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2011年9月4日 - 2011年9月10日

2011年9月10日 (土)

何が崩壊しつつあるのかよく考えてみよう

 「国難」とか「崩壊する日本」とかいうキャッチフレーズをよく書店で見かける今日この頃である。

 日蓮上人の蒙古来襲時に言われはじめたと思われる「国難」という言葉は第二次世界大戦中にも用いられ、このときは「非常時」という言葉がしきりに用いられた。それは、それぞれの時代に特有のナショナリズムの表現であるといえるだろう。しかし現在の世界情勢の中で「国難」という言葉を用いる人たちはいったい何を考えているのだろうか?そもそも「日本が崩壊する」という危機感そのものを自問してみる必要があるのではないだろうか?

 いま崩壊しつつあるのは「日本」という国家やその経済体制だけではなく、世界的に支配を確立し、その限界での矛盾を露わにしている、世界資本主義経済体制であるといえるだろう。おそらく今日ほど世界支配を拡大した資本主義経済体制は歴史上なかったことであろうし、まさにそれ故に、その矛盾が極限に達しているということができるだろう。

 すでに1930年代に崩壊の危機にあった資本主義経済体制が、「反共思想」の導入とナショナリズムの扇動による戦争体制の創出を基盤とした軍需生産、そしてやがて戦後においては、労働者階級の生活での浪費を強いることで、階級対立を覆い隠し、過剰資本の圧迫から逃れつつ東西対立の中で生きのびる道を見いだし、やがて「社会主義陣営」の自滅という歴史的出来事にも支えられて、今日の世界支配を確立したのであるが、その矛盾はさまざまな形で噴出し、かつてのような対「社会主義」的なブレーキがきかなくなったこともあって、例えば2001年9月11日以後のアメリカ政府の振る舞いに見るように、絶え間ない戦争体制の創出と浪費経済の道を暴走してきた。そして当然にも世界中の「貧困層」(イスラム圏の人々を含む)といわれる労働者階級を中心とした「被搾取階級」の人々から猛反発を受けたのである。

 世界人口の80%以上を占めると考えられる「貧困層」の人々(正確には貧困化させられた人々)は、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの富裕層の人々が過ごしている浪費生活の、いわば影の犠牲者であり、そうした人々が「富裕国」の人々に反感を持つのはある意味で当然であろう。

 そうした「富裕国」の労働者階級の多くは、自分たちの国の「経済が成長する」ことによってそのおこぼれを頂戴し、軍需産業や浪費産業(いまでは「サービス産業」などという領域も含まれているが)などでの雇用も増えるので「経済成長」を支持している。しかし、実はその「経済成長」は、世界中の「貧困層」の人々の過酷な労働の成果を搾取して蓄積された資本が一方で「富裕層」のための無駄や浪費の山を生み出し、それによる地球環境の破壊や資源の枯渇を拡大しながら、過剰蓄積し、「金あまり」状態になっている過剰流動資本を他方で私的蓄財として奪い取るために奔走する一握りの金融資本企業や投機家などの思惑によって左右されている見かけだけの「成長」なのである。その過剰流動資本の奪い合いが、「グローバル市場の過酷な競争」と表現され、世界中の労働者階級(富裕国も含む)は、ナショナリズムを宣揚されつつ、日々過酷な労働に追い込まれ、「お国の経済発展のために」働かされているのである。やがて「富裕国」の労働者階級の大部分も結局自分たちが誰のために働いているのかを思い知らされることになるだろう。

 そういう事実を目の前にすれば、世界資本主義体制の崩壊過程は、いうなれば歴史の必然として現象しているのであって、むしろそれを危機と捉えるのではなく、その後にどのような本来あるべき社会経済体制が築かれるべきなのかを考えなければいけないということが理解できるだろう。

 唐突ではあるが、マルクスの「資本論」が持つ現代的意義は、その中に、そのことへの解答のカギがあるからなのである。残念ながら「資本論」はある時期にはすでに「死んだ思想」とされ、また資本主義社会の一極化が進み、その矛盾が露わになってからは再び浮上してきたにも拘わらず、難解な読み物の代表とされ、あまり若い人たちの間に浸透していないようだが、マルクスが彼の生きた時代の資本主義経済体制の本質的な矛盾を誰の目にも明らかな形で暴き出したとき、彼は資本主義経済体制が続く限り生きているその矛盾克服のカギをそこに埋め込んだのであり、資本主義社会が続く限りそれを無視して未来社会を語ることはできないと思うのである。

 いまこそ崩壊しつつある世界資本主義経済体制がどのような矛盾を孕んでおり、それはどういう形で克服されるべきなのかを資本論を手がかりにして考え、そこから新しい未来社会を創造するスタートを切るべき時なのだと思う。

