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2011年6月12日 - 2011年6月18日

2011年6月14日 (火)

資本の拡大再生産から見る過剰資本の処理形態について(その6ー「成長」と「縮退」の意味)

 このように見てくると、従来「経済成長」と言われてきたことは、実は不生産的生産による浪費の拡大という形で行われた資本の成長であって、「雇用の拡大」も「豊かな生活」もそのような不生産的分野の拡大によるものであったことが分かる。しかし、それに対する反発が、セルジュ・ラトゥーシュのような「縮退(デクロワッサンス)という風に直対応で捉えられるのは大きな間違いであることも明らかである。縮退せねばならないのは、不生産的生産による浪費であって、社会全体の成長では決してない。(セルジュ・ラトゥーシュについては、このブログで私が今年の1月28日〜2月11日まで、9回にわたって述べた部分を参照していただきたい)

 社会的生産力という意味での資本の生産的成長は、すでにもう100年も前に壁にぶつかり、鈍化していたのであって、20世紀後半からの「成長」は不生産的浪費の拡大によってなんとか資本の再生産を維持してきた資本主義社会の末期的な姿であったことが分かる。

 それが20世紀末に「社会主義圏」がその道を誤って自己崩壊したことをきっかけに、普遍的世界標準の社会形態であるかのように思われるようになった。だが、その「普遍的世界標準の社会形態」は、一方で自ら膨大な浪費の拡大という形で掘った墓穴である地下資源の枯渇や自然環境の破壊という事態と、それだけ浪費しても(金融資本という形で)まだ蓄積する膨大な過剰資本をめぐって、資本家同士のその奪い合いが、グローバル市場での激烈な競争として現れ、労働者階級はそのもとで失業と過重労働という矛盾にみちた困難の中に置かれている。

 問題は、こうである。マルクスの拡大再生産表式 I(v+m)>II(c) を資本の拡大再生産として面からのみ見るのではなく、普遍的な意味での社会の成長を考えるならば、この表式での価値構成を過去の労働の成果 c、現在の生きた労働 v、そして未来のために蓄積されるべき労働の成果 m として本来の形で捉え還すならば、社会的な生産物の普遍的な条件が見えてくるのである。

 マルクスが価値の実体と本質を見いだし、それによって資本の正体を暴き出し、資本主義社会の再生産過程を商品の価値構成という面から捉えたのがこの再生産表式であると言えるが、それはまた、同時に、この価値の本質が社会的に必要な労働の量によって決まる客観的な指標として捉えられたことを通じて、価値法則に支配されている資本主義社会からの解放が、それを意図的で計画的に用いることで本来の社会的再生産を考える手立てとして用いられ得る社会の実現として想定されていると考えてよいであろう。

 つまり、社会的に必要な生産手段の生産分野における、現在の生きた労働の維持再生産に必要な生産物を生み出す労働の量と、それに加えて将来のさまざまな備えとして必要となる生産に要する労働量(社会保障や災害への備えなどの社会的共有ファンド)の和が、社会的に必要な生活手段の生産分野における、その生産に用いる生産手段の生産のために必要だった労働量よりも、大きくなることが、無駄な浪費ではない形での社会的成長の条件であるということであろう。

 このm 部分が資本主義社会においては資本家によって私有される形となっており、その私有という形においてはもはや過剰となった財によっては、本来の意味での社会的成長(いいかえれば本来の形での労働者階級の生活の成長)は不可能になり、むしろ労働者階級をも巻き込んだ膨大な無駄や浪費という形で社会的破壊の方向に向かっているということなのである。

 だから、われわれが目指すべきは、決して「社会のデクロワッサンス」ではなく、莫大な過剰資本という形で蓄積された資本家階級の私有財産(その源はすべて労働者の労働の成果である)のデクロワッサンスであり、それを本来の社会の成長へと転換させる(つまり本来その財を生み出した労働者階級全体にこれを取り戻す)ことが可能な社会システムの構築なのである。

 そこでは、市場の価値法則に任せた無駄な浪費や自然破壊はなくなり、人類全体の共有財である地球資源の合理的で計画的な使用や、必要にして充分な量の生活資料の生産や、自然災害や病気などに対する社会全体のサポートが社会的共有ファンドとして計画的に築かれ得る体制が構築され得るようになるだろう。これがもしもっと早く達成できていれば、今回の大震災にともなう人為的悲劇(原発事故による災害や震災による失業や生活資材の喪失など)は起きなかったであろう。

