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2011年4月3日 - 2011年4月9日

2011年4月 8日 (金)

今後の日本社会を考える(その12 ラフスケッチa)

 では今後の日本社会をどうすべきなのか?まず確実に言えることは以下の通りである。

 まず、世界的なスケールでの資源や自然環境の保全という枠組みにおいて無駄な消費や無益な競争を促すことで成り立つ経済体制を改め、それに代わって世界的な規模での持続的な生産〜消費サイクルを可能にする計画的な経済システムの構築が必要であること。

 そのためにもっとも必要なことは、世界中の国々でそれぞれの社会的に必要な労働を行い社会全体を支えている労働者階級(農業労働者も水産労働者も含む)がその本来の歴史的な使命を自覚し、資本の成長のためにグローバルな市場競争に勝つことを目的に日々働くのではなく、われわれ自身のための社会をわれわれの手で作り上げるために働くのだという自覚を持つことであろう。

 過去のすべての社会的労働の成果を私的な所有という形でしか蓄積しえない資本やその人格化された資本家がいなくなれば、社会的な生産はわれわれ自身の手でより合理的で豊かな内容を持ったもの(無駄な消費や無益な競争をせずに限られた資源や自然環境をできるだけ節約し合理的に用いた本来の意味での経済的システム)にすることができるのだということを。言い換えれば、われわれは資本家的企業が「売るための」商品を生産するために日々働くのではなく、われわれ自身がそれを消費し使用するために生産するのである。だから、必要なものを必要なだけ生産すればよいのである。

 使用(消費)する者自身が分担協働してそれに必要なモノを共同で生産する。そのシンプルな構造の社会こそ、真の意味で合理的で豊かな内容を持った社会に成長し得るのである。

 ついでながら言えば、このような社会では現在のような「売れる商品」をデザインするために登場した職能的デザイナーではなく、すべての労働部門で働く労働者が生産物の使用価値を高めるため本来の意味での「デザイン能力」を持つことが必要なのである。

 日本社会の今後を考えるためにはそうした大きな目標の中での次世代社会の構想を立てるべきであろう。

 そのためにまず第一歩として、少なくともグローバル市場での資本家的な採算を度外視しても必要最小限の生活資料やエネルギー源を確実に自給できる社会体制が必要であろう。いま日本では農地が放置されたり農業従事者が減ったりしている地域には、農業再生のためそこで働く人たちを募ることが必要であるが、それを阻害しているのは、農業資本や貿易を支配する商業資本や投機筋による国際市場での競争とそれによる農作物の価格競争である。必要最小限の農作物自給体制をこうした国際的な資本による破壊から護るためには、この分野が自立的な地産地消という形である程度の「鎖国状態」になっても仕方がないであろう。農業の資本家的支配を促進するTPPなどはもってのほかである。しかし言うまでもなく、そこでもこれまでに蓄積した技術を駆使して農業生産性を高める努力は必要だろう。それは本来の意味での省エネルギー、省労働力という視点からである。

 エネルギー供給は、なるべく自立分散的な形で供給するシステムを採用し、水力などの比較的大規模な施設が必要なものは自治体が管理運営し、太陽発電や小型風力発電装置を各自の管理で住宅に設置しそれぞれ電力を自給できるようなシステムが必要だろう。そこで初めて資本家的企業の中で開発されてきた「スマートグリッド」技術もわれわれ自身のために生きてくるというわけである。

 重要なことは、これら農水産物やエネルギーの供給といった基本的産業の育成と維持発展は、そこに再び資本の支配が及ばないようにするために、そこで働く労働者たちとその代表である(資本家的企業の代表政府ではなく)自立分散型社会の自治政府(地方自治体)が協力して行わなければならないということである。

 その上で、海外の国々とは、われわれの生活に必要なものに絞って交易を行い、われわれが得意とする生産部門(国内的に剰余生産物が生じるようなもの)での生産物は輸出し、国内で獲得が困難なものを輸入する必要があるだろう。しかし、ここにも何らかの形で資本の支配を封じておく手立てが必要であろう。

 さらには、社会全体として必要な生産手段は各自治共同体間での討議と合意のもとでそれらを共同管理する体制が必要であろう。労働者自らが生産手段の管理運営を行うことができるシステムを生み出すことが必要である。

