« 2011年5月29日 - 2011年6月4日 | トップページ | 2011年6月12日 - 2011年6月18日 »

2011年6月5日 - 2011年6月11日

2011年6月11日 (土)

資本の拡大再生産から見る過剰資本の処理形態について(その3ー奢侈品生産)

 前回は資本の循環とそれを商品の循環という視点から見た場合の社会的総資本の再生産の条件について考察した。前回では、社会的総資本の単純再生産という基本形について述べたが、実際の資本主義社会はつねに、拡大再生産という形をとる。それをマルクスの再生産表式で表せば以下のようになる。

 I(v+m)>II(c) (拡大再生産表式)

この表式の意味は、生産手段を生産する資本家のもとで働く労働者が前貸しされた労働賃金vとその労働において生み出され資本家によって取得される剰余価値部分mが、II 部類の資本家が生産する生活手段商品と交換されるが、その価値量が、それと同時に交換される、II 部類の資本家の用いる生産手段c の価値量より大きくなければ資本の拡大再生産はできないということである。つまりこれが商品の生産という視点から見た「資本の成長」の条件である。これをブルジョア経済学者たちは「経済成長」と呼んでいるのだが。

 ここで問題の過剰資本の処理形態について的を絞って行きたいのだが、その前に「奢侈品」について考えて見ようと思う。マルクスはたとえ単純再生産のもとであっても奢侈品生産はあると言っている。つまり、II 部類(生活手段商品)の中にも、生活必需品であるIIa と奢侈品IIb があり、IIaの価値構成部分のm部分は、IIbの価値構成部分のv部分より大きくなければならないとしている。つまり:

 IIa(m) > IIb(v)

要は、II 部類のうちの奢侈品はすべて資本家が自分のために消費あるいは所有する商品であって、労働者に前貸しされる可変資本の中にそれが含まれることはない。奢侈品生産が成り立つためには、奢侈品を生産する労働者に前貸しされる労働賃金部分の価値IIb(v) がつねにII 部類の中で生活必需品を生産する資本家の利得IIa(m)の一部に含まれなければならないということであって、つまり奢侈品生産を行う資本家はつねにその可変資本部分を、生活必需品の生産を行う資本家の取得する剰余価値の量より少ない価値量に規正される形で存在しうるということである。もちろん奢侈品を消費する資本家にはI部類の資本家も含まれる。

 そして拡大再生産ということになれば、当然この奢侈品生産部分もそれに比例して大きくなるかのように思われるが必ずしもそうとは言えないようである。資本の拡大再生産が順調に進んでいる間は、資本家の取得するm部分の多くは拡大再生産のために投資され社会的総資本の拡大を推し進める。奢侈品生産は、そのような資本の拡大再生産に直接寄与するものではない。しかし資本の拡大再生産が行き詰まり、過剰資本が生じるようになると事態は一変すると考えられる。

 過剰資本が何であるかについては、資本論では第3巻 第3編 第15章「この法則の内的矛盾の展開」で触れられているが、はっきりと過剰資本とは何かが記されているわけではない。マルクスはこう述べている「資本主義的生産の目的のための追加資本が、ゼロに等しくなれば、そこに資本の絶対的過剰生産が存在するであろう。しかし、資本主義的生産の目的は、資本の価値増殖である。すなわち剰余労働の取得であり、剰余価値の、利潤の、生産である。したがって、労働人口の供給する絶対的労働時間も延長され得ず、相対的剰余労働時間も拡張され得ないような、労働時間の比率において資本が増大するやいなや...中略...したがって、増大した資本が、その増大以前に比して同じであるにすぎないか、またはより少なくさえもある剰余価値量を生産する場合には、そこには資本の絶対的過剰生産が現れるであろう。すなわち増大した資本C+ΔCは資本CがΔCによるその増大以前に生産したよりも多くの利潤を生産せず、または、それよりも少ない利潤をさえ生産するであろう。」(資本論 第3巻 第1部 向坂訳 岩波書店版 p.311-312)

