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2011年1月9日 - 2011年1月15日

2011年1月15日 (土)

朝日新聞「「成長」を相対化する」での議論を巡って(2)

 藻谷氏は政策投資銀行参事役という立場であるから、いわば資本主義経済を推進する側である。それゆえ、ジャクソン教授より遙かに資本家的なリアリストであり、主張は具体的である。しかしジャクソン教授のようなグローバルな視点は乏しいようだ。藻谷氏の見解は次のようなものである。

 一口に言えば、今の日本経済は実は輸出も好調で貿易黒字も増えている。低迷の原因は、国際競争に負けたからではなく、内需の縮小こそ元凶である。内需減少傾向は1990年代後半から始まり、経済が成長しているときでも続いてきた。それは景気変動と関係なく、就労年代の人口の減少に連動している。定年退職者の数が新規学卒者よりも多くなってから、住宅、クルマ、家電製品など現役世代を市場とする商品の需要が下がってきた。しかし商品の生産は機械化されるので、就業者が減っても生産量は下がらない。だから供給過剰となり、値下げ競争を恒常化させ、消費額の減少を引き起こしている。就業世代の減少とともに外国人労働者の受け入れ論が出てくるが、過剰な生産を抱える日本に必要なのは労働者ではなく消費者である。働かずに消費だけをしてくれるお金持ちの外国人こそ受け入れるべきだ。

 人口が減少するのは必然であって、そうなっても海外から資源や食料を輸入する金は稼げる。労働者の減少を補う機械化、自動化が輸出産業の国際競争力を向上させ、海外から稼ぐ金利差益も増加している。イタリア、フランスのような高級ブランド商品をつくり輸出すればそれも儲かる。

 内需縮小に歯止めをかけるには、高齢富裕層から若い世代や女性への所得転移を図るべきだ。団塊世代の定年によって浮く人件費を、モノを消費しない高齢富裕層への配当に回さず、若い世代の人件費や子育て社員の福利厚生費に回すべきだ。若者の低賃金長時間労働は内需を縮小させ、企業自らも利益を損なっている。賃上げ→内需拡大→売り上げ増加という好循環を生み出すように企業も努力すべきだ。

 以上が藻谷氏の見解である。

 藻谷氏は労働人口が減るのは「必然」としているが、それは先進資本主義国での話であって、先進資本主義国の「成長維持」は実は途上国の労働人口増加に依存するのである。市場がグローバル化し、途上国の低賃金労働による生活資料が国際市場で価格競争に勝ち、先進国の生活資料として輸入され、国内のそれらの競合生産部門はつぶされていく。衣料品、食料品、廉価家具、そして廉価家電製品などの生産企業がそれによって国内から消えていく。

 そしてそれらの低価格生活資料商品の流通が、国内での資本家による労働者の賃金抑制を可能にさせる。もし国内での労働賃金が上がれば、日本で生産された商品の国際市場での競争力がなくなる。だから資本家は決して簡単に労働者の賃金を上げたりしない。むしろ合理化により労働生産性を上げながら、それによって少なくなった労働者には過重な労働を課し、剰余労働をできるだけ多く搾り取ろうとするのである。競争に勝つために相対的剰余価値の増大を図る資本家が資本構成の高度化(いわゆる合理化)により労働者数を減少させれば、全体として労働者から吸い上げられる剰余価値量が減少するという矛盾(利潤率低落の傾向的法則)に対応するために、資本の拡大を図り、企業規模を拡大して雇用を増やしていくという戦略が取れたのは、もはや過去の話になってしまったのだ。

 その結果、輸入商品と競合する部門での商品値下げ競争が激化せざるを得なくなり、それに対して労働者は資本家によって「消費者」として意義づけられているにも拘わらず、低賃金と雇用不安の中で将来の生活資金を確保せねばならず、たとえ安くてもあまり無駄な買い物はしなくなるのである(これは大量の無駄な消費より格段に健全な考え方である)。藻谷氏の言うように労働人口の減少に対する商品の供給過剰が消費を縮小させているのではない。

 この現実を藻谷氏は知っているのか知らないふりをしているのか分からないが、藻谷氏の結論的提案(賃上げ→内需拡大→売り上げ増加という好循環を生み出すように企業も努力すべきだ)は、なにやら「ケインズ主義再び?」という感を抱かせると同時に、1930年代と違って、当時と全く状況の異なる現在では、そんなことが出来るわけがないと言いたくなる。しかもそのケインズ主義の限界がいま突きつけられているのだから。問題は消費の拡大(内需拡大)ではなく、節約した合理的な消費でも経済が成り立つようにすることなのである。

