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2011年1月30日 - 2011年2月5日

2011年2月 5日 (土)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー1)

 さて、以上に見てきたラトゥーシュの思想に関して、その何が問題なのかを、私の立場から述べてみることにしよう。

 まず、ラトゥーシュが反対する「成長」や「発展」がまさしく資本主義経済とそれを土台とした社会の発展であることは明らかであるし、彼自身もそれを指摘している。しかし、彼はそれに対する批判を単に、<そうでないもの>の対置でしか行っていない。例えば、「成長」に対して<デクロワッサンス>を基本とした<ポスト開発>社会の対置、「グローバル」に対して<ローカル>の対置、「生産や労働」に対して<手作り>や<余暇・遊びの対置>、そして何よりも決定的に間違っているのは、生産関係の変革の問題をどこか遠くの彼岸に置いて(彼はローカリズムの発展がそのまま資本主義社会を超えることになると考えているようだ)、もっぱら<概念の革命>を強調する。「まずは考え方を変えなさい、そうすればこの世の中はよくなるのです」と言わんばかりに!

 結局、これは資本主義社会の諸矛盾の表れに対してただその<反対の状態>を直接対置し、考え方を変えることを提案しているに過ぎず、まったく非弁証法的な「否定」である。その内容は資本主義社会の中で商品化された諸個人の「市民意識的実存」をそのままに、そのレベルでの不満を、ただ裏返してひっくりかえしただけの「反対論」なのでないか。

 資本主義社会での「市民」は社会的に必要な生産において労働を資本に搾取され、生活においてはそこで作られた商品を消費することでもその労働の成果物を貨幣に変えて資本に奉仕することが存在意義となってしまった諸個人である。ラトゥーシュも指摘しているとおり、例えば、「ニーズ」や「欲求」も実はそのような資本主義的個人の実存において資本によって作り出される「欲求」なのだ。

 だからそのような「市民意識的欲求のレベル」でにおいて「考え方」を変えようしても、また単に反対物を直接対置させてもそれだけでは現実は本質的に何も変わらないだろう。ラトゥーシュの資本主義社会批判は、一見ラディカルな言葉を使っていながら結局資本主義社会の本質を捉えきれずに、「具体的なユートピア」と称していかにも現実的提案をしているかのように見えるが、結果的にはその補間物になってしまっているという意味で「うらがえしのラディカリズム」とでもいうべきものではないか。

 ラトゥーシュが資本主義社会の本質を捉えていないというのは、次のようなことから言える。彼がいう「生産」とか「労働」とかは、まさに資本主義的生産関係におけるそれであって、資本主義社会「以後」の社会での生産や労働の内容や構造はまるで違ったものになることをマルクスは見抜いていたのである(資本論を精読すればそのことはすぐに分かるはずだ)。

 マルクスが目指していたのは、生産活動の在り方や労働の内容そのものの変革であって、資本主義的生産や労働の延長上での「生産力主義」では決してない。どんな社会にあってもその社会を支える生産活動とそれを実践するさまざまな形の労働が存在する。そしてそれらの生産活動で生み出された生産物はその社会的労働の分担に応じて分配され、消費されることによって生活が営まれる。その中で、自分が何者であるのか(諸個人の実存)は、自分がその社会を支えるどのような労働を行っているのかによって表現される。それは決して生産や労働から切り離された余暇や遊びにおいてではない。

 すべての生産や労働の内容が資本に支配され、資本蓄積のために「合理化」され、効率化され、すべての諸個人が否応なしにその資本の蓄積のために奉仕するように仕向けられる社会、それが資本主義社会である。そこでは「ローカリズム」や「非労働的遊びや余暇」までもが、バッチリ資本蓄積に奉仕させられている。ラトゥーシュはあるときはその実情を適切に批判している(「地域ブランド」などが地域同士でのあらたな競争を生むしくみにしかすぎないなど)が、一方で、それにただ「対案」を対置するだけで「変革」を起こそうとする。だが、必要なのは生産関係の、つまり社会構成の基本的構造の変革なのだ。

