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2011年4月10日 - 2011年4月16日

2011年4月16日 (土)

閑話休題「ナバホ」の世界

 先日NHK BS-TVで放映していたある番組が、久しぶりに私の心にある感動を呼び起こした。

 子宮がんが再発し、摘出手術を受けたもののいつ再発するか分からないという状況で生きる女優の原千晶さんが、アメリカ先住民ナバホの居留地を訪問したときの記録である。

 なぜ原さんがナバホの居留地を訪れようとしたのかその理由は見落としたが、原さんは彼らの一人をガイド役としてその家族との夕食に参加した。ナバホの人々は広大な荒野の一角で羊を飼い、トウモロコシを栽培して実に質素な生活している。

 原さんがまず彼らに投げかけたのは、「幸せとは何か?」という問いであった。ナバホの若い人々は、結婚して家族を持つこと、羊や牛を飼えること、などと答えていたが、少し年配の人たちは、美しく生きることだと答えていた。夜明けに祈りに出るときその夜明けは美しい、夕暮れもまた美しい、と彼らの中の一人の男が言った。この美しく生きるろいう言葉の意味が、最初あまりピント来なかったが、やがてそれが彼らが語り継いでいる一つの詩でだんだん分かってきた。そのナバホ語の詩はこういうものだ。

 私は晴れやかに美の中を歩む

 私の前にある美の中を歩む

 私の上にある美の中を歩む

 私の側面にある美の中を歩む

 そしてその歩みは美の中で終わる

 つまりわれわれはつねにどこにいても「美」に囲まれてているのだ。その中で生きているということこそ幸せなのだ、ということである。

 結婚を間近に控えているという一人の若い娘は、寂しくなるとときどき先祖に会いに行くという。原さんは彼女と一緒にそこに行った。そこにはときどき動物の姿になった先祖たちがやってきて娘に語りかけるという。あるとき二羽のイヌワシが彼女の頭上を輪を描いて飛んだ。彼女はすぐにそれが祖父と祖母であることが分かった。彼女は自分が寂しいことを告げると二羽のイヌワシは彼女の心に「いつもおまえと一緒に居るのだから寂しがることはない」と語りかけてくれたというのである。原さんは彼女の話を聞きながら涙を抑えることができなかった。

 原さんは、次に荒野のまっただ中の古い小屋でたった一人で生活するナバホの老人を訪ねた。老人は英語がうまくないこともあってか、無口でいつも笑わない。ガイド役の男が介添えをした。原さんは老人がなぜこんな荒野の真ん中に一人で暮らしているのかを尋ねた。すると彼は「私はここで生まれた、そしてここが私の住む場所だからだ」と答えた。疑問の余地のないほど単純で明快な答えである。

 そして最後に、原さんは、この老人が「死」についてどう考えているかを問うた。それはいつも「死」を意識している原さんにとってもっとも重い問いであったと思う。老人は介添えの男を通じて次のように答えた。

 われわれナバホは「死」については語らないし、そんなことは考えない。それは考えてはいけないことなのだ。われわれはいつも美の中に生きている。それだけで充分ではないか?

 原さんは「あ〜、そうなんだ。まったくその通り。もうグーの音も出ない」としばし感慨に浸っていた。

 最後にガイド役の男は、粗末な片張り太鼓を持ってきて、それを叩きながら上の詩をナバホ語で唄い始めた。哀調をもったアイヌの叙事詩の唄に似ている旋律だった。しかし、それは英語では表現できない力強い意味を持った言葉だと彼は言っていた。

 1万年も前にわれわれと同じアジアの一角に住んでいた彼らの先祖たちはベーリング海峡を渡って、アメリカの地に移り住んだのである。そしていまヨーロッパやアフリカなどから来た異邦人たちに先祖から受け継いだこの地を支配され、彼らの「消費文明」を押しつけられようとしている。

 しかし、彼らが護り続けている、「美」はそんなものよりもずっとシンプルで力強い「生」の世界を持っており、それがこの汚れきった文明社会に生きるわれわれの心を洗ってくれるのだ。

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2011年4月13日 (水)

今後の日本社会を考える(その14 ラフスケッチc)

 菅さんが、大震災後の自粛ムードで、人々が旅行やレジャーを取りやめていることに関して、経済の沈滞化を防ぎ、被災者たちを元気づけるためにもすぐにでも自粛ムードから脱するべきだと言っていたが、私は必ずしもそうは思わない。むしろ、人々が「自粛」することで、われわれの生活にとって、一体何が本当に必要であり、何が「なくても済む」のかがはっきりしたではないか。

 いままでの無駄な消費づくめの生活で、本当に必要でもない商品(この中にはレジャーや娯楽・観光なども含まれる)を次から次へと買うことだけが人生の目的であるかのような錯覚に陥らされてきたわれわれの生活が、この大震災とそれ以後の社会状況によって反省を余儀なくされたのだと思う。

 そこで再び日本社会の今後を考え直してみると、そこにまず必要なのは、最低限われわれの生活に必要な資料を自前で生産し供給できるような産業体制である。例えば、食料、衣料、住居、医療、教育などなど、そしてそれらすべてに必要なエネルギー源である。それらの必要にして十分な供給が出来て、初めてわれわれの生活の土台が確保されるのである。