 一方高齢富裕層は、リッチに見えるが、これとて銀行や投資会社によるいわゆる「個人資金運用」という誘いに乗って、預貯金を提供し、金融資本はそれを原資にして国際的な投資市場でまんまと儲けているのである。だから実は高齢富裕層は、死ぬまで自分の預貯金を全部使えず、たとえ子孫にそれを残しても、贈与税で吸い上げられ、国の財産となり、最悪の場合、破綻した金融資本のつっかえ棒に利用されたりするのである。また政府は国債を買わせてこの個人資金を吸い上げようと必死になっている。

 高付加価値商品(いわゆるブランド商品など実際の価値より遙かに高い市場価格で売ることの出来る商品)もリッチな人々からお金を吸い上げようとする資本家の戦略の一つであるが(欧米や日本のデザイナーはこの分野で資本家に貢献している)、ここで富裕層から吸い上げられた莫大な利益は、あらたな資本として蓄積され、決して労働者階級の生活向上のために還元されることはないだろう。

 いまわれわれが直面している問題はジャクソン教授や藻谷氏が主張するように簡単に答えがだせるようなものではないのだ。

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朝日新聞「「成長」を相対化する」での議論を巡って(1)

 15日の朝日新聞朝刊の「耕論」で、二人の異なる立場の論者が先進諸国の「成長戦略」への批判を行っており、これが興味を引いたので、それについて私の意見を述べてみようと思う。

 一人はイギリス・サリー大学のティム・ジャクソン教授であり、もう一人は、日本政策投資銀行の藻谷浩介氏である。

 まず、ジャクソン教授の主張は次のようなものである。自分は英国政府の「持続可能な発展委員会」の委員長だが、経済成長を絶対視するいまの経済モデルは間違っていると思う。やがて新興国の人口増加を促進し、エネルギー消費が急増し、限界に達するだろうから。この成長モデルは、産業革命に始まったが、とりわけ成長を目指す傾向が強まったのはここ50~60年のことだ。1929年の大恐慌は過剰な生産に消費が追いつかなかったために起きたが、そこでケインズが提唱した、政府が需要を喚起しなければならないという考え方が今も継承されている。そして成長をがむしゃらに推し進める傾向をマネタリズムが加速させたことが今の状況を招いている。(この辺の分析は、私もそれほど違和感はないがその後が問題だ---著者注)

 ジャクソン教授はこれに続けて言う。いまの危機は経済上の3つの問題にとして把握出る。まず、信用取引の拡大が個人の借金を増やし続け、実体経済そのものが衰えること。次に、大量消費を煽ることは人々の精神を豊かにしないこと。3つめは自然環境の制約が気候変動のみならず資源の枯渇を招くことがほぼ確実であることだ。これに対処するには政府の役割が重要である。しかし、政府は人々の精神的豊かさや自然環境を守ろうとすることと同時に社会の安定のため経済成長を維持しようとするのでジレンマにぶつかっている。

 このジレンマから抜け出すために必要なことは、まず二酸化炭素排出量の削減に具体的数値目標を設けるなど自然環境の制約を尊重することであり、次に、経済システムを安定させるために、消費拡大を目指す投資から環境保全技術開発などへの投資に切り替えるべきである。そして雇用を維持するために労働時間を短縮することと労働生産性を落とすことを考えねばならない。それが成り立つためには、すでに経済的に成長した先進国では、サービス産業や生活の質を高める産業への投資が有効だ。第3に人々の能力を維持するために精神的な面での成長を目指すべく、過剰な消費を煽る広告などは規制すべきだ。先進国では従来のように成長モデルは否定されるべきだが途上国ではまだ経済成長が必要である。

 朝日新聞の記者の訳とまとめ方を信用するとして、ジャクソン教授の見解はざっとこのようなものである。このような見解は日本でも多くの同調者がいるだろう。しかしおそらく資本家側からは、労働生産性を落としたら国際競争で負けるし、労働時間を短縮しても利益をあげるには、生産性を向上しなければならない。こんな矛盾した意見は現実的でない。という反論が出るであろうことは目に見えている。

 ジャクソン教授は資本家ではないのでリアルな経済感覚が乏しい、と資本家的に言ってしまえばそれまでなのだが、しかし、それよりもずっと重大な誤りは、経済恐慌を単に生産過剰によるものとして考えていることである。それは生産物が商品という資本の一つの形態であるために、作られすぎた商品が過剰資本という形を取るために起きるのだ。生活に必要な商品が有り余るほど在庫しながら、それを市場に出せなくなり、一方で「労働力商品」の使用価値もなくなって、労働者は失業し、生活のために必要な資料を求める労働者階級の手に、自分たちが生産したにも拘わらず、それらのモノが渡らなくなる、という矛盾が起きるのである。ジャクソン教授はこの辺の理解が浅いので、問題を解決するために労働生産性を落とせとか労働時間を短縮しろなどと簡単に言うことができるのであろう。

