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2011年5月15日 - 2011年5月21日

2011年5月19日 (木)

資本論をめぐる「場所的自覚」の問題

 最近、ふたたび、宇野弘蔵の経済学方法論とそれに対する批判の古い(1970年代の)文献を読んでいて、私自身、むかし学生運動の最中にあって、大学の助手として研究者のスタートを切った当時のことを思い出しつつ、ふと感じたことがあった。

 それは当時しきりに言われていた「場所的自覚」の問題である。当時、仲間と資本論の購読会を始めたが、長続きせず、結局その後、学生運動に関わったという理由で大学当局によって研究業務から外されて「干されて」いた毎日を、自身のマルクス理論学習の時間に充てていた。しかし資本論はそう簡単に自分の中に消化できるものではなかった。そこで、当時「批判」の対象となっていた宇野弘蔵の「経済原論」や「経済学方法論」「価値論」「恐慌論」などを読み、そこから資本論の理解の手がかりを求めようとしたのである。いま、当時私が読んだそれらの文献に自ら赤で引いた傍線やコメントが書き込まれているのを見ると、なんと「青かった」ことかと恥ずかしい思いがするのである。しかし、それが「青かった」と感じるいま、では果たして私がそれらの理論を超え出た水準にいるかといえば決してそんなことはないだろうというのもまた事実である。

 私は、宇野経済学を通じて資本論を学んだと自覚している。そしてそのことによる欠点もまた自分にはあるということが最近ようやく分かってきたのだ。それはイデオロギーと科学の関係についていまだに自分自身の中ではっきりした確信がなかったことにも表れている。それは70年当時、既成左翼の硬直したマルクス理論に対するとらえ方が、スターリンのそれを根本的に批判したものではなく、いわば、「イデオロギー主義」的なトップダウン解釈になっていたことへの宇野弘蔵からの鋭い批判に私が共鳴したからであろう。宇野はあくまで資本論をイデオロギー的視点から解釈するのではなく、むしろ普遍的な意味での科学として再把握すべきであると主張していた。

 当時、すでに学生仲間は宇野経済学に対する「批判」を口にしており、私もその「宇野経済学方法論批判」を読んだのである。しかし、その「批判」の真の意味が当時の私には理解されていなかったと言わざるを得ない。せいぜい「近代科学」といえども資本主義社会の中で育ってきたものであって、歴史的刻印を押されているのだから、科学主義という形では資本論でマルクスの意図したものの本質は理解できない、という把握であったようだ。

 この把握は間違ってはいなかったが、しかし、次のようなことが分かっていなかったとだと思う。史的唯物論という確立したイデオロギーがあって、そこから資本論が解釈され、それに即して現実に適応されるべきだというとらえ方では、つねに「現実」からイデオロギーそのものも検証され磨き上げられていくという科学本来の立場が崩れてしまいイデオロギーも教条化されてしまうということ。それには、つねにいま自分が直面している現実がどのようなものであるのかを理解しようとする立場(出発点としての問題意識)から出発し、その理解の武器として資本論でのマルクスの把握を自分の理解として「再把握」することが必要だということである。マルクスの資本論は彼の中に把握された限りでの史的唯物論的世界観に基づく社会経済学的な現実への批判として書かれているのであって、マルクス自身は史的唯物論は自分用の覚え書き(ドイツイデオロギー)としてそれを残したに過ぎない。

 しかし、資本論という社会科学書が史的唯物論というイデオロギー的立場からトップダウン的に位置づけられるのは誤りであるとする宇野の方法論的視点(それ自体は正しいと思う)からは資本論は「原論」として「何人にも客観的に理解できる科学的論証」に基づく完結した体系になってしまい、同時に段階論や現状分析が単にその「適用」として(したがってここは科学ではなくなり)そこからある意味で切り離されてしまうということである。しかし資本論のもつ「未完成さ」は、それをある意味での資本主義社会の矛盾の論理を表す真実の「核」としてマルクスによって把握されたその本質論としてとらえ、資本主義社会の矛盾の歴史的発展と同時にその把握の歴史的な展開がそこから要求されることによる終わりのない開かれた体系としてあるのだということだ。

 だから、例えばなぜ私が最初に資本論を読み始めたとき、難しくてよく理解できなかったにも拘わらず、そこに「これは絶対に正しいことを言っている」という直感的確信が持てたのか、ということが分かってきたのである。それはまさしく「場所的自覚」の出発点であり、そこから資本主義社会の矛盾の現実を理解するための「科学」としての視点が形成され深まるのある。客観的現実の中にあってそこにある矛盾への最初の直感の中には、あるいみで(客観的かつ主観的な意味で)の問題のすべてがあると言えるのだ。人間自身自然的物質の運動の歴史の中から生まれてきた存在であり、それが対象とする世界もまた自分自身をその個別的な場所として含んだ全体であるのだから。資本論はこうした歴史の中で人間が生み出してきた社会である資本主義社会の現実が提起する矛盾を「問題」として認識する労働者の「階級的自覚の書である」と言われるゆえんである。