 またラトゥーシュは、合理主義や科学までをも否定するようなことを所々で述べている(例えば効率的な生産ではなく手作りの品を、というように)が、これはちょうど19世紀後半に産業資本主義が確立されたイギリスでの生活用品の工業生産化に対抗してウイリアム・モリスが、中世の職人の世界を再現することを目指して手作り工房を作ったのとよく似ている。しかしその運動は結局(必然的に)、高価な工芸品市場の創出と、工業化における商品の品質向上の流れに消されてしまった。

 われわれは、資本主義社会が400年かかって築き上げてきたさまざまな科学や医学、工学などの成果はそれを引き継いで行かねばならないのだと思う。しかし、それを資本主義的生産の合理化という形においてではなく、労働し生活する人々のための共有財産として、そして何よりも諸個人の実存そのものの、まったく新しい発展を可能にするためにそれらは質的にまったく異なった方向に引き継がれ発展させることが必要だろう。

 そのためには、人間とモノとの関係が「逆立ち」した資本主義社会の生産関係(人間が労働において生み出した生産物が資本として生産や労働そして諸個人の実存そのものを支配している)を「正立」させ、本来の生産関係、つまりわれわれが必要なモノを社会の構成員が自分の適性に応じて分担し、必要な量だけ作り出し、消費することで成り立つ社会という意味で、労働者自身が資本を媒介とせずに直接に社会的生産をコントロールしうる社会を取り戻すことこそが必要なのである。そのような社会での生産から消費までの合理的なシステムを考えるのが本来の経済学であるはずではないか。

 次にもう少し具体的にラトゥーシュの考え方の批判を通じて、私のイメージする資本主義以後の社会とそこに至る道筋について述べることにしよう。

 (続く)

 

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2011年2月 4日 (金)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その方法)

 ラトゥーシュが前述のような彼の目標とする<脱成長社会>を実現させるために、その具体的な方法を8つのスローガンで示した。これらについてその内容を見てみよう。ラトゥーシュは以下のように主張する。

(1)再評価する(re-evaluer):「ドミニク・ベルボムが指摘するように、われわれの社会体制を裏返せば、「個人主義的な誇大妄想、道徳の拒否、快適なものへの嗜好、自己中心主義」が顔をのぞかせる。では、優先すべき価値を見てみよう。」と述べ、自己中心主義に替わる「愛他主義」、際限なき競争に替わる「協力」、労働の執着に替わる「余暇の快楽と遊びの精神」制約のない消費に替わる「社会生活の大切さ」。グローバルに替わる「ローカル」、他律性に替わる「自律性」、生産主義的な効率性に替わる「すばらしい手作りの作品」、科学的合理性よりも思慮深さ」そして物質的なものよりも「人間関係」が重視されるべきであり、「真実への配慮、正義の感覚、責任、民主主義の尊重、差異の称賛、連帯の形成、機知に富んだ生活」こそが何物にも代えて取り戻さねばならない価値である」(経済成長なき社会発展は可能か?」p.172)

(2)概念を再構築する(reconceptualiser):「様々な価値観を変革することは、世界を別の角度から眺め、したがって現実を別の方法で理解することを可能にする。概念を再構築すること、つまり意味を定義し直すことと次元を調整し直すことは、例えば、豊かさの概念や貧しさの概念だけでなく、経済思想の根底にある悪魔的な対概念ー中でも希少性/豊穣性の対概念は脱構築せねばならないーにとっても不可欠である。」そして「イヴァン・イリイッチとJ=P. ヂュビュイが明らかにしたように、経済は、自然の搾取とその商品化を通じて物質不足と(依存的な)欲求を人工的に造り出すことで、自然の豊穣性を希少性に転換する」(p.174)

(3)社会構造を組み立て直す(restructurer):「「再構造化」とは、生産装置と社会関係を諸々の価値変化に応じて調整することを意味する。このような構造転換は、支配的な価値体系を揺るがすだけに、一層根元的なものであろう」(p.175-176)