 この矛盾を、労働者の雇用と賃金の相対的高騰を政策的に生み出すことで、消費主導型経済に変貌させ、恐慌を防ごうとしたのがケインズ的経済政策である。そこでは労働賃金を消費に振り向けさせることでそれを利潤として消費関連の資本に再び環流させ、過剰資本を過剰消費によって恐慌に転じることなく全体として資本を増加させ続けるシステムを確立させたのである。そして、いまやそのシステムが行き詰まっているのである。だから問題はジャクソン教授が考えるよりずっと複雑であり深刻である。

 ジャクソン教授の主張のように成長が行き詰まった先進国で環境保全産業やサービス産業や高付加価値産業に資本家が投資し、そこに新たな雇用を生み出したとしても、いまやグローバル化した流動過剰資本は、そこからくみ上げた利潤を、国内の労働者の生活のために還元するようなことは決してなく、一方で高成長を必要としている途上国へ投資することになるだろう。その結果、日本のような「先進国」では生活にもっとも必要な資料を国内で生産できず、途上国に頼る傾向が強まるだろうし、寄生的な産業や金融業が主要産業となりグローバル流動資本の分け前によって生きることになるだろう。したがって、結局、地球全体の資源の食いつぶしや自然環境悪化を止めることは出来ないと思う。

 むしろ「途上国」はセルジュ・ラトゥーシュが言うように、むしろ「先進国」が取った誤った発展の道ではなく、それとは別の方向に進むすべきなのだろうと思う。(ラトゥーシュについては以前このブログで取り上げたが、いま彼の著書を読んでいるので近々もう少し突っ込んだ批判ができるようになると思う)

 一言でいえば、先進国においても途上国においても、もはや全世界レベルで資本主義経済システムのモデルが行き詰まっているのである。いま経済成長と繁栄を誇っているように見える「途上国」もやがていまよりもっと巨大な壁にぶつかることは目に見えている。

 そういっては失礼かもしれないが、大学の経済学の専門家が、このような皮相な分析や指針しか与えられないこと自体、いかにいまの腐朽化した資本主義社会の中で本来の批判力が失われ、文化そのものが疲弊しているかが分かるというものである。

 次回では藻谷氏の見解について検討してみよう。

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2011年1月14日 (金)

アメリカ的「自由と民主主義」を超えて

 われわれがいまマジョリティーとして持っている、政治形態に関する常識は「自由と民主主義」であると言えるだろうが、これは実は第二次世界大戦後アメリカが世界の基軸経済国となり、西欧諸国や日本などがアメリカの経済と文化をモデルとして戦後の「国づくり」を行った結果であるといえるだろう。

 これに対抗して「東西冷戦」として緊張を保ってきた一党独裁体制の「社会主義圏」が官僚による労働者階級支配体制の内部矛盾が噴出して20世紀末に実質的に崩壊してしまった今日、アメリカ的「自由と民主主義」が世界標準として普遍的な地位を得たように見える。

 しかし、このアメリカ的「自由と民主主義」がいままたアリゾナ州での政治家を狙った銃乱射事件などで揺れている。一人一人が銃を持って武装し、自助努力によって成功を勝ち取るというアメリカの伝統的「自由と民主主義」のもう一つの顔である。リンカーンを始め多くの大統領や政治家が反対者に暗殺され、戦中戦後の一時期は、左翼政党へのおそるべき圧殺が行われ、その中で「自由と民主主義」が各国に布教された(そして「自由と民主主義」を護るためにと称して多くの戦争が起こされ、多くの若者たちが殺されていった)。

 われわれの生活の中から、だれでも立候補でき、選挙で選ばれれば政治運営を行う一員になることができ、間違って政治を行ったりルールに違反すれば、政治家を辞めなければならない、という政治のかたちは、確かにそこだけ見れば理にかなっているし、一党独裁制の旧社会主義国での「翼賛政治」に比べればはるかに優れていると言えるだろう。

 しかし、現実には、選挙に立候補できる人たちは極限られたエリートかお金持ちか「有名人」である。そして選挙で選出されるために、さまざまなパフォーマンスや人気取りが必須であり、政治家への条件はさらに絞られる。これらの当選要因を決定づけているのは、生活状態の余裕であり、高度の学歴であり、知名度の高さである。したがって、平等に見えるこの選挙制度の本質は、世の中の支配層がつねに圧倒的に有利な立場にいるいうことである。

 さらにこの民主主義制度を支える「自由」の本質は、このブログで4回に渡って述べてきたE.トッド氏への批判の中で指摘してきたように、元来「自由な商品所有者」の市場での取引の「自由」であり、彼らの支配の元でその商品を直接生産している「自由ではない労働者」たちのものではない。「自由な商品所有者」から見れば、労働者はその労働力を自由に売りに出せるではないか、と言うだろうが、現実にはそうでないことが、いまの社会での失業率を見ても明らかである。仕事に就きたくとも就職できない、生活を維持していきたくてもそれができない人たちが社会にあふれているではないか。この状況は「企業への減税」によっても改善されることはないだろう。なぜなら減税された分は、雇用に還元されることなく「激化する国際市場で勝ち残るため」合理化のための設備投資や、海外の新たな格安労働力の購入の費用として消えて行ってしまうからである。

