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2011年2月20日 - 2011年2月26日

2011年2月25日 (金)

朝日新聞「つながりが導く祝祭型革命」を巡って

 2月24日朝日新聞朝刊の論壇時評に東 浩紀氏が「つながりが導く祝祭型革命」という意見を発表している。

 ツイッターやフェースブックなどを媒介に異例の広がりを見せた中東の反政府デモに関してあまりまともに論じる記事がない中でいくつかの意見を拾ってそれに関する彼の見解を述べている。

 その中で東は、クレイ・シャーキーが、抑圧的な国家の市民にとって本当に必要なのは、自由主義的な外国の情報源にアクセスできるかどうかではなく、むしろたがいに意見交換できるかどうかなのだ、と主張していることや、酒井啓子がエジプト革命の本質は「祭り」であり、今回の政変にイデオロギーの対立がなく、主導者にも権力奪取欲望がなく、人々は「楽しく」政府を転覆したものの、「祭りが終わったら家に帰る」だけのように思われる、と言っていることに共感を表明している。そして東は、公文俊平が、自由を求める人々の動きが国民国家の独立「戦争」から市民階級の「蜂起」へ、そしてネットユーザーの「祝祭」へと移り変わっているのではないか、と述べていることを挙げ、「今回の事件は、従来の常識からすればいかにも不安定でゆるやかな、しかしその分国境には捕らわれない、大衆のコミュニケーションから創発する「祝祭革命」の嚆矢として歴史に刻まれることになるだろう」と述べている。

 なんという失礼な意見であろうか! 現に革命を起こしている人々の立場から見れば、「楽しく」「祝祭」などというわれわれの感覚とはほど遠い実存の中に置かれているのだ。日々の生活で常に圧迫と恐怖と差別の重石の中で何十年も生きてきた人々が、その抑えつけられた怒りと憤懣の鬱積されたエネルギーを共有する人々とともに、何かささいなことをきっかけに、このような大きな革命を動かす力になっているのだ。そこには、そうした抑圧の実感を共有する人々が無数にいたからこそ、思いもかけなかったそこからの解放に「祝祭」的雰囲気を生み出したのであって、われわれのような、革命を第三者としてさめた目で、しかも「安全地帯」から眺めおろしている者たちの視点とはおよそ異なるものであろう。ましていまリビアでの過酷な戦いを戦っている人々にとって、それは「祝祭」などではありえない。

 従来の革命をイデオロギーとイデオロギーの対立として、捉える視点も同様だ。革命の当事者にとっては、抑圧者である支配階級からの解放の力を与えてくれるイデオロギーが「正しいイデオロギー」なのであって、イデオロギーAとイデオロギーBが対立している、と第三者的な視点で冷ややかに見る視点ではありえない。

 革命は何かささいなことをきっかけに起きてくるように見えるが、そこに至るまでの何十年、いや何百年もの間、抑圧と被支配の重石に耐え忍んできた人々の怒りと怨念が膨大なエネルギーとなって蓄積されていることを忘れてはならない。その人たちにとってインターネットが大きな力になり得たというのは、もっと深い意味での歴史を感じさせる。

 つまり搾取され圧迫され、差別されて生きてきた人々の様々な種類の莫大な過去の労働が、そのような社会の産物として生み出した実体であるコンピュータやインターネットが、いまや彼らにとって大きな力になっているのだ。

 いま革命を戦っている人々にとって、必要なのはこれらを駆使して、まず支配者・抑圧者からの解放を勝ち取ることであろう。そのあとで訪れる「祝祭」的雰囲気は、「終わったら家に帰っておしまい」といったものでは決してありえない。そこからまた新たなそして別の困難をともなう戦いが始まるのだから。

 われわれはそれらの戦いを「高み」から見下ろすようなことはできないし、いまこそ、その見せかけの「高み」をこそ問うべきなのではなかろうか?

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2011年2月22日 (火)

革命を促進したインターネット

 中東で起きつつある民衆の反政府デモを中心とした革命に、インターネットが大きな役割を果たしていることが報じられている。

 もともと草の根的なコンピュータのネットワークが次第に結合され全世界を覆う巨大なネットワーク網を作り上げたのであるが、これはもしかするといろいろな意味で21世紀初頭のもっとも大きな革命であったとも言えるのではないだろうか。

 独裁政権が牛耳る国家では、拡がる反政府運動に対して情報統制を行なうためにまずインターネットを遮断しようとする。しかし中東各国では、それでも何とかそれをかいくぐってYuTubeなどへの投稿が続き、世界中の人々の目に、実情が報道される。また「アノニマス」などどいう覆面ハッカーグループが、独裁政権のネット遮断に対して逆に政府機能を麻痺させるような攻撃を与えたりしている。

 独裁政権がインターネット網を完全に遮断したりコントロールするようになれば、支配される側は非常に不利な立場になるだろう。しかし現実にそれが可能かどうかは分からない。なぜなら支配する側も政権を維持するためにはインターネット網が必要なのでそれを完全に遮断することはできないと思われるし、一部でも繋がっていれば、それは反政府側にとって全世界への突破口になるからだ。