(4)再配分を行う(redistribuer):「社会関係の再構造化は、すでに事実上の再配分である。再配分は、階級間、世代間、諸個人間といった各社会の内部にとどまらず、北側諸国と南側諸国との間における富および自然資産へのアクセスの分配も含む。」「再配分は、消費の削減に対して二重の効果をもたらす。直接的には「グローバルな消費階級」の権力と手段、特に私服を肥やす略奪者たちの寡占体制が保有する権力と手段を削減する。間接的には誇大妄想的な消費への勧誘を削減する」(p.176)

(5)再ローカリゼーションを行う(relocaliser):「思想は越境的な性格を有して然るべきだが、商品と資本の移動は必要不可欠な範囲に制約されねばならない。...再ローカリゼーションは経済的な領域のみにとどまらない。政治、文化、生活の意味こそが生活圏においてそのその立脚点を見いだす必要がある。地域レベルで実行可能なあらゆる経済的、政治的、文化的な決断が、地域規模でなされなければならない」(p.178)

(6)削減する(reduire):「第一にわれわれの生産様式と消費様式が生物圏に与える影響を縮小することを意味する。まずわれわれの生活習慣となっている過剰消費と信じられないような贅沢な食生活を制限する必要がある。...(中略)...ゴミの削減、保健衛生上のリスクの削減から労働時間の削減は、慎重に慎重を重ねた予防策によって達成されねばならない。もう一つの削減は、大衆のツーリズムである。ツーリズムは「世界の公衆環境の最大の敵」とみなされるようになるだろうし」膨大な数のツーリストの移動によって消費される石油の量は膨大である。そして「最後に労働時間の削減が必要である。われわれはこれを反失業の政治闘争を通じて成し遂げるであろう。仕事をしたいと望むすべての人々が雇用されるようにワークシェアリングを実施することが大切だ。労働時間の削減は景気循環や個人生活の周期にともない人間の活動が変容する可能性と折り合いをつけて実施されねばならない。...(中略)...何よりも大切なことは、生産主義のドラマの中心的な要素である「仕事」中毒を解毒することである」(p.178-181)

(7)再利用する(re-utiliser)および(8)リサイクルを行う(recycler):ラトゥーシュはさまざまな企業でのリサイクルの試みの例を挙げ、「ここでもまた、企業や消費者を「有徳」な道へと押し出すために欠けているのはインセンティブであるが、そのようなインセンティブを発案することは至極簡単である。足りないのは、そのようなインセンティブを実行に移すための政治的な意志である。

 ざっとこのようなものがラトゥーシュの主張するプログラムである。これを見て、正直私は最初の彼の現状認識で感じた共感がみるみるうちに萎えていくのを感じざるを得なかった。

 では、次に、こうしたラトゥーシュの思想へのトータルな批判と、それを通じて私が考える、近未来社会のとりあえずではあるが「あるべき姿」のイメージについて述べることにしよう。

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2011年2月 2日 (水)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その目標)

 ラトゥーシュは、こうした現状認識とそれに対する否定的意識をバネとしながら、その克服の方向性として、「具体的ユートピア」としての「共愉あふれる(convivial)脱成長(decroissance)社会」と「地域主義(Localisme)」を実現目標としている。この中で、重要な位置を占めるローカリズムについて、次のような見解を持つ。「北側諸国では、国民を形成するものとその後ろ盾となる行政が相対的に後退したことによって諸々の制約が緩和され、経済的な共同作用を生み出すことを可能にする文化的な隆盛が引き起こされ、「地方的なもの」と「ローカルなもの」が再び活性化している。余暇、健康、教育、環境、住居および対人サービスが生活基盤のミクロでローカルな水準で管理されている。日常生活のこのような管理は、一部の住民(排除されている人々、反体制の人々、連帯的な人々)の側で豊かで有意義な市民性あふれるイニシャティブをもたらしており、生活世界への影響力を回復させる傾向がある。...(中略)...ローカルな社会を成功させるとは、(経済開発に接合された)「第三セクター」を賛美するのではなく、むしろその他の二つの部門(資本主義と国家)を征服することを意味する。またローカルな民主主義を再興することも重要である」(「経済成長なき社会発展は可能か?」p.119-120)