 さらに「自由と民主主義の母国」アメリカでは人種による失業者の格差にも示されているように、資本家と労働者の階級対立が人種構成と無関係ではない。この辺のデータは以下のmizzさんのメルマガ「三次元図で」の労働力調査報告のページをぜひ見て頂きたい。

 http://archive.mag2.com/201101140830000000164231000.html

 しかし、いま、アメリカでも日本でも直接的生産者たちは、このブルジョア的「自由と民主主義」の幻影に邪魔されて、意図的に「衆愚化」され、政治家の勝手な行動に翻弄されながらも、その立場(労働者階級としての)の本当の意味での代表者を政治の場に送り出すことがきわめて困難な状態になっているのである。

 実は、こうした「自由と民主主義」より、いまでは遙かにおそろしい独裁体制の象徴になってしまった社会主義国の政治体制も当初は、このブルジョア的「自由と民主主義」の矛盾を超えようとしていたのである。例えば労働の現場に直接的生産者による労働者評議会(ソビエト)を設け、その代表が人民委員会に入り、政治運営を行うという形が目指されたのである。しかし、それを労働者自身が担うためにはあまりに彼らがまだ知識や能力が未熟であったため、インテリが多かった「前衛党」が労働者を指導するために特別な権利を与えられることになったのである。これはあくまで過渡的な措置であった。しかし、それがやがて反対派の粛清や追放によって恒久化され、党官僚が特権を保持し、労働者階級を支配するようになってしまったのである。

 いま「空回りする民主主義」やハイパー個人主義を廃棄して、ふたたび古い宗教的倫理や旧体制の倫理に戻ることが必要なのではなく、歴史的にそれを超えようとしてきた労働者階級の努力がどこで挫折し、何がその原因だったのかを深く捕らえ直した上で、再び直接的生産者であり社会システムを直接動かしている労働者階級の手に直接政治の実権を取り戻すための本道を探るべきなのではないだろうか?

 その意味ではいま、崩壊しつつあるアメリカ資本主義の遺産であるブルジョア民主主義を換骨奪胎して本当の民主主義に育て上げるための機会が来ているのかも知れない。

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2011年1月13日 (木)

エマニュエル・トッド「空回りする民主主義」を巡って(その4)

 さて、トッド氏の主張でもっとも大きな間違いは、自由貿易主義などの経済的政策を「表層」の問題として捉え、パイパー個人主義など、諸個人の実存に関する問題を「深層」の問題として捉えていることであろう。実は社会経済的な問題こそ、諸個人の実存の在り方を基本的に規定する「下部構造」の問題なのである。

 先に見てきたように、自由貿易主義の背景となっている、経済システムは、「自由な」商品所有者としての資本家と「自由でない」直接的生産者たる労働者という関係のもとで可能になる思想であったと言える。そしてその本質的矛盾を孕んだ経済の「自由貿易主義」がそのグローバル化と齟齬を生じているのである。

 世界中の人々が「自由な商品所有者」になり得ると考える人たちには、最終目的は、世界中が自由な貿易による経済で支配され、それをすべての人々の「民主主義」が政治的に支えていくという構図であろう。しかし、現実はそうでない。自由でない労働者階級が直接的生産を支えているにも拘わらず、その労働者の能力すら「自由に売買できる商品」として所有(雇用という形で)できる人たち(資本家)の「民主主義」は、実は世界中の圧倒的多数の「自由でない人々(労働者階級)」の犠牲の上に構築された幻想の思想なのである。

 彼らの言う「民」の主体は「自由な商品所有者(資本家)」なのであって、「自由でない直接的生産者(労働者)」ではないのである。だから経済のグローバル化により、資本家階級によって世界的規模で確立された労働者階級への支配体制(搾取体制)が、たえず各国の労働者による、矛盾への抗議や闘争となって表れるのである。しかし、その労働者の抗議や闘争は、未だ、「自由経済」や「民主主義」というブルジョア的思想の支配的な影響力によって覆われているために、残念ながらさまざまな形で歪められている。それが、ブルジョア思想を「普遍的な思想」として信奉する人たちにとっては「空回りする民主主義」という風に見えるのであろう。

 トッド氏が指摘する「ハイパー個人主義」は、何が何でも「自由な商品所有者」たる個人の利害を優先する、資本家的個人主義の行き着くところであり、「ハイパー個人主義」の基底にある近代的「個」という実存は結局、国際市場での自己の主張を通すために資本家同士が結束して国家や共同体というものをその手段(民主主義という政治形態を通して)として必要としながら、共同体の実質的推進力となっている直接的生産者たち(労働者)の人間としての正当な主張と衝突せざるを得ない本質を持っていると言えるだろう。