 こうした枠組みの中で資本の産業構造もおおきく舵を切らねばならないときが来ていると思う。

(続く)

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今後の日本社会を考える(その11 産業構造の矛盾c)

 かくして、日本の産業構造は、いま完全に対外依存型となり、もっとも重要な第一次産業は見る影もなく衰退したのである。一方で「便利でクリーンなオール電化住宅を」とか「スマートグリッドによる合理的な電力供給の推進」などと宣伝しながら、他方では、それに必要な電力を海外依存の石油や、きわめて危険な発電施設である原発に頼っており、それらが突然ストップすることによってわれわれの「便利ずくめ」の生活はたちまち吹き飛び、電気ばかりか食料や水の供給も危うくなり、放射能汚染の恐怖にさらされ、まるで戦時中のような生活に逆戻りするということが、今回の震災で疑いの余地もなく明らかにされた。われわれがさんざん派手なコマーシャルで欺され続けてきた「便利で豊かな生活」はこんなに危うい綱渡りの上で演じられていたのだ!

 それだけではない。われわれの社会を構成している産業がどういうものであるのかをもう一度よく見直してみよう。われわれ資本主義国の政府は、個々の社会的分業種を構成する資本家的企業間での利害対立を調整することで「国家的産業政策」を推進するという立場であり「総資本」の代表政府であるといえるので、全体としての資本家的産業の運営がスムースに行くことによって「国力」を増進させることが第一の課題となっている。そこに働く労働者は資本家的企業に雇用され賃金をもらって生活するのであるから、資本家的企業が利益を挙げることがまず先決なのである。

 したがってグローバル市場が成長し、国際的な資本間の競争が激しくなれば、それに「勝ち抜く」ことが最大の目的となる。その目的に向かって、採算の採れない企業は淘汰され、そこに働く労働者が解雇されるのもある程度仕方がないというスタンスなのである。そのために「自由に職業が変えられる」という名目で雇用の形態が資本家に都合の良い形に法改正され、資本間での労働力の移動が行いやすくなり、首切りもしやすくなったのである。だから大災害の処理で政府の財源が逼迫すれば消費税を上げても法人税は下げるのである。

 そして国際市場で生き残るために適した企業を優先し、採算性の悪い業種の企業がいかに日本社会にとって必要であろうともそれが海外資本の競争に負けて淘汰されるのは仕方がないということになる。これこそが「自由経済社会の特徴なのだ」と言わんばかりに。そのようにして今日のわれわれの社会を構成する分業種が市場の動向に支配され淘汰されたり生き残ったりしてきたのである。家電が良ければそれを看板に、そしてそれがだめになってアニメ産業が売れるようになればそれを看板に、という具合に。

 教育機関もこうした政府の考え方の中で変質してきた。私が奉職していた国立大学においても、「官・民・学が一体になって」というかけ声の下で、資本家的企業をもり立て(ここでいう民とは労働者階級ではなく資本家的企業のことである)、尻押しするために研究教育内容が大幅に偏向されてきた。そして工学系のみならず高等教育機関のほとんどが、実質的に資本家的企業のための知的労働力養成機関に変質してきたのである。それは日本の労働力市場全体が高度の知識を持った知識労働者を中心とした競争市場になっていくにつれ、高等教育機関に入るための受験戦争という形で、その競争が先取りされるようになった。そしてそれに破れた人たちは、社会が必要としているがあまりなり手のいない労働部門で雇用される労働賃金水準も雇用形態も安定していない非正規雇用などのネオ・プロレタリアートになっていくケースが多いのである。

 こうして、労働者階級内における「格差」を増大させながら、日本の社会を構成する分業種(産業)は国際市場で「売れるもの」「採算性が高いもの」を目指してめまぐるしく変わり、いつのまにか、基本的に社会に必要な産業が対外依存型になり、根無し草のようなどうでもよい「付加価値」産業や「サービス産業」などが産業の主流になってしまったのである。

 われわれは資本家的には「稼ぎのある」国家であってもそこに生活し社会を支えるための労働をしている人々にとっては、きわめて危うい産業構造の中で生きているのである。(続く)

