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2011年12月4日 - 2011年12月10日

2011年12月 8日 (木)

分業形態から見る現代デザイン論批判

 すでに12月5日の「現代デザイン論における致命的欠陥」においても述べたが、直接的に職能としてのデザイナーの仕事を理論の対象としているわけではなく、「一般的デザイン行為」を対象としているかのように見える現在のデザイン論においてもその歴史的特殊性が理論の根幹において矛盾を呈していると言わざるを得ない。それは資本主義社会特有の、歴史的に見ればきわめて特殊な分業形態の全体像に気付けば明らかになる問題である。

 商業的目的でギルドなど中世的職人生産を掌握した近世初期の資本家は、そこでの職人の労働から、労働の目的意識的部分を「精神労働」として分割させ奪い取り、労働のその部分を自らの意図を実行させる「頭脳労働者」のさまざまな形態に分担させるようになった。それと同時に労働の精神的部分を奪われた職人は、機械に従属した単純肉体労働者に貶められたのである。この歴史的過程はマルクスの資本論で分析され詳細に記述されている。

 もともと生産的労働の目的意識的部分であった「設計」や「デザイン」的な内容は、相対的剰余価値の増殖などを目的とした生産力の増大とともに、資本の要請でそれを専門とする設計技術者やデザイナーにおいて成されるようになり、彼らは自分が雇用されている資本家の意図に従ってそれを遂行するようになる。そして、労働の精神的部分を奪われてしまった生産現場の労働者たちは、その設計技術者やデザイナーの労働内容によって支配され、手足を使って機械の補助労働を行いモノを作るのである。

 いまデザイン理論界などにおいて、古い形態の職人的労働における「わざ」や「職人的カン」などのいわゆる暗黙知的内容を「知識」として明示化させようとする研究が進んでいる。これは確かに暗黙知を明示化された知識として取り出すことによってその伝承を可能にし、科学的知識ベースとして残すことに貢献するだろう。

 しかし、一方で重大な問題が忘れ去られていると思う。それはそのことによって、職人は自分の存在意義であり誇りでもあった「人にまねの出来ないわざ」を失い、ただの「作業機」に置き換えられる可能性を強くするという事実である。

 「ものづくり」にはそれを知識として明示化する必要のある要素と同時に、それがもつ「自己表現」としての意義もあるということを忘れてはならないだろう。問題は、職人芸から吸い取られた「知識」がいったい誰のものになるのかである。それは現存する伝統工芸などのような職人芸のみならず、日本の「ものづくり」を底辺で支えてきた中小企業の技能的わざの世界も同様である。

 ものづくりには本来どんな段階でもこの「わざ」的な要素があり、それはものづくりを行う労働者の実存を支える中核的要素である。中小企業での優れたものづくりの職人的わざは、やがて「知識」に置き換えられ、労働者はその拠り所を失い、大資本がそれを「知的財産」として獲得して行くだろう。さらに、伝統工芸の職人はといえば、いまでは昔のような単なる生活財の生産労働ではなくなり、むしろ高価な「付加価値」をもった商品制作者としての存在意義を与えられている。そのため彼らの「わざ」はむしろ知識化されない方がその存在意義を高めることになる。ここでは職人は芸術家と同様な扱いを受け、彼らはすでに、本来の意味での生産的労働者ではなくなっているからである。したがって彼らはむしろ「著作権」を要求する立場にあることになる。こうして「わざ」の世界は両極化される。一方は客観化され大資本の「知的財産」として他方では主観的なまま「付加価値」の高い労働の存在根拠として。

 デザイナーについても同様である。一般的「インハウスデザイナー」は大企業内での頭脳労働者として資本の意図(つまり市場の法則に従った「要求」)によって設計やデザインを行うのであり、その外見的形はスマートであっても典型的な「頭脳労働者」である。それに対して、大企業をスピンアウトして自営となったデザイナーは、小資本家として市場の要求にもとづくデザイン行為を行うが、そこでは、自らの名前を「ブランド」として売り出し、自分の労働力の価格に「付加価値」を与え、それをできるだけ高く売れるように努力することになる。それこそが彼がスピンアウトした理由なのだから。そしてデザイナーの「創造力」とか「個性」というのもこの基準で評価される。

 こうした現代資本主義社会での特有なものづくりの構造とその本質的矛盾を見据えない限り、それに無自覚な「デザイン論」ではいくら一般的デザイン行為を論じてもそれはただ無内容なお題目にしか過ぎないのである。

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閑話休題:日本版格付け会社の提案

 いま、EU内での経済状態の不均衡がもたらしているユーロ不安とその背景にあるEU各国がもたれ合う国債に関して、その「格付け」を行っているアメリカ資本の格付け会社の評価がユーロ危機を呼び起こし、世界中の市場経済を動揺させている。

 これに対抗してEUではEU資本の格付け会社を作ろうという話がでているらしい。まったくもってお笑いである。各経済圏がそれぞれに都合の良い格付け会社を作り、自分たちの経済圏が有利になるような格付けを行ったら、いったいどうなるのか?そもそも「格付け会社」なるものはいったい何なのか?