 このような状態に突き当たった資本主義的生産において資本家階級は過剰に生産される資本を様々な形で処理しながら乗り切ろうとするのである。20世紀初頭にはすでに資本の蓄積が金融資本の支配のもとに置かれ、絶えず過剰資本の蓄積による圧迫に晒されていた。レーニンが指摘したようにかつて産業資本主義の盟主であり「世界の工場」として君臨していたイギリスはすでに「金貸し国家」になっていた。帝国主義段階の資本主義国は、過剰となった資本を海外の植民地獲得競争に振り向け、さらにそれは世界大戦という形で多大な人命の喪失をともなった消耗戦とその戦後処理において処理され、やがてロシア革命を機にいわゆる社会主義圏が登場することによって、世界的金融恐慌に陥った資本主義社会は過剰資本の処理形態を大きく変化せしめたのである。

 それがケインズ等によって理論化されたあらたな資本主義体制を生み出したのである。そして、そこでは「奢侈品」の意味がまったく異なったものになっていったと考えられるのである。

 (続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月10日 (金)

資本の拡大再生産から見る過剰資本の処理形態について(その2ー資本の循環と再生産)

 前回は価値の概念について述べたが、今回はまずその価値が貨幣(資本家に私有された貨幣)から出発して様々な資本の形をとって循環しがら、再び増加した貨幣の形で資本家に回収される「資本の循環」について、さらに社会的総資本の再生産について考えることにする。この分析は資本論 第2巻 第1編「資本の諸形態とそれらの循環」および第3編「社会的総資本の再生産と流通」で詳細に行われているので参照してほしい。

 まず出発点は、資本家が所有する貨幣(G)である。資本家はこれを支払って生産に必要な商品(W)を購入する。この商品の流通過程はG-Wと表記される。そしてこのWは実は生産手段(Pm)と労働力(A)の2種類に分かれる。そして資本家はここで生産手段(Pm)に労働力(A)を結合して、新たな商品(W')を生産するのであるが、ここで、資本論 第1巻で分析された労働力商品の価値が問題となる。つまり労働力商品の価値はその労働力を再生産するに必要な(生活資料)商品の価値(可変資本 v)として取引されるが、実は労働力商品の使用価値は「価値を生み出す」ことなのである。そこで労働力の再生産に必要な価値量を超えて労働させられた結果の剰余価値(m)は、そこで生産された商品の価値として加算される。労働力商品の価値が「可変資本」と呼ばれる所以である。他方、生産手段の価値はただ生産される商品に転移するに過ぎないので不変資本(c)と呼ばれる。

 こうして生産された商品の価値はそれを生産するために購入された商品の価値を上回る価値をもった商品(W')となる。そしていったん生産過程で中断された資本の流通過程が再び始まり、生み出された新たな価値を持った商品が市場に出され、それを売ることで資本家の手に再び貨幣が、今度は最初に支払った金額よりはるかに多い金額の貨幣として環流してくるのである。この過程はW'-G' と表記される。

 結局、資本家は、G-W(Pm+A):W'-G' という形で資本を循環させ、より多くの貨幣のもとで再び次の資本の生産過程を始めることができる。そこでは労働者は再び資本のもとで労働力を売って生活する「賃金奴隷」として再生産されるのである。

 ちなみに、マルクスは資本論 第1巻で、労働者によって一定の労働時間に生み出される価値量のうち、労働者自身の労働力の再生産に必要な価値量 v(直接的には賃金として支払われる)とそれを超えて生み出される価値量 m(剰余価値)の比率(m/v)を搾取率と呼んでいる。

 この資本の循環過程は、それぞれの視点から見ると、G-W...P...W'-G'という貨幣資本の循環という視点、P...W'-G'-W...Pという生産資本の循環としての視点、そしてW'-G'-W...P...W'という商品資本の循環という視点から見ることが出来る。(W...P...W'は流通が中断され、生産過程に入っている過程を示す)

 このうち、商品資本の循環という視点を捉え、社会的総資本の生産を単位循環期間(例えば1年間)で考え、社会的総資本を生産手段商品(I 部類)と生活手段商品(II 部類)の二つに大きく分けて考えると、次のようなマルクスの再生産表式が適用される。生産手段商品においても生活手段商品においてもその価値構成はc+v+mであるが、もし社会的総資本が単に前年度と同じ価値量の資本しか再生産しなかった場合、つまり単純再生産の場合は次のようになる。

 I(v+m)=II(c) (単純再生産表式)

ここでc: 不変資本、v: 可変資本、m: 剰余価値部分を示す。すべての商品はその価値構成部分でいえば、その生産過程で形成されたこの3つの価値部分で構成されている。c 生産手段の価値が移転した部分、vとmは労働者がその労働において生み出した価値部分であり、v は労働力の再生産費として資本家が労働者に労働賃金として前貸した資本部分であり、m は労働者がv の形成過程を超えて労働することによって生み出した剰余価値部分であり資本家に搾取される部分である。