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今後の日本社会を考える(その10 産業構造の矛盾b)

 ここで、経産省が公表している「産業構造ビジョン2010」という資料を参照して頂きたい( http://www.meti.go.jp/committee/summary/0004660/index.html からその骨子と詳細がダウンロードできる)。 ついでに2010年1月に経団連が作った「産業構造の将来像ー新しい時代を「つくる」戦略−」( http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2010/005.pdf )も参照すると良いかもしれない(似たようなものだが)。

 明治から太平洋戦争までの日本資本主義形成期の産業構造変化の歴史は参考文献も多いのでここでは省略する。とりあえず経産省の戦略を批判するために、一気に戦後の状況から始めよう。

 ご存じのように日本の「第一次産業」の衰退は著しく、1950年代までは石炭産業、農業・漁業などは大きなウエイトを占めていたが、いまや石炭産業はなくなり農業・漁業はわずかに余命を保っているという形である。それに対して1960年代からは家電機器、カメラ、オートバイ、造船、鉄鋼などから始まって、90年代まではコンピュータ、OA機器、自動車、車両、ハイテク技術による電子部品や機器などが世界シェアで上位を占め、こうした工業部門を中心とした商品の輸出で日本の資本家たちは大いに潤ってきたし、労働者階級もそのおこぼれにあずかることができた。しかし、その間に日本の経済は急速に「海外依存型経済」の色合いを濃くしていったのである。80年代からこの好況期に蓄積した莫大な過剰資本によりだぶついたマネーが金融取引や土地取引でのマネー争奪戦を通じてバブル現象を生じ、90年代にはついにそれが崩壊した。

 そしてそれと相前後して、いわゆる「IT革命」が進行し、Web関連産業やモバイル通信産業そして高齢社会に向けての介護福祉産業や「サービス産業」などが浮かび上がり、好況期にすっかり階級意識を失って自ら「中産階級」を自認するようになった労働組合の抵抗を何ら受けることもなく、労働者雇用法の改正や規制緩和が行われて、産業構造の変化にともなう労働力の流動性が促進されることになったのである。その背後では資本の「グローバル化」によって中国やアジア諸国の安い労働力を支配しはじめた資本家的企業間の競争が激化し、その結果が現在見られるような、国内での非正規雇用やアルバイトによる労働の急増と、失業率の高止まりにも拘わらず「正規労働者」の労働過重という矛盾した状況を生み出しているのである。また生活必需品である食料や衣料は安い労働力で作られた海外製品を輸入し、国内の労働者の労働力の再生産に必要な生活資料価格を低廉に抑えることで労働賃金の上昇を防ぎ、生活に必須となった電気エネルギーの源は輸入資源である石油と危険な原子力に依存することになったのである。

 そのような現実を経産省や経団連がどのように認識しているかがこれらの資料によってよく分かる。彼らによる「日本経済の行き詰まり」とは、グローバル市場での日本企業の競争力低下や一人当たりGDPの世界ランキング低下、つまりは日本企業の利益率の海外企業のそれに比較した低さが問題なのである。

 経産省にとっては、まずは日本企業の利益率を上げること、そのために政府の役割は「国家間の熾烈な付加価値獲得競争に勝ち抜くこと」にシフトし、それによって「雇用」を増やし、労働力を確保しつつグローバル市場でのシェアを維持していこうというものである。経産省はそのための戦略として、これまでの自動車関連産業一本槍ではなく、五つの戦略分野((1)インフラ関連、システム輸出、原子力、水、鉄道など、(2)スマートグリッドや次世代電気自動車などのような環境エネルギー課題解決産業、(3)医療、介護、健康、子育てサービス、(4)ファッション、コンテンツ、グルメ、観光などの文化産業、(5)ロボット、宇宙などの先端分野)に「官・民・学」の力を結集した「八ヶ岳」方式でグローバル市場での日本企業の競争力を取り戻し、2020年には140兆円以上の市場を創出し、そこに257万人の雇用を創出しようというのである。そしてハードウエア商品中心だった貿易構造をそれら戦略分野にシフトすることでエネルギー自給率を上げるというのである。