 最初に挙げた、20世紀前半の「西欧の没落」的雰囲気の中で、近代的「個」の限界が表面化し、それを支えてきた資本主義社会の危機を迎えたときに、西欧社会の「個」に対抗してあらたな共同体的結束を生み出そうとして登場したのがドイツにおいては「血と大地」をスローガンとするナチズムであり、日本では天皇を中心とする「日本精神」であったことを忘れてはならない。

 さらに言えば、その資本主義経済体制を土台から覆そうとした、社会主義革命が、目指したのも、近代的「個」の超克であり、それがマルクスの経済理論を基軸とした、共同体としての「共産主義社会」というものであった。

 前者(ナチズムや日本精神)は、資本主義経済のメタモルフォーゼの中での「目標」であり、後者は、それを根本的に超えようとした思想の中での目標であった。

 しかし、多大な犠牲を生み出すことで両者ともに挫折し、そのあとに生まれたアメリカ主導の消費主導型資本主義経済の上に立つ「自由と民主主義」と、マルクス思想のスターリン的な著しい改ざんによって歪められた「社会主義国家」という現実であった。

 いま、歪められた「社会主義国家」はその内部矛盾からほとんど消滅し、残された中国が、皮肉なことに、崩壊しつつある資本主義社会と手を組んで、グローバルな労働者階級の搾取体制を尻押ししているのである。

 こうした状況の中で、われわれは、再び、諸個人と共同体の問題を深く考え直さねばならない地点に立たされている。そのキーポイントは「政治と経済の規模の適正化」でも「ハイパー個人主義に代わる共同体の精神的絆の確立」でもない。

 それは一言でいえば、社会を成立させている、直接的生産者たち自身による直接的な社会システムのコントロールであろう。いまや世界中が実質的に一つの経済圏として結合しつつあるときに、これを安易にブロック化したりするのではなく、それぞれの地域や国で行われているその社会を支える生産的労働者がそこでの政治的実権を掌握し、資本家のためではない、労働者のための政治を行える体制を確立することが必要であり、その上で、その立場から資本家の利潤追求活動を介さないで直接に社会の生産システムをコントロールし、無駄な消費に基づかなくとも成り立つ経済システムを確立すること。そして、各国でのそうした運動と連携して、世界的な規模での資本家階級を介さない直接的生産者自身による生産と消費のコントロール・システムを確立し、地球全体での資源や環境を維持する体制を確立させることであろう。

 そのためには、いまのような、資本家的自由と民主という思想が支配的思想となっている社会での任意の立候補者の選挙という形ではなく、社会でさまざまな形での分業を担って働いている人々が、直接その立場からの代表者を送り出し、それらの人々による政治的な運営が必要となるだろう。社会の成立に必要なさまざまな職場での労働に携わる人たちによる直接的な社会の運営と、それによって自然に生み出される社会的分業形態全体が一つの結束をもたらすような形での共同体こそわれわれが求める形なのではないだろうか。そこに初めて、私的所有を前提とした資本家の商品市場での利益追求の「自由」とそれを可能にする政治形態である「民主主義」を土台とした「近代的個」という実存を超えた、新たな個人と共同体の関係が生み出され得るようになるのだと思う。

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2011年1月11日 (火)

エマニュエル・トッド「空回りする民主主義」を巡って(その3)

 もともと資本主義経済の市場には国境がないと言ってもよいだろう。しかし当初それはモノとしての商品に関してであったと言える。中世末期、ベネチアの商人たちはアジアなどから珍しい品物を運んできてヨーロッパで売ることによって巨万の富を蓄えた。そして19世紀のイギリスでは産業資本家による生活資料の商品化と工業的生産が一般化することで、ギルドなどによる古い職人的な生産や農業などの自給自足的経済体制が破壊され、国内市場が形成され、多くの原料や食料などが海外から輸入され、工場で加工生産された商品が市場に出回るようになった。そして国内需要が一定程度満たされるようになると原材料の輸入と商品の海外輸出が盛んになったと考えられる。

 19世紀末から20世紀初頭には、こうした海外市場への進出のために植民地が活用され、植民地での労働力が大量に用いられるようになっていったと考えられる。

 しかし、最近の「経済のグローバル化」はこの段階をとっくに通り越し、前回述べたように、古典的自由貿易の挫折と世界恐慌と社会主義国の進出による危機を資本主義的に克服するために採られた政策が、資本主義社会を大きく変化させたことが基本にあると言える。恐慌を防ぐことができた反面、膨大な過剰資本が蓄積され、それを支える過剰消費によって加速されながら世界中を動き回り、これを獲得するために争奪戦を繰り返す資本家的企業にとって「国籍」の意味を失わせしめるようになったのである。