 さて、こうした大きな枠組みの中で、考えたとき、いま資本主義社会の腐朽化した末期的状況ゆえに、それぞれの職能という形においてさまざまな「場所的困難」に直面している労働者階級は、どうすればよいのであろうか?その問いは私にはあまりに大きすぎて到底的確に答えることはできないが、とりあえず私の専門領域であった「デザイン」(デザイン労働)については何らかの答えを出さねばならないだろう。

 これについついては、別項であらためて考察することにしたい。

(続く)

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2011年6月13日 (月)

資本の拡大再生産から見る過剰資本の処理形態について(その5ー不生産的消費財)

 前回では、大内力による「国家独占資本主義」社会での過剰資本の処理形態の分析について述べたが、その中で述べられていたようにデザイン、広告宣伝、そして第3次産業の隆盛がこの社会における過剰資本の処理形態の重要な一部となっていることが指摘されていた。そこで今回は、マルクスによる総資本の拡大再生産表式とこの「国家独占資本主義」における不生産的生産による過剰資本の処理の関係について考察しよう。

 マルクスは、社会的総資本が拡大再生産を続けていくためには、社会全体で生産される生産手段商品(I 部類)の価値構成と生活手段商品(II 部類)の価値構成の間に、I(v+m)>II(c)(もちろん、ここで言う c:不変資本部分, v:可変資本部分 ,m:剰余価値部分という商品の価値構成はすべてのI 部類とII 部類商品に含まれている)という関係が維持されていることが条件であると言っている。これはあくまで資本が生産的に機能している場合の話である。資本が生産的に機能するというこことは、蓄積された資本が資本家の生活手段に回される部分(本来の奢侈品もこれに含まれる)を除いてその他の剰余価値部分のすべてが次の拡大再生産のために用いられ、それによってあらたに増大した利潤を資本家にもたらすという場合のことを言っているのであって、過剰資本が形成されると、それがあらたな拡大再生産に結びつけられなくなるために、資本家にとって大きな圧迫となってくるわけである。そのため、資本家はこの過剰資本となった部分を不生産的に処理しながら拡大再生産表式を維持し続けようとするのである。

 国家独占資本主義においては、大内力によれば、まず貨幣価値を金本位制から離脱させ、中央銀行による一定程度の貨幣価値のコントロールを可能にさせるとともに、インフレ政策などによって資本の循環過程でGの価値を少しづつ低下させながら、それを利用して労働賃金を見かけ上高騰させて労働者に消費財をどんどん買わせる仕組みを生み出したというわけである。

 そのため、国家独占資本主義における労働者の生活手段は、そのような位置づけを与えられ、「不生産的消費」のための生活手段という形に変質していくことになる。もちろんここには生活必需品としての消費財が含まれているのだが、それとともに「不生産的消費財」が入り込み、全体としては「豊かな消費生活」という外観を与えることになるのである。現代のデザイナーは、この「不生産的消費財」の購買を増大させることが資本家によるミッションとして与えられた職能なのである。

 「豊かな生活」という外観を持った、国家独占資本主義社会においては、一方で資本家階級が、実質的には何ら生産的労働を行っていないにも拘わらず、単に生産手段を所有しているという理由で「生産者」と呼ばれ、他方で、日々生産的労働を行っている労働者階級が、それにも拘わらず「消費者」と呼ばれ、消費においてしか存在意義のないかのような実存を与えられるという状況を生み出し、それによって労働者階級としての意識を失わせしめられ、プチブル的意識のもとに置かれることになる。そこでは、デザインの良い生活財が要求され、レジャーや教養が生活の中で要求され、一戸建ての住宅でガーデニングを楽しむ人々があふれるようになるが、ここでプチブル化した労働者階級によって消費される「不生産的消費財」は、結局、それを生産する資本家の利潤を生み出すための手段であって、資本家階級全体に平均利潤として環流する価値なのである。

 だから、ここで生産される「不生産的消費財」は資本家がその利得の一部と交換する本来の「奢侈品」と同じような外観を持つが、その位置づけはそれとは異なり、可変資本部分 vの一部に組み込まれた「不生産的消費」なのである。言い換えれば、資本家階級にとってそれらは奢侈品的外観をもつ労働者階級の買収費という意味をも持つものなのである。

 資本家にとっては利潤をもたらす限り「生産的」であると言えるのであるが、それが「不生産的」と言われるゆえんは、それが社会全体として本来必要な財を生産するという形にならず、その意味では、無駄な消費、つまり社会的には浪費にすぎない生産だからである。