 ここには第一次産業のことは何も出てこない。何故か?理由は簡単である。お役所の管轄が違うからである。かくして縦割り行政の日本の政府では、第一次産業は経産省の管轄する産業界からは忘れ去られているのである。

 そして無慈悲にも、2011年3月11日がやってきた。3万人近い人命が一瞬のうちに失われ、数十万世帯の人々が家や職を失った。産業界の戦略シナリオからはまず「原子力」が脱落した。それに続いて地震による破壊と電力供給力のダウンにより世界シェアの高かった東北地方のハイテク部品産業が危機に陥っており、この分野には日本企業に代わってアジアなど海外の資本が進出する好機と狙っているだろう。そしてさらに東北や関東を中心として、放射能汚染による農産物や魚介類を生産する人々が危機に陥っている。この新たな現実の前で上に示したシナリオは一体どう変わろうとしているのであろうか?

(続く)

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今後の日本社会を考える(その9 産業構造の矛盾a)

 世界的「不況」と日本の大震災をきっかけにして、今後の日本社会の在り方を考えるためにさまざまな問題提起を行ってきた。ここでは日本の産業構造とその矛盾について考えて見ようと思う。

 資本主義社会以前、鎖国政策を採っていた日本がそうであったように、一つの「国」がその内部で生産と消費のバランスを保つための経済機構が成り立っていたような場合を「自立経済社会」と呼べば、今日の日本を初めとする資本主義諸国の経済体制は、国際的な分業体制を前提として成り立っているといえるだろう。これを「対外依存経済社会」と呼ぶことにしよう。

 そこで、まず自立経済社会がどのような社会的分業体制で成立するのかを考えて見ると(もちろんそれはその社会が置かれている世界史的な背景が必須の要因となるが、ここでは単純化するためにそれを考えないことにする)、第一に食料、衣類、住居など社会構成員の生活を維持するために必要最低限の「モノ」を生産する労働がなければならない。これらは生活において直接的に消費される対象である。しかし、それを生み出すためには、それらの直接的消費対象を生産するための労働に必要な生産手段を作らねばならない。例えば、農機具や漁労具、紡績、紡織機、縫製具、大工道具そしてそれらに必要な原材料の生産のための労働が必要である。自立経済社会ではこれらの労働手段の生産に必要な労働は、直接的消費対象を生産する労働者自身が「片手間」に行ったりすることも多く、資本主義社会でのように完全に工業として「産業化」することは多くはなかったと考えられる。

 次にそうした基本的なモノを生産してから消費するまでに必要な流通分配機構が必要であり、それに従事する労働が必要である。この領域には資本主義社会以前の社会でも商人が担当していた。

 さらに、こうした自立的経済社会全体を維持するための「メンテナンス」的機構に必要な労働、例えば、医療や、法律など社会的ルールを実施・管理する労働(これらは例外なく支配階級の管理のもとに置かれていた)などが必要である。

 その上で、さらに外敵や災害などの社会全体にとっての突発的な危機に対応する機構を稼働させる労働が必要である。例えば消防・防災・自衛軍など。こういった労働の多くは、さまざまな常態的機構での労働者が一時的に結集してこれに当たることが多いといえるだろう(常備軍というのはほとんどの場合、支配階級を護るためにかり出される被支配階級の人々である)。

 そして最後に、自立経済社会の中でそれを支えるために働く人々が生活に少しずつゆとりが出てくると必要になる「楽しみ」を充たす娯楽などの労働が登場する。

 おおむねこうしたさまざまな労働がそれを実施するための労働の場を形成し、それが社会的な分業種を形成する。自立的社会の構成員は、支配階級を除いて、そのどれかを分担して行う労働者となっている。

 社会全体での生産力が、それをぎりぎり維持するだけの水準で再生産するレベルから、すこしづつ生産力を上げていく(労働手段の改良などを通じて)と、そこに剰余生産物が生み出され、それは一時的にその社会の再生産機構が危機に陥った場合のために備蓄されたりすることになるが、やがてそれら剰余生産物を支配する人々(生産的労働には携わらずにその労働および労働の成果を占有する人々)が登場する。実在した人類史上のさまざまな文明社会ではそのような人々が支配階級を形成していったのである。

