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2011年5月1日 - 2011年5月7日

2011年5月 2日 (月)

朝日新聞「声」欄の投稿から考えさせられるデザイナーの役割

 今朝(5月2日)の朝日新聞「声」欄に、田中玲子さんという74歳の方が「私は原発造らせた覚えない」という投書をしている。その内容は、4月23日にあった「事故の一因、我々の生活にも」への批判として書かれている。4月23日の投稿には、「電力会社に原発を造らせたのは誰か、自販機もネオンも高速道路の電灯もみな、私たちが要求し続けた結果だ」と書かれているが、田中さんはこれに反発して、以下のように言う。

 「私たちはエアコンなしでは暮らせぬ都会の家に住まざるを得なくてエアコンを買わされました。地デジテレビも要求したことはありません。私は布団カバーやシーツ以外は手洗いですから、二槽式洗濯機で充分。それが壊れて買い換えようとしたら、店頭にあるのは、ほとんどが全自動式で乾燥機付きです。業界の思惑で、ぜいたくな家電だらけの生活に追い込まれていると痛感しました。原発をなくすために、どのような生活をしなければならないか、よく考えようという意見には賛成です。しかし、もっと深く考えてもらいたいのは、原発を国策として推進してきた政官財で、私たちは二度とその口車に乗らないように心すべきです。」

 まったくその通りだと思う。ここで田中さんが反発している4月23日の投書はもうその掲載紙が手元にないので見ることができないが、私が4月25日にこのブログで書いた「がんばろう日本でよいのか?」という意見に似ていたのではないかと思われる。つまり、結局いまの無駄使い浪費社会を築いてきた社会の一員である我々が、そのことを自覚して反省することが必要だ、という趣旨であろう。

 しかし、私が「がんばろう日本でよいのか?」言いたかったのは、人々に無駄な浪費をしたくなるように仕向けてきた「政官財」の姿勢に諸手を挙げて「結束」し、これをわれわれが批判し得なかったということである。そしてここで私がいう「我々」とはいわゆる「知識人」であり、マスコミなどのようなオピニオン・リーダーのことである。

 田中さんの投書を読んで、「デザイン理論の専門家」という位置で人生の大半を送ってきた私が、痛切な自己批判を余儀なくされてきたここ10年来の精神的苦闘は決して無駄ではなかったと感じた。

 人々が浪費的な「ぜいたく」をするように仕向けてきた「デザイナー」という職能は、「人々の生活に夢を与える職業」と見なされてきたし、私自身も当初はそのように思ってきた。しかし、その「夢」が実は「資本の成長(一般には経済成長と呼ばれている)」というモチベーションのもとで「政財官」が結束して人々の目を「消費生活に」に向けさせるために行ってきた一大キャンペーンであり、「デザイナー」はそれに乗っかって登場した職能であったのだ。我々も見事にその中に巻き込まれていたのである。その矛盾が今回の大震災と原発事故で明白な事実となって我々に突きつけられたのである。「経済成長」は決して我々の生活を良くすることは無かったということが分かった。その「経済成長」を「生活に夢を与える」という形のイリュージョンで粉飾してきた「デザイナー」を育てあげるために、その教育の場で働いてきた私にとって、これは私の全人生を否定することに等しいが、しかし、これが真実なのである。

 いま、私は、こうしてこれまでの自分のデザイン教育者としての人生を否定することによって、本当に人間にとって必要な「デザイン能力」とは何であり、だれのためのものなのかを問うことが自分の生きる意味であると感じている。

 私が世に送り出してきた「デザイン学生」たちは、デザイナーという名の知識労働者の一人として資本の頭脳の一端を担う仕事に就いた人たちが多い。私はいま、彼らに考えてももらいたい。ただ資本の意図の一端を担うのではなく、デザイン労働者としての自覚を持って、そのデザイン労働の現場での真実を見据えてほしい。つねにそれに批判の目を向け、なぜ自分がそのようなデザインをしなければならないのかを問い、その疑問を胸に蓄積して、いつの日かそれを声を大にして叫ぶことの出来ようになれるように。あなた方のそのような批判意識の武器になれることが私に課せられた社会的責務であり、このブログの役目であると考えている。

 

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2011年5月 1日 (日)

同じ事実を見る視点の違いに注意しよう!