 アメリカの「スタンダードアンドプアーズ」(この名前がまたふるってる!)などは、そもそもお金の貸し借りを行う金融資本企業の「信用」の度合いを評価するという目的で、いわば金融資本全体の利害の都合上作られた企業である。それがいまや資本主義各国が「国債」という形で、自国の信用(この「信用」の内実はその国の労働力の先もの買いなのだが)を担保にして金融企業や個人投資家からお金を借り集め、それで赤字の多い社会福祉や医療制度などを賄わなければならなくなっているために、金融資本が支配権を握る資本主義国家の「格付け」をこうした「格付け会社」が行うことになってしまったのだ。

 そこで日本では、例えば連合などの労働組合が出資して日本版格付け会社(「ワーカーズアンドプアーズ」とでも名付けたらよい)を作り、世界中の金融格付け会社を「格付け」するようにしたらどうだろう?これで日本は世界中の金融企業を牛耳ることができるかもしれない。

 いうまでもなくこれはジョークである。ことほど左様に資本主義社会は末期的状態なのである。

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2011年12月 6日 (火)

コメント頂いた泉さんへ

 このブログへのコメントはそれほど多くはないのですが、ときどき頂くコメントは私の大きな励みになります。ただ読んで素通りしてしまう人たちよりも、何か感じたことをコメントして頂く方が、著者としては非常にうれしいのです。たとえそれが反論であろうと批判であろうと、そうなのです。

 当初このブログはもっと気楽にさまざまな出来事や日常考えたことの記録として始めましたが、世の中の動きが激しくなり、自然にこのブログで取り上げる問題も時事的で政治的な内容が主になってきました。

 そうなると、どうしても私が辿ってきた紆余曲折の人生の中で、自分なりに身につけてきた思想が前面に出てきます。私は個人が苦労して獲得してきた思想は、そこにその個人固有の人生による特殊性をもったものであると同時に、その特殊性が「特殊」である根拠としての普遍性を持っていると考えております。分かりづらい表現かもしれませんが、諸個人が「諸」個人であるゆえんとしての一般性を持っていると思うのです。それは世に言う「偏差値」などと違い、固有な存在を固有であるままに、そこに貫かれた一般性としての真実があるという意味です。

 実はこのブログで書かれているような内容は、私の大学教員としての現役時代には公表することが出来ない内容でした。なぜなら、私の専門領域の性質からして、そうすることは私の生活を危うくしたであろうからです。しかし、大学をリタイアしたいまはそれを「本音」で書いています。

 この表と裏を使い分けた生き方は、ある意味で卑怯であるかもしれませんし、二枚舌といわれても仕方がないかもしれません。もっと勇気のある人はきっと生活が危うくなっても果敢に自己主張を貫くでしょう。

 実は、私は結婚し家族を持って職業的な地位を得てからは、自分の「本音」をひた隠し、自分の内部にそれを閉じ込めたまま生涯を送ろうと思ったこともありました。しかし、どこかでその自己欺瞞はほころび、そうした自分に耐えられなくなるのです。私は、これが自然の摂理の一環でもある「真理の表出」あるいは「歴史の必然の表出」ということなのではないかと思っております。歴史的真実は私が黙っていることを許さなかったのです。

 泉さんが「これからどう生きてゆくべきか考えさせられる」とおっしゃることはよく分かります。まさに私の紆余曲折の人生がそうした悩みと試行錯誤の連続であったからです。しかし、一つだけ言えることは、どのような形であれ、自分が真実であると思うことに向かって生きることが唯一、後悔を最小限に抑えて、しかもそこに自分の「個」としての特有な人生において普遍的真理を実現していくことなのではないかと考えております。

 偉そうなことを言ってしまいましたが、お許しください。

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2011年12月 5日 (月)

現在のデザイン論における致命的欠陥

 これまで、崩壊しつつある現代資本主義社会についての分析に時間を費やしてきたし、今後もそれに多くの時間を費やさねばならないだろうが、ここでいったん、私の専門であるデザイン論に関して考察してみよう。