 ラトゥーシュは、このような自主管理的なローカル社会が目指すは、資本主義経済の内部での市場とは別の「贈与」(互酬性にもとづく与え、受け、返すという義務をもつ)を基本とした交換関係を基本としたものであるべきで、そこでは「関係が財に取って代わる」のだだと主張する。(p.118)

 さらに、「...これらオルタナティブなイニシャティブは「ミクロな次元での経済発展」というよりは、もうひとつの社会を建設するプロジェクトに参画するものであるので、「反開発」もしくは「脱開発/脱発展」として語られねばならない。なぜならわれわれは、生活の非経済的側面の再評価と、三つの義務として理解される「贈与」と、新しい社会関係に立脚する新たな社会的な論理を発明する企てに直面しているからだ。あらゆるローカルな自主管理形態からなるこれらの実験は、それ自体の内容としてよりも、世界のあらゆるものを商品化する権力が台頭するその傾向に対する抵抗と離反の形態としてわれわれの関心を惹きつける」(前掲書p.120)

 ラトゥーシュは、次のように主張する。「今日の生産主義的で労働主義的なシステムから脱出するためには、労働よりも余暇と遊びが価値をもち、そして使い捨てで役立たずのーさらにいえば有害なー製品の生産と消費よりも、社会関係が優先されるようなまったく新しい社会組織が必要である」(p.240)「クリストフ・ラモーが、そしてよりニュアンスを置いた立場からジャン=マリー・アリベーが提案するように、何に代えてでも雇用を確保することは、意識的にせよそうでないにせよ、往々にして労働社会への根深い執着を意味する。しかし、大事なことは労働社会を救済することではなく、労働社会から脱出することである」(p.241)

 つまりラトゥーシュが主張する新たな(オルタナティブな)脱成長社会とは、このような経済市場から開放された「贈与」の精神に則って、余暇や遊びによって「コンビビアルな」人間関係を結べる自主管理的なコミュニティーであると言えるだろう。

 彼はこのような主張を掲げる知識人のグループを<ポスト開発学派>とも言っている。

 そしてラトゥーシュは、これらの目標を実現させるために次のような8つ"R"の再生プログラムを掲げ、それらの「好循環」を生み出すことを提唱する。

 (1)再評価する(re-evaluer)、(2)概念を再構築する(reconceptualiser)、(3)社会構造を組み立て直す(restructurer)、(4)再配分を行う(redistribuer)、(5)再ローカリゼーションを行う(relocaliser)、(6)削減する(reduire)、(7)再利用する(re-utiliser)、(8)リサイクルを行う(recycler)(前掲書p.171-172より)

 ここですべてのプログラムに(再)を意味する"R"がついているのは、彼の目指す「共愉あふれる脱成長社会」が、社会の再生産過程から生まれるという考えがあるからのようだ。

 さて次にその具体的内容を見ることにしよう。

(続く)

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2011年2月 1日 (火)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その現状認識)

 まず、ラトゥーシュが、現状をどのように捉えているか、そしてどのような問題意識を持っているのかを見ていこう。

 フランス哲学系論者は、たとえばボードリヤールなどのように、特有のレトリックに富んだ、入り組んだ表現が多く、私はその種のくねくねした論述が苦手であるが、ラトゥーシュはその中ではまあ分かりやすい方である。というのも彼の思想はそれほど複雑な論理で出来上がっているわけではなく、一般人にも分かりやすいのである。しかし、その中に出てくる様々な国際会議や機関の宣言やスローガン、そして最近の思想家たちの引用が多いので、その中から彼自身の見解の全体像を抽出しなければならないのが少々骨が折れる。

