分配するか、であり、それを実施するために必要な労働力をいかにうまく配分するかである。

 こうしたシステムが生活する人々すべての合意と協力によって確立するときに、そこに本来の経済原則を実施する社会システムが成り立つのである。

 われわれはいま、大災害による社会の危機を目の当たりにして、これまでの資本主義経済がいかに根無し草のような繁栄をおごり、それによっていかに無駄な消費を繰り返してきたかをいやというほどに思い知らされているのである。

 そして今日のニュースにもあったように、円ードル為替レートが、投機筋の思惑買いによって国際為替市場でおおきく円高に移行し、それによってただでさえ困難な状況にある日本の企業での生産活動が危機的な状況になることが予測され、G7各国が協調介入を行って、為替レートをを維持しようとしている。

 これはまさに「自由市場」のエゴの本質とその社会的機能の限界を示している事件だと思う。もうすでに世界資本主義は各国政府などの国際機関によるコントロールなしには、アダム・スミス的自由放任主義市場メカニズムが破綻を来しているのである。

 いまや私的利害の追求を基本とする資本主義的「自由市場」経済ではなく、それを部分的に含んださらに大きな枠組みでの国際レベルでの計画経済を考えて行かねばならなくなっているのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月17日 (木)

株式市場と為替相場は誰の味方か?

 大震災とその後の原発事故などによる電力供給不足は、長期に渡って、日本経済が危機に陥ると見た投機筋は、一斉に日本株の「売り」に走った。そしてその反作用で円ードルレートは一気に1ドル=77円台まで円高が進んだ。

 両方の動きの関連性については専門家の分析を待つしかないが、ここで言えることは次のようなことではないか?

 現在の企業の大半は株式会社であり、株券を買ってもらうことで資本を調達して企業の経営を成り立たせている。そして企業の利益に応じてその配当を株主に分配する。さらに株主はその株券を証券市場で取引し、そこから得られる証券価値(本当は証券の価格)の差益によって、巨額の金を儲けている人たちがいる。投資家である。この投資家たちは投機的な思惑で金儲けをしている人々であり、株式市場での証券価格は、思惑で動いている。だから企業の業績が悪化し、利益率が下がるという予想が立つときには、その企業の株券は株式市場での価格が下がらないうちに売らねば、損をすることになる。一方で、安くなった株を買っておけば将来それが高く売れれば儲かるので、売られた株を買う投資家もいる。

 そのような投資家の思惑による株式証券市場の「需要と供給」バランスによって、株の価格は決まるのだが、今回の大災害のような場合は、災害の影響を受けた企業の利益率が下がることが確実であり、それは当分戻らないことも確実であるために、一斉に「売り」が始まり、株価が大暴落するのである。

 今回の大災害では、各国からの支援の申し出があり、これには本当に感謝するが、それと同時に、国際的な金融・証券市場での日本からのマネーの撤退は、日本の企業にとっては痛手となり、復興のための活動に大きな支障を来すであろう。

 これをみても明らかなように、株式市場や為替相場で巨額なマネーを動かしているのは投資家や金融機関である。彼らは、自分たちの利益のことしか頭にない。日本の経済が崩壊しようと、それによって何千万もの人々が生活に困ろうとそんなことは一向にかまわないのである。日銀が「資金不足」を補うために20兆円もの金を金融機関にばらまいたが、その金は一体どこに行くのかを見極めるべきだろう。

 もはや、私的な利益を追求することでマネーを追いかけている連中のために、そのマネーの「元手」である価値を労働によって生み出した絶対多数の労働者の生活を奪うような経済体制は完全に破綻している。われわれは一刻もはやくこのような資本主義経済体制を「卒業」すべきではないのか?

 少なくともいま金融資本は「損」を覚悟で復興のための生産活動に、持てる資金をすべて拠出すべきである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月16日 (水)

原発労働者を犠牲にする厚生労働省はだれの味方か?