 一方では、「国際分業化」とも言われるような、国境で区切られた経済圏における労働者の生活水準の違いと貨幣価値の違い等による利潤獲得の有利さを基準とする労働の国際的搾取形態の形成が行われながら、他方では、それら全体を国際的な金融資本のグループが間接的に支配するという形が登場してきたのである。グローバル資本は、自国の労働者を含む、世界中の労働者からその生活水準にふさわしい賃金と労働内容によって生産を割り振り、莫大な量の剰余労働を搾取し、それを含む商品を国際市場で売るための激しい競争を繰り返しているのである。そのため各国の労働者は「国際競争に勝つため」という至上命令のもと、日夜激しい労働に追いまくられ、自分たちの生活を律することすら出来なくなってきている。それにも拘わらず、一方では国際市場での価格競争に勝つための生産の合理化がどんどん進められ、先進資本主義国では社会全体での労働者の雇用は減る一方なのである。

 資本のグローバル化の本質は、国際的な労働の搾取体制の確立であり、それにより過剰に蓄積される資本の資本家同士による「自由な」奪い合いの場なのである。そしてこれこそがグローバル資本主義が掲げる「自由貿易主義」の目的であり結果なのである。

 だからたとえばG20などでの各国政府首脳たちが、自由貿易の行き過ぎによる問題を「良心的に」解決しようとしても、おそらくは、実質的に自国の経済を支配している資本家たちの利害を配慮し、お互いに無駄な過当競争には歯止めをかけて、政治的戦略と駆け引きのもとで、互いに国際資本市場のもたらす富の分け前を決めて妥協するくらいがせいぜいであろう。その意味でいまの資本主義国の政府は本質的に「資本家代表政府」なのである。

 そしてその中で中国がどのような態度に出るかが重要である。おそらくは、いまの欧米の国際資本に対抗して中国政府紐付きの中国資本をグローバル資本の仲間入りさせることに腐心するのではないかと思う。その一方で世界的な過剰消費による欠乏が危惧されている資源や食料の獲得争奪戦が始まるであろう。それがどのように展開されるかは予測できないが、彼らは決して労働者階級の生活状態の改善や発展を第一義的目的とはしていないのである。その意味でおそらくトッド氏が考えるほど現実は甘くないと言えるだろう。

 こうした状況の中で、世界中の労働者は、共通の矛盾のもとに置かれながら、互いに連帯することも出来ず、「国家」と「民族」あるいは「宗教」の壁の中に押し込められ、互いに対立しながら一部の人々は無差別テロなどに走っているのである。

 次に、トッド氏の言う、「ハイパー個人主義」と民主主義の問題について考えて見ることにしよう。

(続く)

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エマニュエル・トッド「空回りする民主主義」を巡って(その2)

 まずトッド氏が言う「自由貿易主義」について考えて見ると、この主張はそもそも資本主義社会が登場したときからの基本コンセプトとでも言えるような思想であるが、その前提として、「自由な商品所有者」という概念があり、その「自由な商品所有者」が自ら欲しいモノを自由に市場で求め、また売ることができる社会が理想とされてきたと言えよう。14−15世紀ベネチアあたりで地中海貿易により莫大な富を築き上げてきた初期のブルジョアジーたちは、この思想により旧体制せある王権と対峙してきた。当然、彼らは王侯貴族の特権を廃して自由な商売や貿易を主張した。だから彼らはフランス革命などでもインテリたちはもちろんのこと小生産者や労働者、街の商店主、農民などをも味方につけて「市民(ブルジョアジー)」として王権と戦ったのだ。

 しかし、やがてオランダ辺りで家内手工業をやっていた小工業生産者が商業資本家たちの商品市場拡大の欲望のもとで、商品を生産するために合理化され工場制手工業へと変貌させられ、工業生産の主導権が職人から資本家に移って行き、18〜19世紀のイギリスでのいわゆる産業革命を通じて巨大な機械制大工業という形で、社会的に必要な物資がほとんどすべて産業資本家の支配下に置かれた企業で商品として生産されるようになったのである。そこでは、社会全体が商品の集積で成り立つ条件として、労働力商品という、自らの能力を商品として資本家に売り渡すことでしか生活できない階級、つまり「自由でない」直接的生産者という階級の存在が前提とされることになったのである。

 この「自由な商品所有者」と「自由でない直接生産者」の階級対立は20世紀前半までは鮮明であった。たとえば、資本主義諸国の大都市には必ず「労働者居住区」という貧民街があった。また、19世紀中葉にアメリカで南北戦争に勝ったリンカーンは、奴隷解放を行った「自由の旗手」として有名であるが、「解放」された黒人奴隷たちは、決して自由ではなく、北部の資本家が経営する工場に労働者として雇用されるしか生きる道がなかったのである。その結果、20世紀にはアメリカは資本家的自由を謳歌する国に発展して行くことになったが、アフリカ系の労働者たちは、彼らの公民権運動が法的な最低限の権利を勝ち取る1960年代まで実質的には奴隷化されたままであった。ただそれはあからさまな人身売買的奴隷としてではなく、「自由な労働市場」で労働力を買われる賃金奴隷としてではあったが。そして現在も形を変えてさらに広範な広がりと深さをもって「自由でない直接生産者」の世界を存続・拡大させつつあるのである。

