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2011年3月27日 - 2011年4月2日

2011年4月 2日 (土)

今後の日本社会を考える(その4 状況 )

 これまで述べてきたような「目標」がただちに実現されるとは誰も思わないだろうし、それは当然のことである。しかし、矛盾の根源とその構造が見えてきたときに、それを克服する(その否定として)ための方向として、こうした「目標」の設定はきわめて重要である。問題はその目標に近づくために、いまわれわれが置かれている状況をどう把握し、どのような方法で、一歩でも目標に近づけるのかを考えることであろう。まさに普遍的な意味での「労働する人間」のもつ「デザイン能力」が問われているのである。

 現在の状況を正確なデータにもとづき的確に把握することは、私のような個人に出来る範囲を超えている。しかし、不十分なデータによっても目標さえ間違っていなければある程度、正しい方向付けは可能であると思う。

 世界全体から見ると、今回の東日本大震災の被害や直接的影響は局部的なものであるといえるだろう。しかし資本家的企業の商品市場における影響は決して局部的ではなく、かなり世界的な影響を与えている。先に挙げた例のように、東北地方のハイテク技術を持つ中小企業で製造される部品の生産がストップしていることで、それを用いた製品を製造するアセンブリー・メーカーが生産できなくなり、それは国境を越えて世界的に影響を及ぼしている。そして国際市場競争に対応するためにこの東北地方からの部品供給を待つことの出来ないメーカーは別の国々からの相当品の供給に切り替えつつある。一部の国での部品メーカーをはじめとした資本家たちは、この機に乗じてビジネス・チャンスを掴み、日本の企業のお株を奪い取ろうとしているのである。その結果、東北地方の部品メーカの多くは再び立ち上がることが出来ないほどの打撃を受け、倒産する企業も今後急増すると思われる。

 そこで働く労働者は失業し、その家族はただでさえ家族や家や財産を失った悲しみに加えて仕事をもぎ取られるのである。いくら善意のボランティアの人たちが支援を行おうとも、資本の論理は冷酷にそれらの労働者を見殺しにするのである。

 そして原発から放出される放射性物質をかぶった農作物や魚介類は、市場から姿を消し、それらを生産している農家や漁業関係者は多大な損害を被っている。

 そしてさらにこうした国内の生産拠点の一部が崩壊し、日本の資本主義経済体制が危機的な事態となりつつあることを見越して、世界中の金融資本家や大株主たちは、日本企業の株を売りにだす。グローバルな資本の争奪戦に加わる資本家たちの行為は実にリアルで冷酷である。ただ競争に生き残り利益を保持し増やすことだけが絶対的な判断基準なのである。そして世界中の資本家的企業はその動きに振り回され、そこで労働力を提供している労働者たちはつねに失業と生活の喪失の恐怖のもとに置かれながら「国際競争力をつけるために」という至上命令のもとで過酷な労働を強いられている。

 資本家たちは「グローバル市場で勝つ」ために「合理化」で労働者数をギリギリまで減らし、一人当たりの労働時間を極端に増加させて、剰余価値率を高めることを行っている。そして多くの労働部門を労働賃金の低いアジア・アフリカ・中南米などの国々の労働者の労働に依存するようになり、国内では就職率が下がり失業率が高くなる一方である。資本家たちは一様に「背に腹は代えられない」という。いかに「良心的」資本家であろうともこの資本の論理のもとでは冷酷にならなければ生きてゆけないのである。それが資本の本質なのであるから。

 日本の政府はといえば、相も変わらず「消費拡大による経済の活性化」をキーとして、それが走り出せば、税制を動かして行き詰まった復興資金や社会福祉の経費も捻出できるようになるというスタンスで状況を判断しているようだ。さしあたりの復興資金不足には「災害国債」を発行して民間からの資金を集めるとか、消費税などを上げて税収を増やすことを考えているようである。「全国民が痛みを公平に」というスローガンのもとで。

 いわゆる高度成長期からバブル時代に大判振る舞いをしていた資本家からの賃金で幾ばくかの個人貯金を可能にした中間層的な労働者階級がいまでも老後の資金やろくな仕事に就けずに苦しんでいる子供たちの生活資金の一部として保有している個人預貯金を吐き出させ、これを経済復興資金にしようというわけである。

 ブルジョア左派政権である民主党政権は、一方で福祉や復興といった緊急の社会的事業に多くの予算を割こうとしながら、他方でこうした資本家的企業のサポートにも余念がないので、その結果矛盾に満ちた政策を採ることになっている。

 もはや「消費拡大による経済の活性化」は世界的な資源の枯渇と環境破壊を促進させる行為でしかないという事実、そしてその行為が結局資本家たちのマネー争奪戦を通じた資源と低賃金労働力獲得競争になり、国境紛争や民族紛争になっているという認識がないのである。