 さきほどのTVニュースによると、危機的になっている原発事故の最前線でその対策処理に当たっている現場労働者に対する、放射線被曝上限の規定が、急遽改正され、100ミリシーベルト/hから250ミリシーベルト/hに引き上げられた。この数値はあきらかに身体的に大きな害を及ぼす値である。

 一体これは何なのか!原発事故が社会的に与える影響が甚大であることは分かっているが、それを必死に処理しようとしている労働者がそのために犠牲になってはいけないのは当然である。

 しかし、今回の急遽上限規定の改訂は明らかに、「この危機に当たって社会のために現場労働者の生命を捧げてくれ」という政府のメッセージと受け取れる。

 この規定改訂の背景は明らかにされていないが、これは大変な問題であると思う。いかに原発事故が危機的な状態であっても、あってはならない規定改定である。これを「あたりまえ」として見過ごすことは決してできない。こんな勝手な規定改定があってなるものか!

 厚生労働省は決して労働者の味方ではないことがこれで明白となったではないか!

Mar.17 10:40 追記

原発内部でもっとも危険な事故処理の最前線を担っている労働者は、東京電力の職員ではなく、下請け企業の労働者であるようだ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

原発事故を巡る状況の真実

mizzさんからのコメントによると、次のようなことであるらしい。

「私が追加的に触れて置きたいことは、緊急に立案検討しなければならないであろう計画についてである。まずは福島原発の大きさである。
チェルノブイリ 100万kw(発電出力 以下単位同じ)
スリーマイル 95.9
福島1 1号 46
同 2-5号 78.4
同 6号 110
福島2 1-4号 110
福島総計 909.6
特に3号炉は、プルトニウム(MOX)燃料を使用しておりウラニウムより核分裂率は高い。先例に較べて約9倍を越える放射線事故が想定されることを知らねばならない。
 津波被害者の生活維持、福島原発のクールダウンに次いで、世界最大の計画的避難を検討しなければならないはずなのである。風下側約100km範囲の段階的避難の実施計画そのものである。もしかしたら、250kmの範囲も考えなければならない。世間を騒がすようなことは控えよと云われると思うが、人間の頭脳の単純な予見もまたあらねばならない。云って置かねばならない」
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これは重大なデータである。これを知れば、政府の発表がいかに事実を明らかにしようとしていないかが分かる。

 最新の情報では、3号機に空中から散水するために飛び立った自衛隊のヘリが、上空の放射能が許容範囲を大幅に超えていたため中止されたそうである。したがって内部では炉心溶融が進んでいると思われ、すでに手がつけられない状態とも考えられる。少なくとも二つの原子炉が炉心溶融のため、やがてメルトダウンの状況に陥る危険性がきわめて高いと言えるだろう。

 さあ、政府はどうするのか!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

この大災害の教訓を計画的経済体制への転換点にしよう!

 前回も書いたが、東北関東大震災とそれにともなう重大な原発事故によって、首都圏を含む東日本の経済は混乱状態になっている。

 まずは災害地への救援活動を優先させることは言うまでもないことだが、原発の事故処理はそれと同等の優先実行事項であろう。しかし、これらの優先実行事項をバックアップする経済活動がしっかりしていなければならない。ということは、直接災害を受けていない多くの人々の生活も維持しながら、優先事項を実行させねばならないということである。

 こうした場合に、はるか70年も昔に行われた戦時経済体制を教訓的に思い起こすことも必要であろう。災害地や原発事故地点はまさに「前戦」である。そしてそれをバックアップするわれわれは「銃後の守り」である。銃後から前戦への兵站補給(ロジスティック)を計画的に行うことが決定的に重要である。これらの状況で、可能なリソースの確保と、その必要場面への分配、配送とそれに必要な機材や労働力を確保することなど、を状況の変化に即応しつつ適切に行わなければならない。

 皮肉なことに、あの人類史上最大の「人災」であった第二次世界大戦の教訓がいま未曾有の自然災害の場面で適用されざるを得なくなっているのだ。

 戦時中はいわゆる統制経済体制で、「銃後」の人々は食料品や衣料品の配給によって生活を営んでいた。そこではいまのような「自由市場」はほとんど壊滅していたのである。また「ヤミ米販売ルート」などのような非合法の流通経済が裏で行われ、それによって不当な利益を獲得していた連中もいた。戦後しばらくはこの「非常時経済体制」は続いたが、やがて「自由市場」が復活し、朝鮮戦争特需を引き金として昭和30年代の「高度成長期」へと移って行ったのである。