 職能としてのデザイナーが歴史的にどのような経済的背景のもとに登場したかについてはすでにこのブログで何度も述べているので、ここでは簡単に確認することに留めよう。要は、資本の生産力がその生産関係の枠組みを超えて成長し、過剰資本を生産資本として環流・蓄積するシステムが行き詰まったために、それを社会全体での「浪費」によって処理し、政策的に高賃金化した労働者階級に奢侈品化した生活財を大量に買わせ、そのその労働賃金を再び資本に環流するシステムが作り上げられた。こうした労働者の生活財の生産部門による浪費のプッシュが同じく大量の浪費である軍需産業(特にアメリカで)とともに「経済発展」を可能にさせ、「浪費」が「経済成長」に必須の要素となった。インダストリアルデザイナーはその推進役として登場した職能であった。

 しかし、この職能の内容は一見限りなく多い労働対象に向けられる可能性を持っており(R.ローウィーの「口紅から機関車まで」に見られるように)、さらにインダストリアルデザインという職能の範疇を超えて建築や機械設計、宣伝広告、服飾、装飾、はてはイベント企画、ソフトウエア制作にまで拡大解釈されることになった。従って「デザイン」という労働の対象は無際限に広げられ、それを「一般的な意味でのデザイン」として具体的職能から区別するようになった。現代の「デザイン論」はこうした「一般的な意味でのデザイン」を対象にしていることがほとんどである。

 しかし、ここでいう「一般的な意味でのデザイン」が抽象された元は、資本主義社会がその発展の過程で、そのつど資本の要求にしたがって必要とする頭脳労働の諸形態として生み出してきたさまざまな資本主義的分業種である。これらの「頭脳労働」が資本主義以前の社会では職人的労働における手わざと一体化されていた目的意識的側面が資本主義生産様式にふさわしい頭脳労働としてそこから分割疎外され、資本の意図を代行する「頭脳労働」として自立する一方、自らの生産の目的意識を奪われた労働者は「肉体労働者」に貶められたという歴史的事実の結果なのである。だから、この資本主義的頭脳労働の内容は、資本の意志そのものであり、それを賃労働として分担することがこれら頭脳労働者に課せられた仕事なのである。

 そのことを忘れて、ただそれらの資本主義的頭脳労働の諸形態を一般化して、あたかもそれが「普遍的なデザイン」そのものであるかのように捉えるのは根本的に間違っている。それは単に資本主義的に分割・疎外された頭脳労働の総合でしかないのである。

 そのもっとも典型的な理論化が「一般設計学」であるといえるだろう。一般設計学では、さまざまな専門分野で行われている「設計行為」を抽象し、そこに設計一般の論理を見いだそうとするものであって、その論理はあらゆる設計に共通な論理として捉えられるような集合論と位相という数学の基礎的論理が用いられている。

 確かにこの論理構造のパラダイムにおいては矛盾なく設計行為が説明できるが、しかし、もっとも肝心な設計の目的意識は最初からこのパラダイムのラチ外の問題とされる。一般設計学では、要求はつねに設計者の外部なら与えられることが前提となっており、その要求がどのようにして現れ、なぜそれを設計することが必要であるのかは一切問われないのである。何故か?

 ものを作る動機や目的なしにその設計過程や論理が語られることのおかしさは、それが形式的論理の無矛盾性を目指す限り問題とされない、というのが現代の論理学的思考の落とし穴である。それはもっぱらその設計が要求される社会・経済的コンテクストの問題であって、個々のケースでそれぞれ問題にすべきことである、というのがその言い分である。

 しかしこの「言い分」が間違っていたことは、今回の福島の原発事故を見ても明らかであろう。「社会的に要求されるモノ」という名目で資本の要求が目的意識化され、それを実際に作る人々は、その目的意識のもとに雇用された賃労働者として、それをただ実現させていくのである。そしてその結果が今回の大規模人災を生んだ。この大災害のもとでも、「設計そのものは基本邸に間違っていなかった」というのであろうか?そもそもそれがあること自体おかしいのに、である。

 デザインや設計行為は、そもそもそれが何故必要なのか?が出発点で問われていなければならないはずである。「経済の活性化のため」などという言い分は、「資本の活性化のため」という意味に置き換えて受け取らねばならない。そしてそれは決してそれを実際に生み出すために働く頭脳労働者の目的意識ではないことを銘記しなければならない。

 だから本来、労働者階級の主体的能力として取り戻さねばならないデザイン能力が問題なのである。そのためには、社会全体がひとつの共同体として、そこに働くさまざまな労働形態の労働者の目的意識を共有できる体制であることが必要であり、それが未だ得られない現段階では、そこに向かう方法を考えることこそ、デザイン論のいまの課題であると言えるのではないだろうか?

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2011年12月 4日 (日)

価値・価格・信用・市場そして民主主義!