 さらに言えば、この自由貿易主義は、すでにそれが行き詰まり植民地獲得戦争となった第一次世界大戦を経て、1930には完全に破産していたと言ってよいだろう。アメリカ、イギリスなどの先進資本主義諸国に対して、ドイツ、日本など後発の資本主義諸国が、世界市場の獲得戦で不利な立場に立たされていたことから、世界経済圏のブロック化を進めようとしたのである。結局これは武力による対決という形に発展してしまったが、当時一方で、世界のかなりの部分を占める国々で、非資本主義化(いわゆる「社会主義化」)を進める運動が進んでいた。この三すくみ状態での戦争が第二次世界大戦であったのだが、そのため、先進資本主義陣営はその危機的状態に対応するために純粋な自由市場を一部否定し、国家が金融市場を通じて経済に介入し、国家による一定のコントロールによって自由市場での行き過ぎやアンバランスがもたらす経済の混乱(恐慌)を防止しようとした。そして同時にそれは慢性化した失業率の増大とそれによる労働運動の激化と社会主義化に対する防護策として雇用を生み出すことも狙いだった。

 ルーズベルトによるこの政策はイギリスのケインズらの経済に対する考え方を参考としたと言われているが、実は、戦争による短期間での大量消費が、この新経済体制を成功に導いたと言われている。

 そして戦後アメリカ資本主義が世界の主導権を握ることになり、ドルが世界基軸通貨として流通し、東西冷戦下で大量消費の一つの典型である軍需産業が活況を呈するようになった。一方アメリカの労働者階級は、政府のケインズ型消費主導型経済政策のもとで、賃金の相対的高騰により余裕ができた生活資金を生活資料商品に消費させられ、結果的に資本がそれを利潤として回収できる経済システムに置かれることとなり、いわゆる生活消費財の大量生産大量消費の時代が始まるとともに、他方でスターリン体制のもとで一党独裁、一国社会主義政策が採られるようになった社会主義諸国に対して、アメリカが「自由主義の母国」と言われるようになったのである。

 しかし、このアメリカ資本主義の黄金時代も労働者階級が「中産階層化」していく過程では国内市場の伸びが順調だったので保つことが出来たが、ベトナム戦争に参入し始めた1970年頃から揺らぎ始め、敗戦国日本やドイツでのアメリカによる対ソ経済防波堤化戦略のもとで、国内の資本家企業が復興のため関税などで保護育成され、労働賃金もアメリカより低かったため、新興の産業資本家から送り出される輸出商品が世界市場を席巻し始め、アメリカは関税撤廃による自国の商品市場の確保に乗り出したのである。彼らのスローガンは変動為替制の確立で各国通貨の調整とそれによるドル価値の維持を行うことと、「自由貿易」であった。

 一方、「資本主義体制内での社会主義的経済政策」と言われたイギリス労働党政府のケインズ的経済政策も、労働者の「過保護」による労働生産性の低下が国際市場での不振をまねき、失業率が高止まりし、社会保障を賄う国家予算の懐も怪しくなって、いわゆる「イギリス病」に陥ってしまった。そこにサッチャー率いる自由経済主導グループが台頭することになり、アメリカのレーガンとともに「小さな政府」を目指す動きが進んだのである。その背景にはハイエクらの主張する新自由主義という思想のバックアップもあったと言えるだろう。

 そしていま再び「自由貿易の行き過ぎ」が俎上に上がっているのである。1930年代と違っていまやグローバル資本主義経済の主導権をにぎりつつある「社会主義国」中国の台頭を背景として。その意味ではトッド氏が指摘する「自由貿易の矛盾」がなぜ繰り返されるのか、何が本当の「自由」なのか、だれが「自由の主人公」なのかをよく考えなければならないのである。

 すでに述べたように、「自由貿易」や「自由な市場」を要求するのは、生産手段を含め、社会全体が必要とする富を個人で「私有」する特権を持った人々(資本家階級)であって、大多数の直接的生産者である労働者階級の人々は、資本家たちの「私的所有の自由」や市場での「競争の自由」のために、働く自由も、生活する自由も奪われているのである。いまわれわれの日々の生活の中でますますそれが明らかになってきているではないか。そしてその上で「民」とは誰のことなのか?「民主主義」の主人公は誰なのかをもう一度点検し直すことが必要であろう。

 さてこうした「自由貿易」という資本主義経済の基本コンセプトとともに、それが持つ「グローバル化」の必然性について次に考えて見ることにしよう。

(続く)

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2011年1月10日 (月)