 ところで商人たちは、もともと余った生産物を安く取得し、それを足りない地域に運んで高く売ることにより流通の役割を果たしながら利益を獲得するのであるが、その本質上、ある自立経済社会と別の自立経済社会の間を結んで商売をするようになっていったと考えられる。そのことがやがてそれらの自立経済社会を崩壊させ、「自由な市場と貿易」を旗印とした対外依存経済社会を形成させていくことになったと考えられるのである。

 商人たちは、古い社会体制の支配階級と対立しながらも彼らが支配する剰余生産物を商業世界に取り込み、それによって旧体制を崩壊させながら、一方で、古い農業労働や職人的労働を行っていた人々をその生産手段とともに商人的世界に取り込むことで資本主義社会の原型を作っていったと考えられる。

 そのような視点からあらためて今日の資本主義社会を成立させている社会的分業体制、つまり産業構造の姿を見直し、その矛盾を明らかにしてみよう。(続く)

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2011年4月 6日 (水)

今後の日本社会を考える(その8 税制の矛盾)

 追記:この項は「ラフスケッチd」というサブタイトルであったが、内容的にはラフスケッチのために必要な問題把握の一環であるため、サブタイトルをこの項の内容に即したものに改め、前項の一部をこの項に移動した。

 前々回も書いたように、そもそもいま全世界を徘徊している過剰流動資本という怪物は、その出所を明らかにすれば、あらゆる過去の具体的労働の成果なのである。過去の労働の成果が私的に所有され、資本として現在の「生きた労働」を支配するのが資本主義経済体制の原理である。その現在の生きた労働は、毎日の労働の中で、労働力の再生産に必要な価値を超えた剰余労働時間に生み出される価値を無償で資本にもって行かれ、資本家的企業はそれを商品の価値の中に埋め込んで市場に送り出し、その販売で利益を獲得するのである。

 資本家的企業から労働者に支払われる賃金とは、その労働力の再生産に必要な価値量としての資本(労働力という形で価値を生み出す資本としての可変資本である)の貨幣形態であって、労働者に生活資料商品を買い戻すために前貸しされる資本である。決して労働者の「所得」ではない。それにも関わらず資本家代表政府はそこから所得税を取り、健康保険税を取る。そして企業はそこから年金のための積立金を先取りする。そして資本家的企業は不当に搾取した剰余価値を資本として用いて生産手段を「設備投資」や「原材料」(これらは過去の労働の結果であり新たな労働生産物の中に組み込まれその価値部分を構成する不変資本である)として購入し、労働力を「雇用」という形で購入する。それによってこの不当な剰余価値の搾取を「合法的に」繰り返すのである。その意味で労働者の支払わされる「所得税」や「年金積み立て金」と、資本家的企業が支払う「法人税」はまったくその位置や意味がことなる税である。

 いま世界中で金融資本によって争奪戦のターゲットとなっている巨額の過剰流動資本は、そっくりそのままそれを生み出してきた労働者階級のための年金や福祉に必要な社会的ファンドとして還元されるべきものなのである。それによって、全世界の労働者の生活は一変するだろう。

 次に土地に関する税制のおかしさを指摘しておこう。私の例でいうと、私は40年前にいまの居所に移ってきたが、そのときはまだ田舎の雰囲気が残っている閑静な住宅地で、そこは風致地区であった。したがって土地の評価額も比較的安く、固定資産税もそれほど高額ではなかった。ところがそれから40年後のいま、最寄り駅に新しい地下鉄も開通し、近くの商店街には高層ビルが建ち、私の住む家の目の前に住宅地の良好な環境をぶちこわしながら「都市計画道路」がつくられつつある。そのため、いつの間にかこの場所は「市街化地域」指定となり、評価額が上がり、毎年高額の固定資産税と住環境悪化に反対しているにもかかわらず「都市計画税」を支払わされているのである。もはや年金生活を送る私のとっては莫大な支出なのである。