 この単純再生産表式の意味は、単純再生産においては、社会的総資本の生産手段商品部類の可変資本部分と剰余価値部分の和が、生活手段商品部類の不変資本部分の大きさと同じであることが単純再生産の条件であるということである。

 実はこのことはかなり重要な意味を持っている。つまり、生産物としては生産手段であるI 部類の商品は両部類の資本家によって買い取られるが、一部はII 部類の資本家が生産した生活手段商品と交換され、I 部類の労働者と資本家の生活資料として消費される(単純再生産の場合は資本家がm部分をすべて自分の生活資料として消費すると考える)。一方、II 部類の資本家はI 部類の資本家から購入した生産手段を(不変資本 c として)用いて生活手段商品を生産する。残りのI 部類の生産物はI 部類内部の資本家によって生産手段として用いられ、残りの II 部類の生産物はII 部類の内部で資本家と労働者の生活資料として消費される。

 言い換えれば、I 部類とII 部類の間で行われる流通においては生産手段を生産する資本家のもとで働く労働者が前貸しされた労働賃金vとその労働者が生み出し資本家によって取得された剰余価値mが、II 部類の資本家が生産する生活手段と交換され、同時にそれと等価値の生産手段商品が、生活手段を生み出す資本家の生産手段として買い取られるのである。そしてこの交換関係が社会的総資本の単純再生産の条件となるのである。

 ここでc は過去の労働の成果を示す価値部分、vは新たに生み出されたつまり現在の労働の成果を示す価値部分、そしてmは新たに生み出された価値のうち本来ならば未来のために蓄積されるべき価値部分と解釈できる。そのような意味からは、まず生産手段生産において新たな価値を生み出すことが生活手段に生産手段を与える条件となると言えるのである。

 (続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月 8日 (水)

資本の拡大再生産から見る過剰資本の処理形態について(その1ー価値論を巡って)

 私はマルクス経済学の専門家ではないので、これから述べることはむしろ専門家の視点から誤りがあれば教示してもらいたいのだが、とりあえずこのところ考えていたことを何回かに分けて書いてみようと思う。

 まず、資本論で扱われている「価値」の意味について確認しておく必要がある。これは単なる個人の価値観とは次元の異なる経済学的カテゴリーとしての価値である。マルクスはリカードやスミスなどのいわゆる古典派経済学者の唱える労働価値説(価値の源泉は労働にあるという説)を形の上では引き継いでいるように見えるが、そこには根本的な違いがある。それは、「資本」という概念のとらえ方の違いから来るものであって、資本や価値を普遍的なカテゴリーとして考える古典派と異なり、マルクスは価値が経済の法則として捉えられるようになったのは資本主義社会が成立した後であり、それはむしろ労働の結果である生産物が労働者のものとはならず逆に労働そのものを支配する「商品市場経済の法則」となってしまったために、その矛盾がそれを否定的な意味で法則として認識させる基盤を生み出したと捉えているように思われる。

 例えば、資本論 冒頭の第1章「商品」の中で価値が論じられ、価値形成実体が社会的に必要な労働一般であり、価値の量はその労働内容の如何に関わらず、その社会的に平均的に要した労働時間によって決まることが明らかにされているのを見ても、そのことが分かる。宇野弘蔵の説を引用すれば、労働力までもが商品化される経済体制が登場することによって初めて「価値」が概念化され得たのであって、そのことによって、資本主義社会の価値法則を否定し、本来の経済原則(歴史上のあらゆる社会に共通する経済の原則)という視点から、それが社会的に必要な労働に要する労働時間を表すことによってその労働に必要な社会的労働力の配分を決める指標になっていることが明らかにされ得たといえるだろう。

 しかし、この価値は実際の商品市場においては、市場価格という形で現れ、社会的な需要と供給の関係によって決まる値をとることになる。これは資本主義経済が、社会全体に必要な労働を行っている労働者自身がその必要度を把握しそれに従って生産をコントロールする(従って無駄な浪費などさせなくとも済む)という本来の経済体制をいまだ生み出し得ず、資本家が生産手段を私有化し労働力を商品として購入することで商品を生産し、それを売り買いすることで利潤を上げるために、その手段としてしか社会的に必要な生産を行い得ないために、資本家たちが自ら所有する商品を売り買いするという市場経済システムの上でしか労働の社会的配分を行い得ない(だからこそ常に多くの失業者が存在する)ためであると言える。再び宇野弘蔵の説を借りれば、私的所有による商品市場という「回り道」を介しないと経済原則を達成し得ない資本主義社会の矛盾である。