エマニュエル・トッド「空回りする民主主義」を巡って(その1)

 1月8日の朝日新聞朝刊にフランスの人類学者エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事が載っていた。なかなかおもしろかったので感想を書いておこう。

 アメリカ、日本などで劇的な政権交代があったにも拘わらずその後新政権がうまく機能せず、国民との間の齟齬を深めている現実について、トッド氏は、かいつまんで言えば次のように主張する。

 これらの問題の表層には自由貿易という経済の問題があり、深層にはハイパー個人主義とでもいえる精神面の問題がある。

 グローバル化が進んだ経済では、政治上の問題が結局は自由貿易が解決してくれるというイデオロギーが広がっており、政党の主張の違いが本質的な問題ではなくなっていること。しかし、現実には、世界中で需要が不足し競争が激しくなり、途上国の安い労働力があると賃金の高い国の人々は無用だと見なされ、社会が縮みつつあるという感覚が生まれる。G20で各国が景気刺激策が必要だと訴え、そうした政策をとったにも拘わらず、企業の収益は増えたが雇用や賃金はまったく改善されなかった。結果的に、それらの政策は中国やインドのような新興国の景気を刺激しただけだった。

 一方で深層では、個人の精神面で、社会が個人というアトムに分解されていく、ハイパー個人主義のような傾向が強くなった。その結果、国をはじめとする社会や共同体で人々が何かについて一緒になって行動することが考えられなくなっている。近代的個人の誕生と民主主義は密接に結びついているが、より個人化の進んでいるアメリカやフランスのような国々が民主主義の壁にぶつかっているのだ。日本やドイツのように共同体的結びつきが残っている国では問題はあまり深刻化していない。民主主義の普及には識字率の向上が寄与しているが、高等教育の普及によって先進諸国は文化的平等の立場から抜け出てかえって教育格差が深刻となる事態を迎えている(トッド氏はこれが格差社会を生み出していると言いたいのであろう)。

 表層での自由貿易主義的思想は、エリートたちが知性を発揮してなんとか克服できる問題(たとえば、自由貿易主義に対抗して欧州連合のような単位での保護主義を採り、それによって経済と政治の規模を近づけるなど)であるように見えるが、深層の超個人主義的思想については、欧州で共同体を支えてきたキリスト教が政治思想に変化し、民主主義を生み出してきた。しかしいま共同体としての国において国民さえも一体となって動けなくなり同じ共同体に生きているという感覚が解体しつつある。しかしこれに代わってみんなが一体となれるような新たな精神的協同体の支柱が築かれる可能性は当分出てこないだろう。

 以上のようなものであるが、私のきわめておおざっぱな把握なので、多少誤解があるかもしれないことをお断りしておく。

 このトッド氏の主張は、昨今のアメリカや日本などを中心とした政治と経済の行き詰まり現象を話題にしていることで興味を引かれるが、彼が挙げる表層の問題と深層の問題の関係がいまひとつピントこない、というかその辺の最重要問題がぜんぜん深められていないように思うのである。そこで私なりに問題を提起してみると、次のようになる。

 第一に、自由貿易と経済の「グローバル化」とは何を指すのか、そしてそれがどのようにして生じてきたのかという問題。第二に、近代的「個」を生み出してきた社会経済的背景の形成過程と、今日のグローバル化した経済での自由貿易主義が台頭する社会経済体制の形成過程がどのように結びついているのか。第三に、なぜそれらが壁にぶつかっているのかを両者の関係において捉えること、が必要なのではないだろうか。さらに言えば、いま話題のセルジュ・ラトゥーシュの「経済成長なき社会の発展」との関係をどう見るのか、という視点もほしいところである。

 これらすべてに的確な回答を求めるのは問題が大きすぎて、現実的でないかもしれないが、考えられる範囲でこれらの問題に少しずつでも自答してみようと思う。

 まず、最初に、私が感じたトッド氏の主張全体の印象としては、彼の目指す方向はかなり危険な要素を孕んでいるようだということである。かつて世界的に経済が行き詰まり、失業者が街にあふれていた1930年代に、ニーチェやシュペングラーのような西欧的近代の終焉という思想から導かれたナチズムによる新しい共同体の精神的支柱(その中には彼の高名な哲学者ハイデッガーもいた)と、経済のブロック化の主張(たとえばアメリカやイギリスに対抗した「大東亜共栄圏」の構想)がどのような結果を導いてきたかを思い起こしてしまうからである。

 いまのアメリカを中心とした「自由貿易主義」の思想はそのような思想の挫折の後に現れたものであることを忘れてはならないだろう。さらにトッド氏はこれからは戦争による問題解決はありえないと言っているが、なぜそう言えるのか?私は第二次世界大戦の当時とは全くことなる「論理」で再び戦争による解決を目指す人々が出てくる可能性は十分にある様に思う。

(続く)

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