 人間が居住し生活するための必須の条件である土地が「財産」とみなされ、知らぬ間にそれが法外もない高価な価格をつけられ、個人の住環境を犠牲にして資本の流通に奉仕する「都市計画道路」建設のために高額な税金が課せられる。まことに不合理ではないか。土地を売れば大金が入るのだから当然だ、という考え方は基本的に間違っている。土地は本来商品ではないからだ。不動産会社から見れば土地は「開発」されるのだ、というかもしれないが、もともと森や浅瀬であった場所を人手を加えて居住することのできるようにしたに過ぎない。その「場所」としての土地は誰がつくったものでもないのだ。これを売るとすれば森や浅瀬を居住可能の地味にするために要した労働時間に相当する価値でしか売れないはずなのだ。それが法外もない価格で売れるとすればそれは需要供給の原理によって増産できる商品ではない土地の価格がつねに実際の価値から大きくかけはなれた市場価格で売買されるからなのである。これは芸術作品や骨董品の価格と同じ性質のものである。

 付け加えて言えば、居住する土地が初めから「売ること」を想定して「財産」とみなされ課税されるということは、税金が支払えなくなったらそこを売って立ち退けということを意味している。これも土地が水や空気と同様に本来人間の生活に不可欠な共有財であって、個人が私有財産として売買する商品ではないにも拘わらず「私有財産」とみなされるという矛盾の表れである。

 こうした視点から見てはじめて、社民党や共産党が目のかたきにしている「消費税」だけではなく、もっともっと大きなレベルでの現代資本主義社会の税制がいかに矛盾に充ちたものであるかが分かるであろう。

 (続く)

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2011年4月 4日 (月)

今後の日本社会を考える(その7 人口問題)

 追記:この項は「ラフスケッチc」というサブタイトルであったが、内容的にはラフスケッチのために必要な問題把握の一環であるため、サブタイトルをこの項の内容に即したものに改め、後半の税制に関する部分を次項に持って行き、その代わりにこの項の最後に一文節を付加した。

 世界レベルでの問題としては、人口爆発の問題もある。科学技術や医学が資本主義体制の競争社会によって急速に進歩してきた。これは医療技術や薬品などが資本家的利益を前提にしながらそれを原動力として開発されてきた結果であり、基本的にお金のある人たちのためのものなのだが、一方で過酷な生活状態にある人々の生命を救っていることも事実である。そしてその結果として幼児の死亡率が著しく減少し、平均余命も少しずつ伸びている。しかし、一方で人口増加が急速に進み、救済が必要な人々の数は増え続けている。この貧しい人々の増加は、資本にとっては低賃金労働者予備軍の増加であり、資本側の本音はこの状態を維持したいのである。一方貧しい生活を強いられている人々にとっては働き手が多くないと家計を支えられないので、子供の数が自ずと増えていく。そのため世界的な食糧危機などが懸念されながらも人口爆発へのブレーキは一向にかからないのである。

 中国のようなトップダウン政治体制の国では一時「一人っ子政策」を採ることができ(いまではそれが怪しくなっているが)たし、多くの中産階級的労働者を擁する「先進資本主義国」では、「開発途上国」の低賃金労働に依存して労働者階級がある程度潤っているので家族全員が働かなくとも生活が成り立っており、子育てに多大な経費(一人前の労働者として育てあげるのに必要な教育費など)がかかるので子供を増やすことへの抑制がかかっている。

 しかし、世界的な人口増加にもっとも寄与している貧しい国々では現状でそれを抑制することは困難であろう。結局はこのような状態で、地球資源の合理的で持続可能な経済システムが許容できる範囲に人口を維持することは難しいであろう。これも資本主義経済システムの基本的な矛盾の一つである。宇野弘蔵も指摘するように、人口問題は、労働生産物ではない人間の労働力までをも商品とすることで初めて成り立つ資本主義経済体制のアキレス腱なのである。

 上記の視点からすれば日本の人口が減少していくことは決して危惧すべきことではない。それを危惧する立場は、いまの年金制度や社会保障制度が崩壊することへ危惧であり、労働力減少による「国力の弱体化」という視点であろう。しかし、いまの年金制度や社会保障制度そのものが不合理であることは誰も口にしない。

 日本社会の人口はむしろその労働生産力にふさわしいレベルまで縮小しても良いのである。しかし、その場合、過渡期の状態を考慮しなければならないだろう。ここでいう「過渡期」とは現状の資本主義社会の末期から本格的「脱」資本主義社会へ向かうための過渡期である。これに関しては項を改めて別に述べることにしよう。