 大資本や支配的国家権力は、インターネットを「宣伝」のための最大の武器として捉えるだろう。しかし、だからこそ逆にそれはすべての人々がそれとは逆方向に意見や情報を発信しうる最大の武器でもある。

 マスコミという商業出版や放送業界のフィルターがかかって現れる一方通行の報道に人々が動かされ、政治が大きく揺れ動く昨今の情勢は、ある意味で過渡期の状態であるようにも思える。NHKや朝日新聞のアンケート(この質問項目は実に恣意的なものである)の結果によって政権の支持率が報道され、それを見た巷の人々がNHKの取材に「やはり今の政府はだめだね」などと言っているのを見ると、何か空恐ろしいものを感じるのである。選挙の投票中にNHKが出口調査の結果など発表するのも同様な効果を生む。

 人々は世の中の大勢に動かされやすいし、それを知っている支配者たちは、「大勢」を我がものにするために必死になるのである。マスコミという媒体はその機能を見事に果たす。

 独裁政権においては、独裁者が恣意的に支配的見解を表明し、これにほとんどの人々が従わされるがゆえに、それがあたかも多数の意見という形になる。

 独裁という形ではないが、一見「民主主義的」政権に見える政府であっても、その社会の「常識」と見なされている「支配的イデオロギー」に反する意見は「異端」として排除しようとするのが常である。だから人々は常に「支配的イデオロギー」の内部に安住しようとするのである。

 しかし、インターネットのようなボトムアップ的双方向通信の場合にはもう一歩突っ込んだ形で、人々の意見が表れ、それは様々な形で表明されるので混沌としており、掴みようのないもののように見えるが、より真実に近いものに迫っていることが多い。 

 われわれの21世紀の歴史に登場した「インターネット民主主義」は政治形態に新たな様相を与えるだろうし、また同時にそのひとりひとりが発信する情報の内容に対する質の問題が非常に重要になるだろう。付和雷同的に多数の意見に追随する傾向はインターネットでは加速されるからだ。

 しかし、どちらにせよインターネット網が全世界を覆うようになったいま、多数を制する意見が少数の意見を支配してしまうという形が、少しづつ変わり始めたのかもしれない。これこそが、実は今世紀最大の革命になるかもしれない。

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2011年2月21日 (月)

世界中が動き始めた

 チュニジアとエジプトで始まった、「市民革命」の嵐は、中東全土に拡がりつつあり、また中国にも飛び火しつつある。そしてこの「革命」にインターネット網が大きな役割を果たしていることも注目すべきことである(これについては別項であらためて述べる)。

 これらの「革命」が意味するものと、それが成功するかしないかは各国の置かれた状況によって様々に異なる条件を考えなければ分からないが、一方でこれら全体に共通する「何か」が感じられる。

 それは、抑圧された人々の怒りである。おそらく地球上の総人口のうち、「抑圧されてはいない」と感じている人々に対して、「抑圧されている」と感じている人々の数は圧倒的に多数であろう。「抑圧されていない」と感じている人の比率が高い、欧米や日本のような国々では、よくその実情を見れば、それが違った形でくすぶっていることが見えてくる。

 つまり、警察や軍隊などの国家権力が人々の言論や政府の施策への反対表明を強力に抑えつける機構をもっている、という意味での「抑圧」と、生活が圧迫され、就労の自由を奪われ、孤独死に追い込まれるという意味での柔らかなしかし深刻な「抑圧」との違いであろう。

 われわれ日本に住む者は、いま中東を中心に起きている「革命」が求めている「言論の自由」はすでにそれを手にしており、そういう視点から、それらの「革命」を「見下ろす」傾向があるのではないだろうか?彼らにもわれわれのような「自由」を与えるべきだ、と。

 しかし、われわれの社会が置かれている「自由」が、国際市場競争での労働搾取への自由であり、自然資源の浪費や地球環境破壊への自由であり、それによる莫大な富の私有化への自由であり、一方搾取される側の、生産手段からの「自由(free from つまり持っていないということ)」であり、失業の自由であり、孤独死への自由であることは、だれしも薄々感じているはずである。

 国家権力による言論の抑圧が、「明示的抑圧」であるのに対して、「自由」の名における人間存在への実質的抑圧は「暗黙的抑圧」とでも呼ぶべきものであろう。

 明示的抑圧から解放された人々が、次のハードルとして「暗黙的抑圧」の段階を経る運命にある、とは考えるべきでない。それは、われわれが辿ってきた歴史を彼らが一周遅れで同じように歩まねばならないとする誤った認識であり、現在進行中の「革命」にはわれわれの置かれた「暗黙的抑圧」をも同時にはねのけるような可能性を孕んでいるのだと思う。そういう視点でいま起きている「革命」を見るべきなのだと思う。

 つまりわれわれは「高み」から見下ろすのではなく同じ現在という地平にたった「連帯」の立場にあるのだと思う。そして、実はその本質が、まさしく階級闘争なのだということを知るべきなのではないだろうか。

 われわれが求める自由はブルジョア的政党や政府が掲げる「自由と民主主義」などのような「チャチで嘘にまみれた「自由」なんかではないのだ!

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