 今朝(5月1日)の朝日新聞「読書」欄に、横田增生著「ユニクロ帝国の光と影」に対する書評が載っていた。評者は、山形浩生氏である。この書評は実に滑稽である。要するに、著者がユニクロ帝国の「影」の部分を紹介指摘し、批判する内容が、皮肉にも逆に企業経営者の立場から見ればその経営指針となるような分析になっていると評者は指摘して著者をあざ笑っているのである。

 なぜ朝日新聞の担当者がこの著書にこんな評者を選んだのか、まずそこが問われなければならないが、とにかく、同じ事実を、そこに雇用されている労働者の立場から批判している(と思われる)横田氏に対して、企業経営者つまり資本家側の立場からそれを評するという形になっているからだ。すれ違いの極みであって、これではまるで書評になっていない。書評とは、著者の意図や立場に深く踏み込んで、著者が気づかなかったことや、著者の意図をさらに深めるきっかけを読者に与える使命があると私は考えているからだ。

 さて、同じことをもう少し別の事例で考えて見よう。先日、NHK TVの「クローズアップ現代」で、この度の大震災で、大きな被害を受けた釜石市のある水産会社の経営者が、津波で全壊した会社の設備を立て直し、従業員と一丸となって再建に取り組んでいる姿が放映されていた。この地域にふさわしい産業を興し、そこに雇用を創出し、地元の人々の生活を安定化させるという社会的使命感を持った、その企業の経営者は、なかなか、かっこよかったし、現代における一つの模範的経営者というイメージであった。

 しかし、その経営者もやがて会社再建のための資金繰りが進まず、壁にぶつかる。そして不本意ながら、全従業員に「一時解雇」を通達せざるを得なくなったのである。従業員たちは、「この会社で働けて、よかったし、もう一度一緒に働けるようになるまでなんとか頑張りたい」と言っていた。そこには経営者と従業員が家族のように一体となって会社を切り回してきたというイメージがあった。

 多くの日本の中小企業においては、このような状況があると思う。そこへ単純に「資本家による労働力の搾取」という図式を当てはめてみても、「それは違うでしょ」という反応が返って来るのは当然である。

 問題は、いかに社会的な使命感を持ち、従業員思いの優れた経営者であっても、資本の法則のもとでは、まず会社を興すための資金を金融資本家や株主から調達しなければならないし、それによって会社が利益を挙げて、借りた金を利子付きで金融資本家や株主に返すと同時に労働者への賃金も払わねばならないのである。したがってある決定的な場面で「泣いて馬謖を斬る」あるいは「苦渋の決断」という形で、従業員を解雇しなければならなくなるのである。

 その背景には、再建資金や経営資金を金融機関が貸してくれないなど、金融資本の立場から、企業の経営の利潤獲得能力を値踏みされるという事実がある。多くの場合、現在の日本では、社会に必要な「ものづくり」やその供給を担当する中小企業経営者が、産業資本の階層的構造(下請け孫請け)の中に組み込まれているか、食品関係のように流通販売関係の資本に組み込まれており、それらの最上層部に、「産業の血液」を司る金融資本家たちがいて、資本の機能をさまざまな業種の経営者において発揮させてその水揚げを利子として吸収しているのである。その中で、中小の産業資本家は利潤を上げられなくなれば会社を倒産させられ、経営者は授業員を解雇しなければならなくなり、全体として社会は失業率が上がっても、お構いなしに産業構造を組み替えて「より多く、より効率よく儲ける仕組み」を必死になって追い求めることになるのである。そして、その中で労働者も気づかぬほど見事に「合法的化された」労働力の(不当な)搾取が浸透しているのである。

 こうした資本主義体制全体の仕組みを変えて行こうとする視点と、その中にどっぷり浸かって、資本家としての機能をいかに上手く発揮するかと考える視点では、その歴史的な意味も実存もまったく異なるのだということをマスコミも知るべきではなかろうか?

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