 (続く)

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今後の日本社会を考える(その6 本来の経済システムへの布石)

 追記:この項は「ラフスケッチb」というサブタイトルであったが、内容的にはラフスケッチのために必要な問題把握の一環であるため、サブタイトルをこの項の内容に即したものに改めた。

 さて、前回では、まず世界的レベルでで、無駄な消費とそれによって生じる過剰な資本であるマネーの争奪のための無駄なグローバル市場の競争を抑制することが先決であると書いた。これは地球資源の浪費とそれによる自然環境破壊を防ぐために早急に必要な措置であり、求むべきは、限られた資源や自然環境をいかに持続的にわれわれすべての享受と共存を可能にする合理的な経済システムを確立するかである。大自然は誰のものでもなく自然の一部である人類がその自然の一部としての存在意義と役割を果たすために必要な形で共通にその恩恵を受けることは当然のことであり、大自然が私的利害の犠牲となることは当然許されるべきではない。こういう形での私的利害はいずれ私的立場そのものの足元の大地をつき崩していくことになるのである。これはある意味で「大自然の公理」である。

 いずれは、国際的な合意の元で無駄な消費の拡大と私的利害追求のための資源獲得競争を抑制するための国際的監督機関が設立されねばならなくなるだろう。これがグローバル資本主義経済体制崩壊への第一歩であり、世界レベルでの計画経済への第一歩である。

 セルジュ・ラトゥーシュが指摘するように、いま資本主義陣営が掲げだした「持続可能な経済成長」という看板はいうまでもなくナンセンスである。彼らのいう「経済成長」は資本の成長であり、労働者階級の生活や人生の成長ではない、いやむしろそれを根本的に阻む物だからである。いまは莫大な資本蓄積という形に抽象化されている過去のあらゆる具体的労働の成果をそれを生み出してきた労働者階級に取り戻すことが必須である。その「取り戻し」はもちろん労働者の個人的な利益としてではなく、労働者階級が共通に必要としている社会的な共有ファンドとして還元されるべきなのである。

 そのためにも、いまのブルジョア政党(民主党や社会民主主義者の一部の含む)の打ち出す資本家的私有の合法化にもとづく税制の根本的な誤りを明らかにし、その過程で、いかに資本の成長を押さえ込み、それによる無駄な私的利害追求のタネをなくすかを考えることが必要なのである。

 その上で、人類が共有すべき大自然の恵みをいかに合理的にしかも節約しながら、人類の生存や活動そのものが大自然の物質代謝の一環として組み込まれるような経済システムを築き上げていくことが必要であり、それこそが真の意味での持続可能な経済体制なのである。

 CO2を削減するために火力発電をやめ「クリーンエナジー」である原発に切り替えるなどというサルコジ首相の主張は笑止千万である。またグリーンインダストリーと言われる「環境保全のための産業」を盛んにし、そこに雇用を確保していくというオバマ大統領やその”まねっこ”の菅さんの経済政策も間違っている。「持続可能な成長」と銘打ち消費を際限なく拡大し、それに必要なエネルギー供給源を増やそうとすること自体が間違いなのである。それは一言でいえば「資本のエゴ」以外のなにものでもない。今回の大災害と原発事故に遭ったわれわれにはそのことがはっきりと見えるのである。

 このような合理的で持続的な経済体制を可能にするためには、社会を支えるために働く人々が自らその生産と消費のシステムを直接に共同管理することが前提である。社会を支えるための労働が資本という私的所有の形態によって管理運営され、その結果が私的利害追求のための市場を通じて資本の増殖を媒介しなければ社会に還元し得ないという資本主義社会の矛盾はもう繰り返してはならないのである。

 (続く)

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2011年4月 3日 (日)

今後の日本社会を考える(その5 世界経済の枠組み)

 追記:この項は「ラフスケッチa」というサブタイトルであったが、内容的にはラフスケッチのために必要な問題把握の一環であるため、サブタイトルをこの項の内容に即したものに改めた。

