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2011年2月6日 - 2011年2月12日

2011年2月11日 (金)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー6)

 さて、私のラトゥーシュ批判も終わりに近づいたが、ラトゥーシュが次のように言っていることは、まったく私もよく分かるのである。「...理論家は開いている扉をぶち壊すかのような感情に駆られると同時に、砂漠の中で説法をするような感覚に駆られるのである。無限の成長は有限の世界とは相容れないということ、われわれの消費活動と同様に生産活動は生態系の再生能力を超えることができないということを指摘する場合、そのような意見は大した苦労もなく他人に受け入れられるだろう。反対に、これらの生産活動と消費活動そのものを縮減しなければならないということ(フランスの場合、訳三分の二の縮減)、そしてあらゆる方面に体系化されている成長の論理(その中でも核となるのは、金融資本に対する強迫観念と中毒である)を疑問視し、さらにわれわれの生活様式も問いに付す必要があるという抗いがたい結論は、この上もなく否定的に受け止められる」(「経済成長なき社会発展は可能か?」p.134-135)

 ラトゥーシュは、このジレンマに対して、いまここで実現できそうな課題を「オルタナティブ」として掲げるのであるが、その気持ちもよく分かる。

 しかし、いかなる現実的で卑近な課題にあっても、それがどのような歴史的な展望のもとに位置づけられているのかが明らかでなければ、結局はいまの資本主義社会の修正や補間に陥ってしまう危険が常にあるのだ。

 その意味で私はラトゥーシュの提案する地道なプログラムのいくつかに関しては賛成するが、それがやはりマルクスが示した様な歴史的な展望のもとに置かれなければ単なるエピソードに終わってしまうことを危惧する。

 デクロワッサンスは日本語的な「縮退」という意味よりも、無際限で歯止めのない量的な生産の拡大ではなく凝縮された質の高い生産の発展であり、なによりもそれを生み出す労働それ自体の変革と、それに基づく人間存在の変革であると捉えたい。

 私がこうした問題を「新デザイン論」というカテゴリーに入れて論じてきたのも、いまのデザイン論や研究が単なる職能としてのデザインについての方法や歴史(それを普遍的なかたちとして捉えている)であったのに対して、それが実は20世紀後半の資本主義社会が生み出した特有の職能であって、それが資本主義社会で果たした役割はすでに資本主義社会が大きな壁にぶつかっているいまでは、その矛盾が明確なものとなり、われわれをとりまく社会全体の変化の中で再把握しなければならなくなったと感じているからである。

 職能としてのデザインの様々な形(工学的設計を含む)から単に共通要素を抽出してデザイン行為一般として論じること(例えば一般設計学のように)がデザインの普遍的なかたちの把握であるかのように考えられているが、これも実は間違っており、現実的な矛盾の否定から導かれたあるべき「デザイン的な行為」を論じるのとはまったく次元が異なるのである。

 私はその意味でラトゥーシュが彼の生涯をかけて現代社会の矛盾を明らかにし、そこからその否定としての次世代社会のデザインを行おうとしていることに心情的に大変親しみを感じるのである。だからこそ彼への批判が必要であったのだ。

 私の主張を意図的に無視し、これを単に「独りよがりな考え方」としてくずかごに捨ててしまう現在のデザイン論研究者には、私は何の親しみをも感じないのである。

 私自身「独りよがり」にならないためにも、私は、論争という形を希望する。

(完)

 

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2011年2月10日 (木)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー5)

 ではそのような展望のもとで、われわれが獲得すべき社会のイメージはどのようなものか考えて見よう。

 ラトゥーシュは、生産主義や「労働中毒」を解毒して労働を削減し、生活は地域内での手作り生産や共同作業などで賄い、遊びや余暇を楽しむことで共愉あふれる<脱成長>社会を目指そうという。しかし、私は、社会にとって必要な労働においてこそ、それを分担する労働者の存在意義が示され、彼/彼女がそこで生きていることの意味を実感できることが、まず必要だと考える。だから労働そのものが資本主義的な疎外労働ではない、本来の労働へと、労働種の種類や個々の労働の内容において変革されることになるだろう。 そこでマルクスが資本論で描き出した労働過程が各労働部門において実質的な形で行われることになり、ここで初めて本来のデザイン的行為が各労働の過程において実現され、「共愉あふれる」労働とそれらの連帯を享受することになるだろう。したがって、今日の資本主義社会での特有な分業構成のもとで、消費財商品販売促進のために登場したデザイナーという職能はもはやそこでは存在意義がなくなるであろう。