 つまり、「市場経済の法則」として現象している資本主義社会の価値法則は、労働者が社会的生産の主導権を握った暁には、廃棄され、働く人々は価値法則から解放され、したがって賃金奴隷から解放され、本来の経済原則にしたがった計画的な労働力の社会的配分がそれぞれの労働者の自由意志に基づいて行われ、それと同時に原則的に労働時間に応じた社会的富の分配をおこなうことができるようになると考えてよいであろう。

 そのような価値の概念は、現代資本主義社会において、「付加価値」としてもてはやされている利益獲得の手法(ブルジョア社会特有の個人的価値観を利用して市場価格を実際の価値よりはるかに高い価格に設定する手法)で象徴されるような資本家的「価値」(市場価格と価値と価値観とが区別できていない)とは本質的に異なる明快な概念であることをまず明らかにしておこう。

(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月 6日 (月)

 結局民主党は自民党「左派」だった

 前回の「菅首相不信任案決議を観て」を書いた後で、事態はまた変化し、菅さんが「目途のたった段階でやめる」というのは具体的にいつのことか?という「菅降ろし派」の質問に菅さんが答えず鳩山さんの怒りを買ったのち、「自民公明との大連立」という流れになってきた。

 私の前回のブログに対するmizzさんからのコメントに「自民公明と殆ど同じ立場に身を置くかぎりは、政党としての支持を得ることはできないのは自明だが、マニフェスト復帰もないとなれば、首のすげ替えを3回続けることもないだろうから、早々総選挙となる。総選挙の繰り返しと大連立含みになるのも避けられないが、その経過の中で、民主的な選挙の本当の意味が分かってくることだろう」という指摘があった。

 まさにその通りというところ。結局は「選挙対策」でしかなかった「マニフェスト」とそれが当然のことながら瓦解していく中で、民主党の本質が実は「自民党左派」でしかないということが明白となった。

 われわれはもう欺されてはならない。週間××などの過激な見出しに惑わされず、来るべき選挙を見据えよう。いま世の中がどうなってるいるのか、世界がどう動いているのか、そしてなぜそうなっているのかを冷静に見極め、大震災を巧みに利用して「ニッポン国のためにがんばろう」などというまやかしの旗印に決して乗ってはいけない。主人公は、「幻想共同体」としての「ニッポン国」などではなく、日々の労働の中でわれわれの生活を築き上げている個々の働く人々であり、そういった諸個人が日々直面している現実に踏まえた問題提起でなければならないはずだ。

 なぜ「消費拡大」が叫ばれながら現実にわれわれの生活は良くならないのか?なぜみんなが一生懸命働いても世の中全体がおかしな方向に行ってしまうのか?誰があのような危険な原発がなければ成り立たないような、「浪費の成長」しか生み出さない馬鹿げた経済の仕組みをつくったのか?そしてこのような眼前の現実を意図的に覆い隠すような「ニッポン・イデオロギー」に欺されることなく、日々われわれが直面している問題の背後にある巨大な「資本」という怪物の存在とその本質を見抜くことが必要である。

 現実に社会を支えるために日々働く人々が「消費者」という形の資本の「賃金奴隷」に貶められ、すべての労働者の労働の成果は資本として蓄積されあらゆる労働を市場経済の法則のもとに支配しているにも拘わらず「自由と民主主義」を看板ににしている国「ニッポン」とはいったい何なのか。いったい誰が「自由」なのか?「民」とはいったい誰なのか?

 その「ニッポン」を支配している政治経済機構そのものがその本質的矛盾ゆえに必然的に崩壊しかけているいま、それを「ニッポン国」という旗印の下に、もとにもどすために「修復」するのではなく、それとは本質的に異なり、働く人々が「消費者」であると同時に「生産者」であるような、本来の主人公になれる新しい政治経済の仕組みを築くための議論が必要なのではないか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年5月29日 - 2011年6月4日 | トップページ | 2011年6月12日 - 2011年6月18日 »