 ラトゥーシュは、さまざまな事例や見解を引用しながら、現在の先進諸国がそれぞれの利害を含めた合意のもとで進めている、「発展」というコンセプトを激しく否定する。ラトゥーシュは次のように言う。「...つまり(発展という概念は)1750年代から1800年代の間に英国でみられた産業革命以来の経済的実践という西洋の経験と共有する何かを表す。1949年にトルーマン大統領が模範として提唱し、その後ロストウによって理論化されたのはまさにこの経験である。この場合、発展という言葉にどのような形容詞を付けようとも、その明示的ないし含意的な内容は経済成長、つまり容赦なき競争、不平等の際限なき拡大、および自然の自制なき略奪といった、われわれが知るところのあらゆる正の効果と負の効果の双方をともなう資本蓄積のことを指す。ところであらゆる発展が右に述べた経験と共有するこの核心は、進歩、普遍主義、自然支配、事物を数量で計る合理性、といった「価値」と結びついている。発展が依拠するこれらの価値ー特に進歩という価値ーは、真に普遍的な希求には露ほども対応していない。これらの価値は西洋の歴史と結びついており、他の社会ではほとんど共有されることがないのだ。」(「経済成長なき社会発展は可能か?」p.042より)その上で彼は資本主義陣営側が持ち出す「持続的発展」や「環境効率性」というというコンセプトの欺瞞性を指摘し、それらが基本的には、経済成長や発展という考え方の修正版に過ぎないことを批判している。

 さらに、「成長や発展」が地球の自然を食い尽くし、いまやその限界的な危機が明白になっており、自由貿易のスローガンのもとで国際的資本主義市場に組み込まれた「開発途上国」の人々が、資本主義社会よりもはるかに古くからあった独自の生活形態を破壊され、「貧困化」させられているにも拘わらず、さらなる「成長や発展」の「トリックル・ダウン効果」(富者がより豊かになれば、貧者もそのおこぼれに預かれる)によりそれらの貧困を救済しようとしているかのように見せかけながら「開発・発展」を推し進めていることを激しく指弾する。

 ラトゥーシュは、「この発展概念の中にある、さほど経済的でない社会的な次元(教育、保険衛生、栄養摂取)での「人間開発」やドルで換算される一人当たりの所得額で示される「生活水準」という考え方についても次のように批判する。「ジル・セラファンが指摘していることであるが、「西洋の(理想的な)生活様式の諸要素を基本的ニーズとして捉えることは、そのような生活様式をその他の社会に内在する想念の中に象徴的に強要することを可能にする。人間開発というまさにその概念規定は、文化帝国主義からも自文化中心主義からも逃れていない。「国民総生産の増加は良いことであり、その他のあらゆる生活改善の条件である」という信仰は人間開発言説において中心的位置を占めている。...(中略)...これこそまさに近代の論理において世界の経済化を通じて西洋の経済的基準が正常に作動するようになる根拠である。グローバル化した世界では、市場価値(価格による量的評価)以外の価値は存在しないのだ。」と述べている。(前掲書p.056)

 ラトゥーシュは、「現実に起こっている発展は、経済戦争であり(勝者はもちろんのこと、それ以上に多くの敗者をともなう経済戦争である)、自然の完膚なきまでの略奪であり、世界の西洋化であり、地球の単一化である。現実に起こっている経済発展は文化の多様性を根絶やしにするか、あるいは少なくとも文化の殺戮を行うのだ。」(前掲書p.096より)

 このようにラトゥーシュの捉える現代社会のさまざまな矛盾とそれらが構造化された全体として形成されている状況は、彼自身も述べているとおり、まさに資本主義社会特有の矛盾なのである。しかし一方でラトゥーシュは、これらの成長・発展主義を根本において支える「生産主義」は、資本主義だけではなく社会主義も同罪であるとして、社会主義を否定し、マルクスの思想にも批判の矛先を向けるのである。

 これらのラトゥーシュの問題意識は次のようにまとめることができるように思う。

(1)「開発・発展」主義による自然と人間存在のトータルな破壊という現実への批判

(2)「開発・発展」主義の修正版である「持続的発展」という欺瞞への批判

(3)「開発・発展」主義のパラダイムを支える「進歩、普遍主義、自然支配、(近代的)合理主義」という(暗黙の)西欧文化中心主義の弊害と限界の指摘

(4)自由貿易主義に象徴されるグローバル資本主義経済の否定

(5)これらによる地域社会の破壊と画一化への拒否

そして

(6)資本主義への強力な批判であった社会主義もその現実は資本主義と同列の「生産主義」であり「発展主義」として否定すべきものであるという主張

であろう。

 では次にこれらの問題認識からラトゥーシュがそれをどのようして実践的にこれを克服して行こうとしているのかを見てみよう。

(続く)

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