 また、労働時間について言えば、現在資本主義体制のもとで行われている生産的労働は、実質的にはその70-80%が剰余労働として資本に搾取されているであろうと思われるので、少なくともいまの3分の1か4分の1程度の労働時間で、生活を維持し必要最小限の社会的再生産をするに(必要労働時間)は十分だろう。

 しかし実際には社会共通のファンド(障害者や高齢者の生活維持、防災、危機への備えなどなどに必要なファンドであって、資本のことではない)が必用なので、これを剰余労働の成果から拠出することになるので、実際には現在の半分以下の労働時間で社会的に必要にして十分な生産的労働が充たされるれるだろう。だから一日4−5時間働けば済むはずである。そして残りの時間は余暇として自分のやりたいことをやるか、他の人の手助けや自分の人間としての成長のために時間として費やせるだろう。そして言うまでもなく無駄な労働時間が減った分、資源やエネルギーの消費も大幅に削減されるし、無駄な生産物も作らないで済むようになる。

 問題はこうした社会的に必要な諸労働から拠出され蓄積された「社会共有ファンド」を誰がどのように管理運営するのかであるが、そのためには単なるローカルな共同体だけではなく、労働者階級全体によるこれらのファンドの管理運営を実施する組織が必要となるであろう。これは従来の資本主義社会におけるブルジョア的「国家」に代わる組織と言ってもよいであろう。

 このような社会では、要求のないところに恣意的に「ニーズ」を生み出し、それに「応えて」新商品をどんどん作って買わせようとする資本のプレッシャーはなくなり労働者階級自身が生産を直接コントロールできるので、本当に必要なものを必要な量だけ生産すれば済む体制が出来上がっており、不必要な「消費(購買)」は生み出されなくなる。だからあの膨大な量の虚偽と欺瞞に満ちた広告やCFもなくなり(従って広告産業もなくなる)、しかし製品に関する情報はユーザが求めればインターネットなどを通じていつでも入手できるようになっている。

 その代わり、一つの製品を長く使うためのメンテナンスや改造、転用などの技術が必須のものとなり、それらが今後大きな産業部門になるだろう。それにともなって製品の設計目標も大きく変化するだろう。

 一方でこれまで莫大な富として蓄積され、国際市場で資本家同士の争奪戦をドライブしていた、労働の成果物は、当然のことながらそれを生み出した人々の手に還されるだろう。もちろん個人的に払い戻されるのではなく、社会的共有ファンドとして還元されることになるだろう(実際いまわれわれを苦しめている重税や社会保障の削減などはこれが実現すれば一気に解決するはずである)。そして当然のことながら自らは何ら生産的な労働をすることもなく、際限のない欲望で資本をかき集め、世界中で労働者を搾取していた資本家階級とくに金融資本の所有者たちはこの世界から永久に消え去ることになる。したがって従来のような金融企業や証券取引企業は当然のことながら消えてなくなるだろう。

 生産部門や流通部門など社会的に必要な部門の労働者は自らその企業を運営することになるだろう。だから経営者としての労働者は存在するが、彼はもはやかっての資本家の様に利潤を上げることが至上命令なのではなく、必要なものを出来るだけ良質なかたちで必要なだけ生産する方法や過程の管理と労働者同士のチームワークの維持に全力を注ぐであろう。

 資源や土地などの人間の生活に共通に必要な自然的条件の私有化は法律で禁止されるだろう。当然、個人の生活に必要な土地や自然環境はもちろん個人の使用に供され、その裁量にまかされねばならないが、使用されていない土地を所有し、売買するようなことは禁止されることになるだろう。したがって従来の不動産業はなくなるだろう。

 擬似的な商品経済の形態は依然として残るかもしれないが、そこで商品を購入するのに使われる貨幣はもはや単なる支払い手段でしかなく、資本の一形態ではなくなっている。そして労働賃金は、労働者の生活資料と交換されるための前貸し資本としてではなく、社会的な必要労働時間を何時間働いたかによって、その労働の証明(労働証書)としての形で支払われるだろう。したがってそれが支払い手段としての貨幣の機能を果たすか、それと同等のものになるだろう。