 それは、人類の共有財産である地球環境や地球資源を資本家の利益のために無駄に食いつぶし、そして石油の浪費によって増やし続ける二酸化炭素を減らそうとすれば電力が不足し、原発を増やして行かねばならなくなるような状態を生じさせながら、その一方でそれがあたかも「豊かな生活」であるかのように演出するための生産なのだ。

 これこそ、現代の国家独占資本主義社会が人類全体にとっては著しく「腐朽化」した社会となっていることを示す大きな証左である。

(続く)

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2011年6月12日 (日)

資本の拡大再生産から見る過剰資本の処理形態について(その4ー不生産的生産)

 資本主義社会は、1930年代には崩壊の危機に立たされていた。一方で社会主義圏の台頭があり、世界的な規模で拡大する労働者の組織的運動があり、他方で資本主義圏は世界的な金融大恐慌に晒され、失業者が巷にあふれていた。資本主義社会がこの「難局」を乗り越えて、1950年代以降再び隆盛を迎えたのは、ひとつには、1930-40年代に第2次世界大戦を引き金として実施されたいわゆるケインズ的な財政政策による資本主義体制への国家機構の大幅な関与によるその変質と、他方では、スターリン等の指導による社会主義圏の経済社会政策と国際共産主義運動における大きな過ちによる停滞化があったと考えられる。

 こうして復活したあらたな資本主義社会はマルクス経済学者によって「国家独占資本主義」と呼ばれ、その実態把握が行われた。これをあるグループの学者たちは「資本主義経済の社会主義化」と捉えていたが、その中で、やや異なる見方をしていた宇野学派の経済学者がいた。大内力である。大内は、国家独占資本主義社会を、国家機構の介入なしに過剰資本の処理をやっていけなくなった腐朽化した帝国主義段階の資本主義と捉えていた。大内はこの国家独占資本主義体制における過剰資本の処理形態について次のように述べている。

 「第1に、もっとも単純明快なのは、主として政府の手によっておこなわれる再生産外的消費の拡大である。戦争と軍備の拡大はその代表的なものであろう...(中略)...だが同じ政府の消費であっても社会資本、公共事業、住宅建設、農業保護、社会保障等にむけての投融資ないし支出ということになるともう少し複雑である...(中略)...住宅建設や農業保護、社会保障等は、労働力の再生産費を国家が分担することをいみし、資本はそれだけ低賃金労働を利用しうるようになる。こういう道すじをとおって利潤率を回復させつつ拡大再生産を促すことが資本の過剰を処理するひとつの手段となるわけである...(中略)...問題なのは、住宅建設や社会保障といった労働者階級にたいする財政支出のもついみであろう。(中略)資本の経済的要求からいえば、それは労働力がますます不生産的になっていることをいみするといえよう。”福祉国家”がしばしば資本主義の停滞につながるゆえんもここにあるといえよう」

 「第2に、金融の変質をあげなければならない。(中略)一方では政府の公債発行であり、他方では消費者金融の拡大である...(中略)...こうして社会的にみれば、ほんらい生産的投資に向かうのが本命と考えられていた社会的に集中された資金が、むしろ消費の拡大のためにふり向けられる機構ができあがる」

 「第3に、いわゆる寡占型の競争のもとでつくりだされる膨大な不生産的投資と労働の存在である。独占が寡占にまで発達すると、資本は価格競争をおこないえないようになり、むしろそれ以外の面で競争を展開するようになる。宣伝、広告、装飾やデザインの斬新さ、浪費の創造による販路の拡大等々はその代表的なものといってよい」「こういったさまざまな形の浪費のうえに立った”生産”は、こんにちの過剰資本の処理形態のひとつの形である。それは...雇用も所得をも増加させ、したがって GNP成長率(ブルジョア経済学のご都合主義的指標にすぎない...引用者注)を高める作用をもつから、一見経済の発展をもたらしているように見える。しかし、それはいわば、不生産的”生産”の拡大なのであり、そのことは第3次産業の異常な膨張のうちに端的にしめされているといえよう。われわれはここにも国家独占資本主義の腐朽性をみないわけにはゆかないのである」(大内力「国家独占資本主義」東京大学出版会 UP選書版、1972、p.230-241より)

 この大内力の分析は、私はおおむね正しいと思うし、いわゆる社会主義圏が崩壊したのちの今日の国家独占資本主義社会における過剰資本の処理形態の分析はこの延長上に行われるべきだと思っている。そして特に、デザイナーという職能の不生産的生産とくに浪費の創出における役割を明確にし、その否定のもとに本来の労働過程における「デザイン的側面」の「現在における」在り方を明らかにする必要があるのではないかと思うし、これこそ「デザイン研究」のもっとも重要な課題であると信じている。

(続く)

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