 私自身はもちろん労働者ではないが、自分の研究者としての人生において成さねばならないことはすべてこの場所的な自覚から始まるのだということが分かってきた。私のデザイン論の展開もそのような視点から再把握しなければならないと思っている。

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2011年5月16日 (月)

 mizzさんのコメントから考えさせられること

 5月2日にここに投稿した私の「朝日新聞「声」欄の投稿から考えさせられるデザイナーの役割」という意見についてmizzさんからコメントがあったことはご覧の通りである。5月2日の朝日新聞紙「声」欄で山田さんが「私は原発造らせた覚えない」という投稿で反論している相手の坂岡さんという方の投稿を4月23日の朝日新聞紙上から見つけて頂いた。その内容はmizzさんのコメントを見て頂ければ分かるが、それに続けてmizzさんが言っている次のような意見がおもしろい。

 「電力も原発も商品であって、売るのは自由です。これが現在の社会的な政治経済の状況です。買う方も自由であって、互いに商品と貨幣の交換が行われることで成り立っている社会です。欲しい商品があるわけではなく、売りたい商品だけしかなく、取引が成立した後は、買った人の自己責任であって、売った方は基本的には、一定の責任以上のものを持たない自由が保証されており、政府がそれを法で支えているのが国の役割の存在ということになっています。ここに本質的な問題点があることを指摘できなくては、ジャーナリズムとしての存在理由を失いかねないところです。商品と物との違いをしっかりと把握しておくことが何といっても基本中の基本です。こうした時に云ってやりたいと思っていた言葉があります。悔しかったら、家庭用原子炉を造って売れって。それができないんだったら、政府とか特定者のみに売るような原子炉はつくるなって。つくらせない自由があるのが分かるだろ」

 まさにその通り!というところである。田中さんも坂岡さんも言いたいところは多少のニュアンスの違いはあれよく分かる。「経済成長で豊かな生活を」というスローガンのもと、次から次へと「消費者の要求」が恣意的に生み出され、「新商品」を買わされ、やがてはそれなしには生活できないような現代のわれわれの生活様式が出来上がってしまった。その結果、地球上の資源は食い尽くされつつあり、その争奪戦が激化しており、廃棄物による自然環境の汚染が危機的な状態になり、人類の生活の物質的基盤そのものが破壊されているにも拘わらず、生活においては、まるで新商品を買うことだけがわれわれの存在意義であるかのようにされてしまったのである。そしていま、まるで大自然からの警告のような大震災によって突然原発が動かなくなると同時に、放射能の恐怖が襲いかかり、電力供給が絶たれ、停電などで家庭生活はおろか企業の生産活動も医療活動もストップしてしまうという事態を生んでしまったのである。

 この事態に対して、これほど危険な原発を「必要」とさせるような社会経済システムを生み出してきた本当の原因を明らかにし、その誤りを正そうとする意見が出てくるのは当然である。

 これに対して「原発を全廃せよというのは非現実的だ」とか「ニッポンをもとのように元気にするには原発は必要だ」などという主張を掲げる連中がいかに罪深い連中であるかは明らかである。彼らは、「経済成長」という名の下に資本を成長させ、「経済成長により豊かな生活が実現される」というあやまった幻想をばらまいて、原発政策の旗を振ってきたことへの反省の色がまったく見られないのである。mizzさんの皮肉はこういう連中に向けられる鋭いとげである。

 朝日新聞などは、原発廃止論に近い意見を掲げているが、その一方で、「経済成長」の本質が何であったのか?そしてその結果、われわれの生活が本当に豊かになったのか?という根本的な問題を完全に回避しており、見せかけの「リベラル」でしかないことは見え見えである。

 問題は、膨大な無駄な消費を、あたかもそれによって人類が豊かになれるかのように吹聴し、そのために、「経済成長」が必須であると言い聞かせ、グローバル資本を国際市場競争に勝たせるために毎日働かされ、それにも拘わらず(というか、だからこそ)生活が少しも楽にならない労働者たちをだまし続け、挙げ句の果てに原発がなければ成り立たないような生活様式を生み出し、そして震災でそれが崩壊したにも拘わらず、「ニッポン再生のためにがんばろう」などとハッパをかけて、生活を維持するために馬車馬のように働く労働者のしりをさらに叩いているのである。そして、崩壊した原発の中で命がけで働く修復労働者たちは、東電社長の何十分の一かの賃金で恐怖に充ちた地獄で働かされているのだ。

 一方で、こうして欺され続けて「豊かな生活」を夢見て働き続けてきた労働者から、日々の労働で搾取され続けている剰余価値は、資本の利潤として蓄積され、やがてすべての資本の上位に位置し、すでに過剰となった資本を「消費拡大」によってさらに増加させ、国際的な競争によって資本家間で再分配しようとするグローバル金融資本のもとに蓄積される莫大な富として資本家階級の支配を築いているのである。そして彼らに「雇用」されることなくしては生活することができない賃労働者を日々再生産しているのである。

 もういちど、よく考えて見よう。目の前で起きている事態の歴史的な意味を!

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