 しかし、いまやかつて「高度成長期」をもたらした消費主導型「成長経済体制」は世界的に限界を露呈しはじめている。一方で「消費拡大による経済成長がすべてを救う」と言いながら、他方でそれによって地球資源の枯渇や環境破壊を急速に押し進めているという、誰の目にもあきらかな矛盾が現出しているのである。

 中国やインドのような人口が多く、「先進資本主義国」に比べて労働者の賃金水準が低い国々は、資本市場が国際化することによって、労働力商品の価値が国際的に比較できる労働力商品の「価格の差」として表れることになり、相対的に安い商品を国際市場に送り出す結果となり、それによってそれらの国々の資本家たちは莫大な利益を上げている。いまや金融資本の支配下で「金貸し国家」となった「先進資本主義諸国」の経済はこれらの「開発途上国」の低賃金労働による莫大な利益の分け前なしには成り立たなくなっている。しかも中国やインドなどの「開発途上国」の経済は「先進資本主義国」の大量消費によって成り立っているという、奇妙な相互依存関係が成り立っているのだ。しかし、この状態は一方で「大量消費」=「天然資源の浪費と自然破壊」という矛盾した現実があるから可能なのであって、決してその状態を永久に維持できるものではない。

 したがって、これは世界経済における資本の永久的「成長」を前提とした「自由市場」の全面的支配がすでにその限界を露呈していると言えるだろう。「持続的可能な成長」というコンセプトはその根本においてラトゥーシュも指摘しているような「欺瞞」があり、消費主導型資本主義経済体制のもつ矛盾を克服し得ないものである。

 そのようなときに、今回の大災害が起きたのである。そしてその大災害の中でそれを克服するためにはもはや「自由市場」ではなく、コントロールされた計画的な経済体制が必須であることが証明されつつあるのだ。

 この厳然たる事実に、われわれはどう向き合うべきなのかを考える必要があるだろう、おそらく災害が復興すればもとの「自由市場」支配の経済体制が一時的に復活するだろうが、それはそのまま永続できるものではない。いずれ世界的な資源の枯渇と自然破壊が限界に達し、それにともなうガソリンの不足、エネルギー不足そして食料品供給不足などが必ず起きてくる。それに対して従来のような資本主義的な「自由市場」経済は、ただ投機や私的利害の奪い合いによる経済の大混乱を生む(今回の株式市場の状況を見ても明らかなように)以外何ら役に立たないことは明らかである。

 政府はいよいよ本気で将来の日本の経済体制の計画的なありかたを考えねばならなくなった。それはもちろんかつての軍部主導の「戦時経済体制」ではなく、完全なシビリアンコントロールのもとに置かれた計画的経済体制でなければならない。そういう意味で今回の大災害は、歴史の大きな転換点として捉えるべきなのではないだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年3月15日 (火)

迫り来る原発危機を巡って

 ずっと継続していた福島第一原発の危機的状態が今朝早くから一層危機のレベルが高くなった。1号機から4号機まですべての原子炉が異常を来し、原発の事故処理を行っている労働者以外の従業員が避難命令を受けた。

 事故処理中の労働者はまさに命をかけてこの危険な作業を行っている。彼らはおそらくこの事故が拡大することによって起こりうる重大な事態に対する自分の仕事への使命感によって自らの命をかえりみずこの危険な作業を進めているのであろう。まったく頭の下がる思いである。

 それに引き替え、記者会見で発表する東電の役員たちの発言は、人々に過大な危機感を抱かせないようにすることと、不都合な事実はなるべく公表したくないという思いで頭の中が一杯のようだ。政府の発表もパニックを起こさせないようにすることを第一に考慮しているようで、そのため、必要以上に危機が過小に評価されている嫌いがある。