 その上で、さらにその生活の内容を充実させていけば良いのである。もはやこれ以上自動車を増産する必要もないしクルマの保有台数は現状維持でいいではないか。もはやエネルギー供給を際限なく増大させていく社会は必要なく、したがって原発などは不要なのである。グローバル市場でグローバル資本との無益な消耗戦を繰り返し、それによって地球資源を消尽し自然環境を破壊させながら、GDPが何位になったといって大騒ぎし、結局そのために働く人々の人生を賃金奴隷として資本に捧げさせてしまうような社会システムではなく、国内の生活を安定させ、そのために必要な生活条件を生み出す産業を充実させ、そこに必要な適正な労働力の配置が民主的な合意に基づいて行えるような社会システムが必要なのである。生活に必要なものを資本家的企業を媒介せずに直接生活する労働者自身が協働して生産し流通させることができる社会システムである。

 そこで自らの生活に必要な資料を生産するに必要な労働時間を超えて得られた労働の成果(剰余価値部分に相当する)は、資本としてではなく、社会全体が必要とする共有ファンドととして蓄積し、そこから社会の中で足りないものを海外との交易によって獲得し、われわれの社会が生み出せる剰余生産物の一部を輸出に振り向ければ良いのである。社会的共有ファンドはもちろん、そこで働く人々に共通に必要な資金、例えば、教育、働くことが出来なくなった場合の介護や医療そして年金、社会インフラの整備とメンテナンスなどに支出されるものである。

 こうしたイメージのもとでこれからの産業構成を考えるならば、今日のいわゆる第三次産業あるいはサービス産業依存型の産業構造が如何に歪んだ不自然なものであるかが見えてくるであろう。

 例えば、今日の社会ではあまり日の目を見ない分野であるメンテナンス産業は非常に重要であり、これからの社会の中心的な役割を果たすだろうし、「デザイン」は売れる商品を考え出すための偏狭な知的労働から解放されて、あらゆる産業部門で生産物の本来の意味での使用価値を高めるため(出来るだけ少ない資源の使用で最大限の使用価値を生み出し、メンテナンスがしやすく、長持ちする製品をデザインする)に費やされる労働者の能力として、すべての生産分野の労働者に要求される基礎教育に組み込まれるだろう。言い換えれば現在のような職能という形の「デザイナー」は存在意義がなくなるだろう。

 さて、今後の日本社会のためのラフスケッチはこの辺で終わりにしよう。なぜなら、マルクスが言うように、いたづらにユートピアのイメージを膨らませることは、かつての「ユートピアン」が失敗したように何も生み出さないだろうから。問題なのは矛盾に充ちた現実をあるがままに見据え、その批判(否定)として具体的な未来をそのつどその場所から生み出して行くことにあるのだから。

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2011年4月12日 (火)

今後の日本社会を考える(その13 ラフスケッチb)

 いまグローバル資本市場を構成する資本主義諸国間の競争がアメリカやEUの一部の国々で経済の破綻を来し始めているが、それがどのような形で世界的な破局を迎えていくかは予測が難しく、我が国の社会経済状態がその状況に大きく影響を受けることは間違いないことであるが、とりあえず、我が国の内部でどのような方向で社会経済システムが変化していくか(変化させるべきか)を考えることは可能である。

 最大の課題は、数十億の労働者による過去の労働の成果である国際金融資本の莫大な蓄財をどのように労働者階級に取り戻すかという問題であろう。これに関する卑近な例を挙げれば、例えば、今回の大震災で工場や社員の多くを失った東北の(大企業下請け)部品メーカーが、復興と再起を目指して資金の調達を図っても、金融機関は貸付金の見返りが期待できない企業には「貸し渋り」するのである。

 日銀がその状況を、「東北地方の金融機関における資金不足」と判断し、低金利で多額の資金貸し出しをしたが、そのマネーがどこにいくのかである。それらの中小部品メーカーが長期に渡って利益を回復することが難しいと分かれば地方の金融機関は簡単に復興資金を低金利で貸し出すようなことはしないだろう。より有利な資金運営を図るに違いない。それが資本の使命であり「法則」なのだから。

 放射能汚染で莫大な被害を受けた農業や漁業についても同様であろう。グローバル市場での野菜や魚介類商品の熾烈な競争を考えたとき、長期に渡って利益の上がりそうもない農業や漁業に低金利で多額の資金を貸し出すことは金融資本のリスクが高すぎるからである。こうして、東北地方の産業は衰退を余儀なくされ、その弱みにつけ込んだ海外の資本家企業による市場の奪取が行われることになるだろう。こうして日本の経済は「対外依存型」へのステップを進め、ますます日本の労働者階級はグローバル資本の賃金奴隷にされて行くのである。

 要するに資本の法則に従った経済運営は結局は、弱肉強食の市場の原理で動き、つねにその犠牲になるのは労働者や中小企業(農業・漁業を含む)の経営者なのである。

 それを考えれば、資本家代表政府に代わって働く人たちの代表政府を作り出すことこそ焦眉の課題といえるだろう。自民党や民主党という既成の政党に任せておいてはいつも同じことが繰り返されるのだから。

 その動きは、すでに地方自治というところから始まっているようである。残念ながら、働く人たちの代表となるべき政党や労働組合があまりにも弱体化しており(バブル時代に形成された「中産階級意識」や「小市民意識」に邪魔されて)、これをどうにかしない限りものごとは進まないと思われる。

 そうした課題を進める一方で、もし働く人たちの力が政府に大きな影響力を持ちうるようになれば、そこでは、まず金融資本企業に蓄積された莫大な資本を、働く人たちに還元するための法的な措置を急ぐべきであろう。それはいまの資本家代表政府がいずれも「消費主導による景気浮揚」を前提としながらそれが出来ずに行き詰まり、財政支出と国庫の赤字増大やそれを補うための増税や赤字国債発行という泥沼にはまっている問題に対し、まったく別の視点から明快な正解を与えるであろうから。

 唐突だが、こういう現実の事態を正しく理解するためにも、いまこそマルクスの資本論がきちんと理解されるべきときなのである。

 (続く)

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