 最近の新聞紙上などでは、ヨーロッパでの金融危機が世界的な金融危機に拡大しようとしている現在、それらの国々を支える「民主主義」が市場に支配されて危機に陥っているという論調が見られる。

 しかし、このことは見ての通り、こうした国々の「民主主義」が実は市場経済の原理を不問の前提として作られている「資本主義的民主主義」であることを証明している。実際に社会的に必要な価値を創造している労働者階級による真の意味での民主主義ではないのである。

 経済的カテゴリーである価値は労働が生み出すものであるという「労働価値説」は古典派経済学のスミスやリカードなどが言い出し、マルクスもそれを受け継いでいると思っている人が多いようだが、それは決定的に間違っている。その理由は、古典派経済学者は労働者が生み出した価値と市場価格の本質的違いを認識できず、したがって資本の本質を認識できていないからである。

 マルクスのいう価値は、その社会において必要なある生産物を生み出すのに要する社会的平均的労働時間によって決まるものであり、きわめて客観的な規定(決して市場価格のような恣意的なものではない)である。そしてこの生産物の価値は、それを生み出すのに必要な労働力の社会的配分に関わる量としてその計画的配置の基準となることは宇野弘蔵も言うとおりである。しかし、商品経済の歴史の最後の段階にある資本主義社会においてさえも、それが、直接決められず、市場価格の需要供給のバランスによって決められるという「回り道」を経なければならないのである。マルクスは結局この市場価格によって時には価値以上に、時には価値以下に売られる商品の価格をアンカーのように一定の地点に引っ張るのが実際の価値であると述べている(もちろん骨董品や芸術作品などのように最初から需要供給のバランスが崩れており、生産がそれに追随できない場合はまた特殊なケースとして、とくに「付加価値」という概念のインチキ性とともに別に考える必要があるだろう)。

 言い換えれば、資本主義経済のような「市場至上主義」経済によって社会的に必要な財が生産され、供給されるシステムでは、その生産物の価値は「市場価格」としてしか見えないのである。だから資本家たちは労働者たちの生み出す労働力商品の価値(その価格が労働賃金として表現される)以上の剰余価値を何の疑問も抱かずに「合法的に取得(正確には収奪)」するのである。そしてそのことが資本主義社会の「社会常識」として通用しているのである。

 そして、20世紀の初めにすでにその生産力が社会的な生産関係の殻にそぐわなくなって、過剰資本の圧迫に苦しむようになった資本主義経済体制は、それを「浪費」によって処理する道を発見し、これを軍需生産や労働者の生活資料の奢侈品化などによって合理化したのである。しかも20世紀末になって、その浪費の量は半端でなくなり、一方で資源の無駄使いと自然破壊を加速させながら、他方でそれによって再び資本として還元された巨額の過剰流動資本は「○○マネー」として投資家のターゲットとなり、世界中の金融企業や富裕層の間を動き回るようになった。

 さらにそれらの浪費を通じて資本に還元される過剰資本を生み出す労働そのものがローンやサラ金のような借金として「先物買い」され、それらが株や金融商品の「信用」によって経済界を動かすようになっていったのである。

 いわゆる先進資本主義国では労働者は、一定の社会保障や年金などによって生活を守られているように見えながら、実は、その「原資」となる資金は労働者自身の労働力の先物買いであったのだ。資本主義国の労働者階級は、一方で「あなたがたの消費こそが経済を活性化させる」とプッシュされながら他方で、その労働力を先物買いされ、それによって見せかけの「社会保障」が賄われてきたのである。

 いまや資本主義経済体制は一国では成り立たず、世界中の資本主義国が互いに支え合って行かねば生きのびることができなくなっている。だから互いにその国の労働者階級が生み出すであろう剰余価値を「信用買い」して国債などのような借金の形で売り買いしながらその「信用」がもたらす利益を原資として社会保障を運用しているのだ。そしてその「社会保障」も当然のことながらそのボロがほころびつつある。

 しかもそれらの国々の政府がその経済的基盤の前提としている「市場」が容赦なくそれらの国々の労働者階級への福祉などに圧迫を加え、資本の「国際競争力をつけるために」と称して労働者は大きな犠牲を払わされ失業の憂き目に会っているのである。

 いま、こうした視点になって「自由貿易」や「民主主義」などあたかも普遍的な概念の実現のような顔をしている「社会常識」の中に潜む資本主義的な本質を見極めなければならない。韓国でのFTA問題、日本でのTPP問題、そして多くの労働者や農民の反対を押し切ってそれらを推進しようとしている政府がいったい誰の代表なのか、誰の味方なのかよく見定めなければならない。それを見極めることからこそ真の民主主義が出発することになるだろう。

 

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