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2011年8月28日 - 2011年9月3日

2011年9月 3日 (土)

朝日朝刊「創発する民主主義」を巡って

 今朝(9月3日)の朝日新聞朝刊、オピニオン欄に、MITメディア・ラボの伊藤穣一氏の「創発する民主主義」という意見が載っている。ちょうど昨日私がここに書いた「強力なリーダーは必要なのか?」という記事に関係しているので、これについて少し考えて見ようと思う。

 ボトムアップ的に、ある状態を生み出していくことを「創発(Emergence)」と言っているが、これは彼のマイケル・ポラニーが言い出したことである。伊藤氏はいまのネットワーク社会でのソーシャルメディアを用いた政治システム「創発的民主主義」の可能性について述べている。そこでは、さまざまな「現場」に携わる人たちが、自分たちで集めた情報をもとに自分で判断し、それらの人々の間で密度の高い議論が戦わされ、その結果全体として、一人一人のレベルを超えた困難な問題をも解決していく方向ができるというのである。 

 伊藤氏は次のように言っている「従来の代表民主主義は、国民が代理人としての政治家を選挙し、彼らに政策決定を委ねていますが、人々が自分で判断し、発信できるようになれば、政治家に何かを決めてもらう必要もなくなるんじゃないか。草の根から、現場から、直接民主主義に近い政治的な秩序が生まれてくるようになるんじゃないか。それが創発民主主義の夢です」さらに「代表民主主義では意思決定の権限が政府に集中しています。しかし、現代の世界は国際関係にしても経済にしても、ものすごく複雑化し。変化も激しくなっている。政治家たちがそれを全部きちんと理解して、常に正しい判断を下すことができるとはとても思えません」そしてさらに「複雑化する世界の中で唯一生き残る方法は、意志決定の権限を分散していくことです。現場主義です」

 私もこの意見には基本的に賛成である。カリスマ的指導者による政治を期待するよりもはるかに民主的な方法であり、いまのネットワーク技術はそれを可能にさせる基盤を持っている。

 しかし、問題は、このボトムアップ的民主主義を担う一人一人の人たちが、すでにあらかじめ、「支配的イデオロギー(支配的地位にある階級の一方的な歴史観にもとづく虚偽のイデオロギー)」にどっぷり染め上げられているという既成事実である。

 例えば、われわれの生活を維持するために雇用を拡大する必要がある。そのためには経済を活性化させねばならず、したがって消費を拡大しなければならない、といった考え方に異を唱え、人々の賛同を得ることは、ほとんどの人々がそうした支配的イデオロギーに染め上げられている現状のままでは非常に困難である。

 もし、そうした「支配的イデオロギー」を普遍的な既成事実として前提し、そこからボトムアップ的民主主義が出発すれば、いまの社会の根底に横たわる本質的な問題、つまり賃労働の疎外態としての資本による生産=消費の支配という問題はそのままにされてしまうだろう。

 ボトムアップ的創発民主主義が、本当に複雑で困難な問題を解決できるような状態になるためには、それと平行して、いまの社会の「支配的イデオロギー」を根底から批判しうる人々が登場しなければならないだろう。もちろん、その批判は単なる感情論や個人的怨嗟などによるケチ付けや非難であってはならず、徹底的に論理的かつ科学的な基礎の上に立った本来の意味での批判でなければならない。

 そのような批判が多くの人々を「支配的イデオロギー」から解放させることができたときに、初めて創発民主主義は本来の威力を発揮できるようになるのだと思う。

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2011年9月 2日 (金)

「強力なリーダー」は必要なのか?

 政界・マスコミ挙げての「菅降ろし」の末、菅内閣が総辞職して、野田内閣が発足した。巷では、5年間に6人もの首相が入れ替わり、「国難」を乗り切る体制ができない、ここで強力なリーダーシップを持った人に登場してもらわないと日本はダメになる、という話でもちきりであるが、本当にそうなのだろうか?

 日本という国は、「強力なリーダーシップ」がなければやっていけないような国なのだろうか?そもそも「強力なリーダーシップ」とはなんだろう?伊藤博文も高橋是清も「強力なリーダーシップ」を発揮した人物なのかもしれない。しかし、彼らは「無知蒙昧の民」を国家体制を維持させるために先導する役回りを果たしたのかもしれないが、時代は変わったのである。本当の民主的国家では、そこに住む人たちすべてが、高い知的水準を持ち、一人一人が、共同体としての「くに」をどうすべきかを主体的に考える能力を持ち、そうした人たちの合意の元に共同体を運営する代表者を選ぶのではないだろうか?

 もし、未だに日本が「親方日の丸」的な国民で占められていて、強力なリーダーを望んでいるのなら、それは本当の意味での民主主義がいまだに根付いていないことの証拠であろう。あえて言えば、それはまだ、われわれの社会が階級社会であることの証拠でもある。

 要は、われわれ自身がもっと賢くならねばいけないのだ。菅さんがやったことが正しいのか正しくないのか、それがどのような背景で成されたのか、そういうことに関心を持ち、たとえマスコミや有名人がいろいろ言っても、自分の考えはこうであると言えるような立場になるべきであろう。

 時代の波にうまく乗ることだけを考えていないで、その「波」の背景と真実を知ることから始めるべきであろう。いまの社会での「時代の波」は、マスコミやインターネットで騒がれると、それが「暗黙の権威」になってしまい、人々は知らず知らずのうちに。その作られた「暗黙の権威」に従っていくような態度をとってしまうという、ある意味でおそろしい社会なのである。そこにその「波」に乗って「強力なリーダー」が登場すればどうなるか、想像してほしい。

 いま必要なのは、「強力なリーダー」ではなく、われわれ一人一人の自立的思考と実存の確立なのではないだろうか?

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