 今回の震災以前から日本社会の未来像を論じる意見は数多くあった。その中で、福祉国家を目指すためのモデルとしてスエーデン型福祉国家と、アメリカ型の自助努力型国家というのがたびたび引き合いに出されていた。前者は高額な税金による税収を年金制などで個人単位での生計を維持させるよりも、社会全体で必要とされる福利厚生的部門にそれを投入し、同時に地方分権型の行政を強化させることで「大きな政府」による負担を分散化しようとしている。労働者の高額な税金への支払い能力を維持するために、資本家的企業での労働生産性を高め利潤率を高めるための同一労働種同一賃金制といった法的な措置を採り労働賃金への資本の配分率を高めようとしている。資本家的企業は福利厚生への支出を政府が肩代わりしてくれるためそれがある程度可能になる。しかし利潤率の低い企業は淘汰されるのである。そのため自ずとその国での産業は国際市場で有利になるような「得意部門」に集中し、そこに労働力も集中することになる。

 しかし、こうした体制がいまの労働力商品市場の国際化という事態のもとでどこまで維持できるのかは分からないし、それが失業者の増大と高額な税負担とのバランスを急速に失わせる可能性は高い。

 一方、共和党が主張するアメリカ的自助努力型国家では、個人の能力に応じた収益を獲得し、それによって個人的な裁量で福利厚生的な支出をも賄えばよい。それが不可能な人々には最低限の保障を確保し、政府はできるだけ「小さい」方がよい、というものである。しかし、この方式が結局はうまく行かなかったために共和党政権は崩れ、オバマ民主党政権が登場したのである。なぜうまく行かなかったのかという問いにはなかなか一筋縄では答えられないが、要するに、個人的利益を追求する「自由」を原則とした資本主義社会においては、結局それはあらゆる能力(労働力)の「疎外態」である資本の表象つまりマネーを私的に獲得することに集約され、際限のない欲望を生み出し、その結果、富は一部の人々に集中し、絶対的多数の人々は、自ら生み出した富を還元されないままに「自助努力が足りない人」と見なされることになるのである。この矛盾が噴出したのが2009年のアメリカである。オバマ政権はこの事態に対処しようとしたが、如何せん、根強く残るアメリカ的「自由と自助努力」の風土に大きな抵抗(ティーパーティなど)を受け、結局中途半端な状態で宙づりになっていると言える。

 スエーデンとアメリカは21世紀初頭における資本主義社会モデルの両極のように見える。スエーデンはヨーロッパ連合の中の中堅国としての位置にあるからこそこうしたモデルが可能だったのであり、アメリカは世界に冠たる資本主義社会のトップランナーであるからこそこういう風土が育ったのであろう。したがって「日本はどちらのモデルを目指すべきなのか?」という問いはナンセンスである。すでに末期的症状が噴出している資本主義社会のくびきから如何にして脱出できるかがいま問われているのだから。

 まず第一に必要なことは、決して増やすことのできない人類共通の「富」である地球の天然資源を資本家的企業やその利害代行政府の国々による奪い合いから護らなければならないということである。そして第二に結局は、無際限な資源の無駄使いと環境破壊に繋がるマネー獲得競争に集約される「消費拡大型経済」を一日もはやく押さえ込むことである。

 この二つは、一国内の問題ではなく国際的な合意にもとづく協定という形が必要であり、この協定を破った国への厳しい制裁を含むべきである。これが可能になれば、まずグローバルに繰り広げられ、すべての資本家と労働者がその渦に巻き込まれながらも誰もそれを止めることができなくなっている「国際的な市場競争」にブレーキをかけることができるようになるだろう。これが第一歩である。

 この第一歩を確実なものとしながら、同時に第二歩としては、各国がこの無益で莫大な資源の浪費を前提とした自己矛盾的な国際市場競争からのプレッシャーがなくなったところでそれぞれの国々が持つ特性にあった経済社会の形成に着手することが必要であろう。もちろんそれは閉鎖的な一国経済体制などではなく、あくまで国際的な分業体制のもとでそれぞれの国が役目を演じる形で行われることになるだろう。

 こうした世界的な枠組みのもとでいま危機に陥っている日本社会の「脱資本主義的」経済構造を考えるべきなのではなかろうか?(続く)

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