 社会的生産を司る労働者自身が直接社会の生産や流通、消費の場をコントロールし、それを通じて社会全体の運営を行うことになるので、そこでは何の嘘も虚偽もない社会運営が労働者的な民主主義に基づいて行われるであろう。そこには資本主義社会における階級隠蔽のための擬制的共同体である「国家」ではなく、労働の全社会的結びつきとしての共同社会が存在するだろう。

 その労働者の共同社会を運営する「労働者政府」によって、民主的かつ客観的な方法で社会に必要な労働の創出と労働力の社会的配分が検討され、それにしたがって労働者が自ら希望する分野で労働を行うことができるようになるだろう。そこにはもう、就職戦線も失業もなくなるのだ。

 もちろん、こうしたイメージはあくまで「目標」であって、そこに至るまでの道筋(方法)はそのときどきの状況に応じて様々であり得る。あるときは激しい衝突が生じ、目標への接近は失敗に終わるかもしれないし、あるときはスムースに目標に近づくことができるかもしれない。これは現時点において予測することは難しい。そのような試行錯誤によって、目標を少しずつ実現に近づけ、その過程で目標自体もまたより具体化されて行くのである。

 マルクスも示唆するように、そこに近づくための運動それ自体が、担い手自身を変革して行くものでなければならないだろう。言い換えれば、いまここにある問題を上記のようなおおきな目標を射程として捉えながら、この場でできる解決に全力をあげることこそ、マルクス的な意味でのコミュニズムであろうと思われる。

(続く)

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セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー4)

 さて、ではどうすべきなのかを考えて見よう。われわれの住む国では、現在の政党政治が、ほとんど現代的な形態の資本主義社会を代表する政党であって、その右派的な部分と左派的な部分が同じ土俵で相撲をとっているのは明らかである。だからいろいろ八百長も出てくるし、確かな見通しもなく格好だけの「マニフェスト」を掲げて、選挙で勝っても実際には何も前に進まないという現状であるのは周知の通りである。

 結論から言えば、労働者階級が結束して、その立場を代表する人を政治の世界に送り出すべきであって、そのための母体となる組織が必要である。従来、労働組合がその役割を演じてきたが、その労働組合がすっかり労働者階級の自覚を失ってしまい、市民主義あるいはプチ・ブルジョア主義に陥ってしまったことで、資本家的経営者となれ合いとなり、その労働組合運動を代表すべき立場にあった政党も同様に小市民主義的なイデオロギーに呑み込まれれてしまったために、労働者は市民主義的政党にはかない期待を託すことしかできなくなっているのだ。

 その原因は、1960年代からの資本主義経済の進展(いわゆる「高度成長」)により、いわゆる「トリックル・ダウン効果」(富者が儲かれば貧者もそのおこぼれに預かれる)が可能となり、労働者が、「消費者」として位置づけられることで、高騰した労働賃金のほとんどを商品の購入にあてさせることで、消費財の生産流通を担う資本家が利益をあげ、それが起爆剤となってすべての資本家階級が潤うという仕組みが完成したからである。

 それによって次から次へと買わせる商法が一般となり、労働者は常に資本の側から恣意的に作られる「ニーズ」によって欲求をかき立てられ、まるで商品を買うことが人生の喜びであるかのような生活に浸って行くことになった。労働者はそれを「豊かな生活」と勘違いさせられているうちに、労働者階級という意識も現実的でなくなり、「消費者」という小市民意識が社会を支配するようになった。そして大量生産・大量消費体制は加速され、その結果蓄積された莫大な過剰資本は国際的な流動資本となって投機や新たな(多くはいわゆる「開発途上国」の)労働力搾取のための投資に投入され、人間存在の自然的条件である土地や自然資源が売買の対象となり、自然は破壊され、過剰な消費(実は消費されないで廃棄されることがほとんどなのであるが)による膨大な廃棄物で地球環境は汚染され、バブル経済が破綻して多くの労働者が失業するというところまで来てしまったのである。

 それでもまだ労働者は、自ら労働の場で主人公になることなど考えもせず、「市民」として選挙を通じて社会の主人公になっていると勘違いし、ただただ「会社が国際競争力をつけて、市場競争で勝ち、利益を上げ、世の中景気がよくなれば、自分たちの生活も安定する」という幻想の中に置かれたままなのである。そして日ごとに悪化する労働条件や生活事情も、景気が良くなれば何とかなるだろうとはかない希望に未来を託し、耐えているのである。しかしもう再び高度成長期の「トリックル・ダウン」は来ないだろうし、資本家代表政府の誰一人として社会の今後についての見通しは持っていないのである。