 TVで報道される専門家の意見などを総合し、私自身の知識に基づいて判断すると、願発事故により外部に拡散する放射性物質は、原発を中心に描かれる避難地域の円ではなく、そのときの風向きと風の強さによってこれを大きく超えて拡散するはずである。現時点でかなり強い北東の風が吹いており、おそらく時間的にみてもそろそろ首都圏にその影響は現れているのではないかと思われる。しかし、NHK-TVの報道や政府の発表ではそのことに一言も触れていない。

 しかし、恐ろしいのはその後に来る可能性が大きい、より深刻な危機である。4機の原子炉がいずれも大量の放射性物質を放出し始めた場合、その影響は計り知れないものがある。政府は最悪の事態を想定してその事態に対処することを準備すべきである。しかしわれわれには、その気配すら感じられないのである。

 株価が9000円を割ったなどとニュースで大騒ぎをしているが、われわれにとっては株式市場などなくても生活できるはずである。要は、必要な物資は何であり、どれだけ必要なのか、それをどうすれば獲得でき、どうやって必要な場所に運んで必要としている人々に供給できるのか、そしてそれを妨げる問題や危機にどう対処すべきなのかである。

 変な言い方かもしれないが、こういう事態に対して資本主義的自由市場の原理はまったく通用しないのである。完全に計画的な供給システムを構築しなければならないのである。そこに国家機能をどれだけ有効に注ぎ得るかを考えなければならないのである。それに必要な情報は「不都合な数値や事態」をも含めてすべて公表されねばならないはずである。これこそまさに計画経済の基本的形態なのである。

 大震災に続く原発の大事故という未曾有の危機において、すでに市場主導による資本主義経済の原理の無力さが日々如実に証明されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月14日 (月)

大震災におけるインフラ企業と株式市場の対応

 震災後3日目になるが、未だ被害の全貌は明らかでない。地域行政の中枢である町役場や市役所が津波に押し流され町や市の半分以上が壊滅してしまったところでは被害状況の把握すらできないからだ。津波の後のがれきの下や沖に流された多くの人々の数はどれほどになるか想像もつかない。

 ここで問題なのは、福島原発を持つ東京電力の対応である。「想定外」(そもそもこういう事態を想定できなかったことがすでに問題である)の津波で起きた事故という言い訳のもとに、次々と起きるバックアップシステムの不具合とそれによる炉心溶融、核物質の大量拡散の危機を抑えられないとは、なんたることだろう!

 おそらく、原発の現場で働く労働者たちは命がけでこの事故の処理に掛かっているはずである。現に1号機の爆発の際、閉じ込めれれて死んだ労働者がいた。経営者たちは電力消費者たちからのクレームに押されて、現場の労働者に猛烈なプレッシャーをかけているに違いないのだ。

 東京電力の発表は要点を得ず、これを固唾を呑んで見守る何千万の人々に対する理解を得ることは到底出来ないものであった。そしてまだ危機的状態は持続している。その一方で原発使用不能による電力供給不足が起き、「計画停電」を行わざるを得なくなったとその実施直前になって急遽発表。しかもその地域割りと時間の一覧も一般の人々に的確に伝えようとする意図がまったく感じられない。さらにその「計画」事態がコロコロ変わり、首都圏で震災後初めて職場に向かおうとする人々を大混乱に陥れた。

 まだマグニチュード7程度の余震が発生する確率が70%もあるというときに、首都圏の鉄道やインフラ運用に関わる電力供給を一時的であれストップするというのは大変な混乱を及ぼすことは誰でも分かることである。

 なぜあのような機械的で安易な地域割りで一律に停電を行うのか? 鉄道や重要社会インフラを最後まで維持しながら、優先順位を決めて停電することができなかったのか?原発事故の対応を含めて、東電の危機管理はまったくめちゃくちゃである。

 ここで政府は、電力供給の意志決定のイニシャティブを東電から政府の災害対策本部に移行させるべきではないのか?