 こうした状況の中で労働者階級も「資本家が倒れれば自分たちの職場もなくなり生活のための収入が絶たれてしまう」という一蓮托生的とらえ方から脱出する必要があるのだと思う。

 こうした状況判断がなければ次世代社会への的確なラフ・スケッチは描けないのである。(続く)

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2011年3月31日 (木)

今後の日本社会を考える(その3 目標 )

 第四に、私的利害のための競争の禁止。これは先に挙げた私的所有の問題と密接な関係にある。資本主義社会では、労働の「疎外態」である資本が、生産や流通を支配しており、その根源に、本来社会全体の共有財であるべき生産手段やインフラなどが私的利害を追求する資本家的企業による運営のもとに置かれ、社会的に必要な労働力をも商品の市場で売買されるという逆転的構造となっているために生じるのがいわゆる「競争原理」だからである。現代の「グローバル化」された資本主義社会がいかに全世界の市場で無駄な競争を繰り返し、労働者のみならず資本家までもが「競争原理」に脅かされている事実を見てもこれは明らかである。

 NHK TVのクローズアップ現代では、東北地方の部品メーカーが災害で操業不能に陥ったため、その影響が親会社におよび、輸出主力商品の減産という自体を招いているということ。そしてそこでは、親会社が、結局は東北地方の下請け会社を切り捨て、外国の部品メーカーから部品を調達することを決めつつあるという事実、また諸外国の生産企業でも日本からの部品調達をやめ、「日本回避」の部品調達システムを模索しつつあるという事実を報道じていた。

 一方で、日本への支援の手を差し伸べようとする国際的支援があり、他方では、冷酷にも、「市場の競争原理」のもと、東北の基幹産業的企業の再興を不可能にさせるような動きにでている資本家たちの世界的な動向があるという矛盾に満ちた現実をしっかりと見るべきであろう!

 なお、私的利害のための競争の禁止は、決して競争そのものの禁止ではなく、私的利害のためではなく社会全体の共有財としてそのままに還元されるような競争は決して禁止されるべきではない。そこにこそ生産的労働の活力が宿るのだから。

 第五に、社会的に必要な労働時間に応じた、社会的財(価値)の分配である。労働の種類に関係なく、すべての社会的に必要な労働に要した労働時間は、生み出された「価値量」という形でその労働部門の形に応じた社会的な財の生産への貢献度を示す指標である。これに相当する、社会的財の分配は、私的生活に必要な分の公平な分配を行った残りが先に挙げたような社会的共有ファンドとして保持、蓄積されることになる。それは社会インフラとして全社会構成員に役立つ形で供給されることになる。もちろん介護や医療も含めてである。こうした視点からみれば、いまのブルジョア社会での賃労働者への「所得税」「健康保険税」「消費税」などなどのような税制がいかに矛盾しているかをしっかり見据えておこう!

 第六に、社会的財の分配や流通には、商品経済社会の形式だけが残存し、それが資本を生み出すことのことのないように社会的な監督機構が必要になるだろう。商品経済社会のメカニズムはその歴史的必然として資本主義社会を生みだし、その法則性がすべての労働や生産手段を「商品」として支配する世界を生み出してしまったが、その矛盾が明らかになったいま、生活資料の分配においてその形式だけが残存すればよいことになるだろう。言い換えれば生活に必要な資料が供給され分配されるためには限定的な意味での需要と供給のバランスをもたらすための擬制的商品市場が必要になるであろう。そこでは「貨幣」は単なる支払い手段となり社会的に必要な労働への貢献度を表す労働時間(価値量)を表示する証票となるだろう。

 さてこうした項目は、最初に述べたように、われわれが目指すべき「目標」であり、いわば、数千年の文明社会形成の歴史を通じて人類が支配階級に多大な犠牲を払った結果、その「最後の階級社会」である資本主義社会に表れた矛盾への「否定」を通じて初めて獲得し得た目標なのである。あたかも今回の大災害で、多大な犠牲を払って、ようやく分かった自然の猛威とそれへの備えのあるべき姿のようなものである。そこに支払われた膨大な犠牲と底知れぬ悲しみの積み重ねの後にはじめてこうした「あるべき姿」が「目標」として獲得し得たのであって、その意味では、多大な犠牲は決して「無駄な死」などではなかったのである。

 そして本当の課題は、こうした目標をどのようにして現状に即して実現させてゆくか、なのである。次にそれを考えて見よう。(続く)

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2011年3月28日 (月)

今後の日本社会を考える(その2 目標)