 こうした状況で、ラトゥーシュのような考え方が出てくるのはむしろ当然であると思う。つまり政治的には政党を頼らず、ローカルな生活域の自主管理から経済の仕組みを変えていくという構想、そして無駄な消費を減らして行くということ、などなどである。

 しかし、そうであっても社会を支えるには誰かが生産活動を維持しなくてはならないし、物資の流通やインフラの維持整備、そして医療や教育といった生活に必用な労働は必ず必用である。そしてそうした社会に必用な労働を支える人々が資本を媒介せずに社会の運営を直接行えるようになることが絶対に必要であるし、それは単なるローカリズムの枠組みに収まる問題ではない。

 私はラトゥーシュのいうローカリズムはある面で同意できる。例えば「地産地消」運動や、コミュニティーレベルでの自治管理や生活維持のための助け合いなど、おそらく必須のことだと思う。TPP協定などによって国際市場での農業資本の要求を呑むことは、こうした運動を破壊することであり、私は反対である。しかし、それをローカルな地域運動で食い止められるかといえば、それは絶対に不可能であろう。

 要は、実際の生活面での地域的自主管理の育成とともに、一方で進む「開国」という名目で国際資本にわれわれの生活を預けてしまうことには反対運動を起こすべきであろう。地域における生活自主管理運動は、必然的に国内全体での共通な問題をともに考え、訴える組織を必用とするだろうし、それがなければ資本家代表政府に対抗できないであろう。国際的には、「国家」の名の下に労働者階級への支配と管理を強め、国際市場での資本家同士の競争に勝つためにその労働強化を推し進めようとする資本家階級グループへの反撃の拠点としての労働者を代表する国際組織(ILOなどがあったが現在では実質的に機能していない)が必要となるだろう。

 絶対に必要な「国際化」は、各国で同じようにグローバル資本により支配され搾取されている労働者階級同士が国境を越えて手を結び、これに対抗することであり、そのためには、やはりマルクスが突破口を生み出した考え方をいまの時代に即した形で獲得し、再生すべきなのだと思う。

 グローバル資本と対決する労働者階級の代表組織は、その組織それ自体が、新たな民主主義の実践の場でなければならず、ブルジョア的民主主義ではない、労働者階級的な民主主義をその組織に中で生みだし、絶えず試行錯誤の中でそれを育てあげていかねばならないのだ。それが失敗するとかつての共産党のような官僚的統制で支配された独裁的組織に成り下がってしまうのである。

 こうした展望のもとに、危機的な状況を迎えた地球環境や資源問題とともに、社会のために働く人々が主人公であるような政府ができなければ、問題は本質的には解決しないであろう。

(続く)

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2011年2月 9日 (水)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー3)

 ラトゥーシュは次のように言う「一部の極左的活動家たちによる伝統的な応答は、要するに、あらゆる停滞とわれわれのあらゆる無力の源泉を「資本主義」という実体に起因させ、そうすることで打倒すべき城塞の場を定義するというものであった。しかし現実問題として、敵と正面衝突することは今日においては問題含みである。なぜなら多国籍企業をはじめ権力の実態を掌握している諸々の経済的実体は、その性質上権力を直接行使することができないからである。ビッグ・ブラザーは匿名であるが、主体の隷属はかってなく自主的であり(このフレーズの意味は不明である誤訳か?ーー引用者注)商業用宣伝広告の操作は政治プロパガンダの宣布にも増してどこまでも狡猾である。このような条件の中でどのようにしてメガマシン(近代社会の総体)に「政治的に」立ち向かえばよいのだろうか」と弱音とも思われる心情を吐露したのちに、こう言う「資本主義を問題視するだけでは不十分であり、あらゆる成長社会をも批判する必要がある。この点においてマルクスは道を誤った。成長社会の批判は資本主義の批判を包含するが、その逆は有り得ないのだ。多かれ少なかれ自由主義的な資本主義と生産主義的な社会主義は成長社会という同一のプロジェクトの二つの類型であり、人類を進歩へ向かう行進へと担ぎ出すとされる生産力の発展に基づいている。」(「経済成長なき社会発展は可能か?」p.245)

 こうしたラトゥーシュの「生産主義批判」の立場は、前回述べたように、資本主義社会が生み出した「生産概念」つまり資本の生産としての「ものづくり」とマルクスがいう、それの否定としての本来の生産概念を、完全に混同している(あるいは区別がついていない)ことの表れである。