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2011年9月 6日 (火)

リビア石油利権のために民衆を犠牲にしたイギリス政府

 TVの国債ニュースによれば、リビアのカダフィ政権はもはやほとんど崩壊状態である。アメリカやイギリスなどの「先進新資本主義国」政府の指導者達は、「リビアの民主化への前進」としてリビア革命を起こした民衆をたたえているが、実は彼らはほんの半年前まで、カダフィ政権と緊密な関係にあったのだ。イギリスでは007で名をはせたMI6という諜報機関がイギリスのメジャー石油資本であるBPとの緊密な連携のもと、カダフィ政権に擦り寄り、リビア石油利権を獲得することに腐心していたのだ。今年の春、突然降ってわいたように起きたリビア民衆の独裁政権への抗議の波に、手のひらを返すように態度を変えて、大使館を閉鎖したイギリスに対して、元カダフィ政権の中枢にいた高官が、「本当に驚いた」と言っていたのを見ても、当時の状況が察せられる。

 つまりイギリスやアメリカの政府は、「民主主義の大本山」のような顔をしているが、その実、石油資本のためにリビアの民衆へのカダフィの独裁的圧政に目をつむり、黙殺していたのである。その間、リビアの民衆は一言でもカダフィの批判をすれば、拷問を受け、それを「民主主義の大本山」に訴えようとしても完全に無視されていたのである。これがいまの「民主主義」の実態であり、本質である。

 おそらくリビアの民衆は、今後いくらイギリスやアメリカの「民主主義」がエールを送っても、心の底からそれを信頼することはないだろうし、石油資源の利権を目当てに擦り寄ってくるその他の国々にも、外交上それらの国々とうまくつきあうことはあっても、決して気を許さないだろう。

 ひとくちに「中東の民主化革命」などと言っても、その内実は決して単純ではないだろう。チュニジアとエジプトでは状況が違うし、まして産油国リビアでは状況がまったく異なる。そしてシリアやイエメンはもっともっと悲惨な状況が繰り広げられているに違いない。しかし「民主主義の大本山」は、自国の産業界(つまり資本)擁護の立場から、もし資本の維持蓄積に不利になるような結果が予測されるなら、決してそれらの国々で圧政に喘ぐ人々に支援の手を差し伸べないだろう。

 そして残念ながらそれら「民主主義の大本山」の国々で暮らしている労働者階級も、自国の資本家が倒産するようなことがあっては、自分たちのクビも危なくなるという意識が強いので、その悲しむべき状況に反対はしないであろう。真実は「資本家企業あっての労働賃金の確保」なのでは決してなく、国境を越えて、ともに資本のくびきのもとで賃金奴隷化されている労働者であり、ともに資本に収奪された労働の成果を取り戻し、分かち合うべき同士なのだが。

 民主主義はまだそうした本来のインターナショナルな姿からはるか遠くにあって、「国家」や「国益」という見えない壁に囲まれた怪しげな資本家的「民主主義」と「自由」の姿しか見えてこないのである。

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2011年9月 5日 (月)

「賃労働の疎外態としての資本による生産=消費の支配」について

 前回のブログにmizzさんからコメントが付いて、もう一度読み返してみると表記の一文がキーワードとなっていながら、読む人にとっては少し分かり難いと気づいたので、少し長くなるがこの文の補足説明を行おうと思う。

 どのような社会であっても、その社会での生活を支えるために必要な生活物資の生産、そしてそれを作り出すための生産手段の生産やそれによる生産物の社会的分配などにはそれぞれに一定量の労働が必要である。これら社会的に必要な労働において、それぞれの持ち場で労働を行う労働者が、どの程度それに寄与したかを表すのが「価値」の本来の機能であるが、本質的に無政府的な自然発生的市場経済においては、価値が、需要と供給のバランスによって決まる「価格」を媒介として計られ、「交換価値」による取引が行われる。そこに、あらゆる商品と交換しうる商品として「貨幣」が登場し、貨幣が価値の「目に見える表象」として機能することになった。

 そこに、実際は過去の労働の成果を価値として表象する貨幣が、あらゆるものと交換できる能力を持ったものとして立ち現れることとなり、それを獲得し所有することを目的とする人々(資本家の原型)が登場することになった。

 市場経済が拡大し、商業資本家(ブルジョアジー)が社会の経済的実権を握るようになるにつれて、彼らは私的財産の増殖を目的とした市場での「自由な」交換の権利を主張し、それを基礎に、あらゆる過去における他者の労働の成果を私的に獲得し所有することが「合法的」な権利として認められるようになったのである。これが近代的「個」と「自由」の発生の土台である。