 追記:この項のサブタイトルは最初「枠組」だったが、内容的には、「目標」というべきことがらなので「目標」に改め文章の一部を訂正した。

(その1)に続いて、今回は、大震災後の日本社会のめざすべき方向のへの模索を試みよう。ところで、このところ新聞やTVでは、「暴動も略奪も起きない日本」を日本の美徳として讃える論調が多く見られる。しかし、本当にそうだろうか?確かに暴動や略奪が起きない、日本社会の風土はこういう場合にある意味で良い方向に機能すると言えるだろう。しかし、おかしいことには声を挙げ、間違ったことに異議を唱えることまでをも、「日本再建への一致協力」という美名のもとに「混乱を生じないように」という自主規制的な雰囲気を生み出し、そのまま封じ込まれてしまう「羊のようにおとなしく」支配階級の意向に従ってしまうのでは困る。

 まず、われわれの社会が目指すべき大きな目標は次のようなことであると言えるだろう。

 第一に、グローバルな資本市場における、私的所有と投機的行為への制限が必要になるだろう。世界的な流動過剰資本を巡る争奪戦の根には、それを私的な利益として獲得しようとする動機が常に存在することと、そのためには社会的混乱など意に介しない投機筋による世界経済の支配権が合法化されているという現実がある。そもそも過剰流動資本の基礎となる「価値」を生み出す源泉は、全世界で資本のくびきのもとで働く数十億人もの賃金労働者の労働である。彼らが、一定の労働時間において自分の生活を維持し、労働力を資本に提供しうるために必要な生活資料に相当する価値を生みだし、それに必要な労働時間をはるかに超えて生み出される膨大な剰余価値を生産手段の所有者である資本家に無償で提供しているという現実、そしてさらに彼ら自身が生み出した生活資料に必要な価値を「買い戻す」ために前貸しされた貨幣資本が生活資料商品の市場においてそれを支配する資本家群に獲得され、彼らに利益をもたらしているという現実、こうして労働者階級から、資本家によって不当に取り上げられた価値が結局は、金融資本という形で資本家階級自体をも支配し、国際的な経済活動全体を支配しているという事実を認めることが必要である。この仕組みが資本家代表政府諸国間の合意の元で「合法化」されているという真実を明らかにして、それを根本的に改める方向に踏み出すことが必要であろう。そのためにはマルクスによる資本の分析が必須の武器になるのである。

 第二に、「私的所有」の意味をより深く考えなければならない。社会に必要な「もの」(直接消費の対象となる生活必需品はもちろんのこと、生活に必要な知識の生成や利用に関すること、物資の流通や分配に必要な手段の生産などを含む)を生み出している労働者が、その生活を維持し、労働力を再生産するに必要な「もの」(上記に述べた生活資料)は、当然のことながら私的な生活において私的に消費し使用するためのものである。私的所有の対象となってはいけないのは、労働者が生活に必要とする土地(居住地)以外の土地や自然環境全体(空気・水・光・森林・動物そしてあらゆる地下資源)、社会全体が必要とする生産手段(交通・通信・エネルギー供給などの社会インフラや社会維持に必要な医療や法律の管理運営機構、教育機関、働けなくなった人々へのサポートなどに必要な社会公共的ファンドである。これらの本来社会・公共的な対象が私的な資本家企業によって私的に所有されることを合法化してきたのが資本主義社会である。その場合、一人あるいは少数の資本家が直接それらを所有するのではなく多数の資本家が互いに資本を分担所有する形をとるのが現代の資本主義的企業である。そのため資本家=経営者という関係が間接的な形(例えば機能資本家であるCEOと実質的資本家である株主や持ち株会社の関係などのように)となっているので、労働者が自ら生み出した価値を取り戻すべく対峙する「資本」の実体が掴み難くなっているというのが現実である。労働者側は、こうした現実に幻惑されてはならない。

 第三に、資本家階級はその商品・資本・金融の市場においてとっくに国境を越えて「グローバル化」されているのに、労働者階級は「国家」という枠組みに押し込められ、「国民感情」とか「国家の威信」とか言う支配階級側のイデオロギーに欺され続けているという現実である。中国を含む資本主義国家群の支配階級は必死になって労働者階級の国際的な連帯と団結の雰囲気を生み出さないように押さえ込もうとしているのだ。にもかかわらず中東諸国ではそれを打ち破って独裁国家の圧政に苦しむそれぞれの国の民衆が互いに共通の立場を意識し始めている。「先進資本主義国」で「民主的な政府」のもとにあるわれわれには関係ないと思っていたら大間違いである。われわれは彼ら多大な犠牲のもとでいまの生活を維持できているのである。そのことを忘れてはいけない。

(以下次回に続く)

 

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