 さらに「この事実から、生産関係の変革(必要かつ望ましい革命を含む)は、成長の果実の分配において権利を所有する人々の地位を多かれ少なかれ暴力的に動揺させることに還元されてしまう。つまり[マルクス主義的な批判に従えば]、われわれは成長の中身について理屈を述べることができるがその原理を根本から問うことはできないのである」としてマルクスの主張を資本主義と同列の生産主義であると決めつけるのであるが、その直後にこう言っている「成長と発展はそれぞれ資本蓄積の成長と資本主義の発展であり、<脱成長>は蓄積、資本主義、搾取、略奪の縮小のほかにはない。蓄積の速度を緩めるだけではなく、資本蓄積の破壊的なプロセスを逆転させるために、蓄積概念を根本から覆すことが重要である」(前掲書p.246)

 ここでラトゥーシュが言う、「成長の原理」こそ資本蓄積の原理であり、「成長の中身」こそ「資本の成長」と「それを否定した本来の社会的成長」との区別であり違いなのである。彼の「成長」の把握は転倒している。

 そして、ラトゥーシュがここで言っている「概念の変革」の主張は次のような彼の主張によって一層はっきりする。「<脱成長>は断固として反資本主義の立場をとる。それは資本主義の矛盾や生態系ならびに社会における限界を非難するという理由のみにとどまらず、なによりもマックス・ウェーバーが「資本主義の精神」を資本主義社会の実現の条件と捉えるまさにその意味において、<脱成長>は「精神」を根本から問いただすからである」(p.246)

 しかし、明白なことは、「資本主義の精神」が資本主義社会を生み出したのではなく、資本主義社会の歴史的進展が資本主義的「精神」や資本主義的「生産概念」を生み出したのだ。ラトゥーシュにおいては、まさに原因と結果が完全に逆転しているのである。

 ラトゥーシュの目指す「エコロジカル社会主義」あるいは「エコロジーの民主主義プロジェクトへの組み込み」は、政党の結成を目指すのではないらしい。彼は言う「だからといって、<脱成長>の政党を結成し、いまから<脱成長>運動を凝固させる必用があるだろうか。筆者(ラトゥーシュ)はそのように思わない。政党の存在を通じて<脱成長>のプログラムを未成熟なままで制度化することは、われわれを政党政治の罠に貶める危険がある。そのような政治は、政治アクターによる種々の社会的現実の放棄を意味し、<脱成長>社会の構築を実行に移すことを望むための諸条件が整備されないうちに、そして<脱成長>社会が国民国家を超克した枠組みの中に効果的に含まれることがはっきりしないうちに、<脱成長>の政党を政党政治のゲームに閉じ込める」(前掲書p.253)

 ある意味、現在の政党政治(左翼政党も含めて)への不信感の表れであるが、彼の主張する市民主義的(ローカリズム)で精神主義的なエコロジカル運動が、社会的生産や政治的実権を掌握し、したがってイデオロギーをも支配している支配階級の圧倒的力に対抗するにはあまりにも貧弱であり、彼がいくら過激な言葉で「精神革命」の檄を飛ばしても、所詮現体制への「補完的存在」に過ぎないものになっていることは否定できないのではないか?

 われわれはもっと冷静に現実を分析し、判断した上で、理論だった方法でしかも長期的展望に立って、現実に立ち向かうべきでなのではないだろうか?

(続く)

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2011年2月 7日 (月)

セルジュ・ラトゥーシュの思想に関する考察(その批判ー2)

 ラトゥーシュの掲げる<脱成長社会>への8つの"R"プログラム(前々回参照)のうち、(3)社会構造を組み立て直す、と(4)再配分を行う、はきわめて重要であり、ほかの項目と違って政治的スローガンである。彼は(3)では「「再構造化」とは、生産装置と社会関係を諸々の価値変化に応じて調整することを意味する。」と述べており、(4)については「社会関係の再構造化は、すでに事実上の再配分である。再配分は、階級間、世代間、諸個人間といった各社会の内部にとどまらず、北側諸国と南側諸国との間における富および自然資産へのアクセスの分配も含む。」そして「グローバルな消費階級」の権力と手段、特に私服を肥やす略奪者たちの寡占体制が保有する権力と手段を削減する。間接的には誇大妄想的な消費への勧誘を削減する」と言っている。