 さらに、資本家たちは、市場に流通する商品のみならず、社会的生産そのものまでも、私的財産の増殖という目的のための手段とするようになった。そして古い職人的生産体制(ギルド)は作業機の並んだマニュファクチュア的分割労働工場に変質し、やがて機械制大工業の中で機械の動きに従属する労働者を生み出していくことになった。その結果、社会的に必要な生活資料はすべて資本家的企業で商品として生み出されることになった。

 そこでは、「等価交換」が経済的ルールとして確立され、労働者の能力も商品として扱われるようになり、その労働力商品の価値は、彼らが労働力を維持し翌日もそれを資本家に提供できるようにするために生活の中で消費される生活資料の価値で決められ、これが労働市場(資本家と雇用関係を結ぶ就職戦線)で決められ労働賃金として支払われるようになった。しかし、労働力商品は、他の「もの」としての商品とは異なり、自ら労働において新たな価値を生み出す商品である。したがって、その労働賃金で支払われる価値を超えて新たな価値を生産物に付け加えることができる。つまり労働力商品は決して「等価交換」されてはいない。そしてこの労働力商品としての価値(賃金で表される)を超えて生み出された剰余価値部分を無償で資本家が獲得することになり、これが社会常識として「合法化」されることになったのである。資本家はこの本来なら社会的な共有財であるはずの剰余価値を私的に収奪することによって財産を蓄積し、それを新たな投資先に回すことができるようになるが、労働者はつねに自らの労働力を資本家に売りに出さねば生きてゆけないことになるのである。

 こうして、本来、労働者たちが生み出したはずの労働の成果が資本家の私的財産として収奪され、それが自分たちに対立する存在となり、自分たちを労働者として雇用し働かせ、ふたたび剰余価値の不当な収奪を可能にさせている、というのが、「賃労働の疎外態としての資本による生産の支配」の意味である。

 ところで、こうした産業資本主義経済体制は、19世紀末にはその矛盾を露わにし、資本を投資してもそれに見合うだけの利潤が得られなくなるという現象が現れる。過剰資本の形成である。それは従来よりも経済恐慌を長引かせた。それに対して、それまで、産業資本家などの遊休資本を有効に活用させるために機能していた金融資本家が、過剰資本を金融資本のもとに(株式会社などという形を駆使して)吸収し、それをそれまで産業資本家にとって投資の対象にならなかったようなあらゆる領域にまで投資することで、何とか過剰資本の圧迫から逃れると同時に、金融資本が資本主義社会の支配権を確立していった。

 しかしそれでも過剰資本の圧迫は資本家に重くのしかかり、第一次大戦と第二次大戦という大量殺戮とそのために必要な膨大な軍需生産(労働者階級の大量死と破壊をもたらす武器)という大量な不生産的生産によってなんとか息をつないできたのである。

 しかし、第二次大戦直前に、ついに世界的金融大恐慌が訪れ、崩壊の危機に立たされた。そしてこのとき、ケインズらの提唱する「有効需要の創出」という新たな方向に活路を見いだすことになったのである。それはそれまでのように「生産」に重きを置くのではなく、逆に「消費」に着目することで「消費主導型」の資本主義体制を再構築し、過剰資本の圧迫から逃れることであった。それによって20世紀後半の資本主義社会は大量消費→大量生産体制に邁進し、消費財産業と軍需産業という2大「不生産的分野」に莫大な投資をすることで「幻影の繁栄」を築くことになったのである。

 そこでは「賃労働の疎外態としての資本が生産のみならず消費をも支配することとなったのである。そして実際には直接的生産過程で労働する労働者階級は「消費者」と呼ばれるようになり、生産手段を所有するだけで生産的労働を行っていない資本家が「生産者」と呼ばれるようになった。いわく「消費者は王様!」。

 しかし、その結果、いまの資本主義経済体制の「支配的階級」を代表する政権は、一方で大規模な環境破壊や資源枯渇が進んでいることを認めざるを得なくなっているにも拘わらず、他方では「消費拡大こそが経済活性化のカギである」「にっぽんを元気にするためには消費の拡大を!」と主張するという全くもって矛盾に充ちた経済政策しか推し進めることが出来なくなっているのである。そしてにっちもさっちも行かなくなると、一方で世界中の投機家や金融資本家が争奪戦を繰り広げている莫大な流動過剰資本(もともと世界中の労働者階級が生み出した富である)には手もつけずに「増税」を持ち出し、労働者階級からさらに社会的資金を絞り出させようとするのである。

 このように支配的階級によって恣意的に生み出されてきた「虚偽のイデオロギー」をあたかも普遍的既成事実のように見なそうとする、最新流行のオピニオンはことごとく信用してはいけないのである。

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