 そして再開された東京株式市場は、予想通りの大幅な暴落。株式市場に巨額の金を投資して、巨額の利益を追い求めている連中には、この大災害もただ「損を最小限に抑える」という意識でしか捉えられないらしい。そしてこうした連中が国の経済や国際市場での取引で主導権を持ち、災害の危険な状況の中で社会的に必要な労働をそれぞれの持ち場で懸命に行っている人々の血と汗の流れを支配しているのである。

 大災害の中で懸命に自分の持ち場を守りつつ亡くなっていった多くの人々にこころから哀悼の意を表したい。そしてこの危機に何らの対応も出来ず現場の労働者にプレッシャーをかけることしかしないインフラ企業の経営陣や自分たちの利益を守るためにこの大災害を利用しようとする連中は、もはやわれわれにとって何の存在意義のないことを主張したい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月13日 (日)

無慈悲な大自然

 3月11日の午後2時半過ぎ、私はいつものように自転車で街を走っていた。すると何だか様子がおかしい。電線が揺れている、「地震だな」と思いながら走り続けている内に、地面が左右にゆらゆらと大きく揺れ始め、ハンドルをまっすぐに保つことが出来なくなった。電柱は大きくしなりながら揺れ、電線がバタンバタンと音をたてている。揺れはますます大きくなり、周囲の住宅のきしむ音がごうごうと鳴る。電柱からトランスが落ちてくるのではないかとヒヤヒヤしながら蛇行運転した。

 何とか家に帰って、家内に「すごかったな」というと、家の中でも揺れていたとき壁につかまっていたが戸棚が倒れてくるかと怖かったらしい。しかしなんとか戸棚は倒れなかったようだ。

 TVを観ると地震速報が始まっていた。しばらくするとヘリからの映像が映し出された。名取川の河口から津波が押し寄せてくる映像だ。川を逆流する津波と同時に海岸から一気に上陸した津波が住宅を破壊し巻き込みながら、ものすごい泥流になって次々と住宅や自動車を呑み込み、ついに川の堤防を越えて住宅や自動車などのがれきの山を川に落とし込みながら、川を逆注してきた津波と合流する。私は声もでなかった。ただただ自然の想像を絶する猛威の無慈悲で途方もない破壊力の前にこうべを垂れるしかなかった。

 これはSFドラマやCG映像ではない。本当の現実なのだ。突然途方もない大災害が実際ににやってきてしまったのだ。

 時が経つにつれて明らかにされていく被害状況や、次々と映し出されるおそるべき津波来襲の映像は、目に焼き付いておそらく生涯忘れられないほどの恐怖のインパクトを与えた。

 そして、危険が予測されるにも拘わらず、われわれの生活に必要な電力を供給するという名目で造られてきた原子力発電所が、その自然の無慈悲で桁外れの力の前にもろくも危機的状態に追い込まれ、核物質拡散の巨大危険物になることを現実に示したのだ。

 おそらくは一瞬にして一万数千もの命を奪い、家族や身近な友を失った多くの人々の悲しみそのものをも丸ごと呑み込んで、また何事もなかったかのように引いていった津波に対して、われわれは、どうすることもできなかったのだ。日々の生活を営々と営み懸命に生きる人間の世界のことをあざ笑うような大自然の無慈悲な仕打ちである。

 しかし、大自然とはそういうものなのだ。あるときはわれわれに自然の恵みを与えてわれわれの生活を成り立たせ、あるときはそのすべてを奪い去って行く。われわれ人類も自然の一部でしかないことを、いやというほどに思い知らされる。われわれは、決して自然の法則性を超えることはできないのだ。

 だが中東で繰り広げられているような、圧政に苦しんできた人々の革命運動とそれを踏みつぶそうとする独裁権力者たちの無差別攻撃と、この大自然の無差別な破壊とはまったく異なる無慈悲さを感じる。独裁者の無慈悲さは、人類の歴史の流れに逆らおうとする者が、結果的には自らの愚かさを歴史に残すために行う無慈悲さである。しかし大自然の無慈悲な破壊は、自然の法則の下にその無差別さを発揮するのであって、われわれ人類はその法則性を理解することの必要性とその意味の深さを大自然から思い知らされる。それは大自然の一部であり、その法則性のもとに生きる人類の歴史的使命を突きつける無慈悲さなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年2月27日 - 2011年3月5日 | トップページ | 2011年3月20日 - 2011年3月26日 »