 一方で、彼は次のように言う。「<脱成長>は政治的な企てである。「政治的企て」という意味は本書では深い意味で使用されており、自立的で共愉にあふれる社会を北側諸国と南側諸国の双方で構築する企てのことを指す。だからといって、<脱成長>運動の政治的企ては議会政治のためのプログラムではない。同運動は政治家による政策政治の一部に非ず、むしろ「政治的なるもの」へあらゆる尊敬を与えるものである。そして<脱成長>は現実的な状況分析に根ざした企てを想定する。しかし、そのような企てが実行可能な種々の目標に直截に置換できるとは言えない。求められているのは、種々の要素の集合体に理論的な一貫性を与えることである。}(「経済成長なき社会発展は可能か?」」p.170)

 しかし、(3)についての「生産装置と社会関係を諸々の価値変化に応じて調整する」とは一体どういうことを意味するのか?そして(4)で言う「「グローバルな消費階級」の権力と手段、特に私服を肥やす略奪者たちの寡占体制が保有する権力と手段を削減する」にはどのようにそれを実行しようというのか?そしてさらに「「政治的なるもの」へあらゆる尊敬を与えるものである」と言うが、これは何を意味するのか?ことごとく曖昧であり、理論的ではないと思えるのだが。

 8つの"R"プログラムでの諸項目間それぞれの関係が示すであろう、<脱成長>社会の全体像が浮かび上がってこない。<脱成長>社会の全体像のイメージとその論理構造が目指すべき社会の目標として見えてこなければ、いくら「現実的な状況分析に根ざした企てを想定」をしても的確な現状分析はできないだろうし、問題の本質的な解決にはならない。<目標>があるから<現状分析>ができるのだ。

 だから、他の6項目に掲げられているきわめて卑近で具体的な提案(行動目標?)がそこから切り離されて、あたかも資本主義社会の補間にすぎない現状のエコ運動と同じレベルにしか映らない。そのため(2)の「概念を再構築する」が真っ先に重要なこととしてクローズアップされてしまうのではないだろうか?

 「概念を再構築する」ためには、まずそれができる<場>あるいは<土台>を獲得することが必要なのであって、そうでなければ「再構築された概念」は所詮資本主義社会の根元的矛盾をそのままにして表面的なその修正や回避という形を取る「補完策」(いまのエコ運動がその典型)にしかなり得ないだろう。その<土台>の獲得が生産関係の変革なのである。

 筆者は、この生産関係の変革が、かつての新左翼運動の一部で見られたような武力闘争でしかなし得ないという主張には同意できない(資本主義が独裁政権と結びついたアフリカやアジア、中南米などではそれもあり得るかもしれないが)。特にいまの資本主義社会が高度に進展したヨーロッパやアメリカ、日本などではそれはむしろ非現実的な主張であると思える。では、選挙による政権交代が唯一の手段なのかと言えば、それも違うと思う。

 例えば昨日明らかになった名古屋市長選の結果などを見ても、人々はすでにいまの政党政治に不信感をみなぎらせている。したがってこの地点でラトゥーシュの主張するような市民的運動がある意味で大きな力を持ちうるのだと思う。しかし、そういう市民運動を支えている「市民意識」がまだ即自的段階にあって、自分たちの不満をどう表現していいのか分からないのが実情なのではないだろうか?だから河村新市長もこの波にのってあまりいい気になっているとどこかでどんでん返しを受けてしまうだろう。現状での「市民意識」とはそういう危ういものなのである。

 問題は、こうした即自的な市民意識がどうすれば、マルクスの明らかにしたような歴史的な展望と使命を持った、労働者階級としての自覚にまで深められるか、ではないだろうか?自分たちが、現実には、社会的に必要な労働を行っていても、その労働の成果のおそらくは70-80%以上は資本という形で自分のものでなくなり、それらを「企業」組織という形で占有する人々(資本家)によって蓄積・運用され、自分たちを支配するための圧倒的な力として作用しているにも拘わらず、あたかも資本家たちと同列の立場で政治や社会に参画しているように見せかけている「民主主義」や「市民意識」というイデオロギー(ブルジョア・イデオロギー)の中に埋没していることに、自ら気づくことそして、そこから解放されること、これが重要である。もしこのことをもってラトゥーシュが、「概念の再構築」というのであれば、私もそれには賛成しよう。

(次回に続く)

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