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2012年2月22日 (水)

いまふたたび次世代社会を考える(2: 資本主義経済体制の限界)

(1)から続く。(この章は2月23日にかなりの部分を書き換えた)

 こうしていまの世界情勢を見ると、世界中で民衆のプロテスト運動が起きているにも拘らず、それらはまだ、目の前にある生活権への要求や圧政からの解放といった直接的な目標しか掲げられておらず、長期的な展望に基づく「獲得すべき社会形態」のイメージはできていない様に思える。

 先進資本主義諸国のプロテスト運動も、このままではおそらく再び支配階級である資本家たちの存在を認める形で、一見「豊かな」消費生活を送れる「分厚い中間層」の社会を「選挙」などを通じて再現させようと模索することになるだろう。しかし、残念ながらそのような「幻想」はもう現実化しないだろうと思う。その理由は以下のようである。

 例えば日本では、かつての「高度成長期」から「バブル崩壊」直前までの間に維持された「分厚い中間層」による「豊かな」社会は、資本の生産拠点が国内にあり、労働者は雇用の機会に恵まれ、国際商品市場で日本製品がまだ競争力があった時代である。ここでは資本家階級はまだ労働者にその搾取した剰余価値の一部を形の上では労働賃金の一部として(実は結局資本家の手に還流する単なる前貸し資金なのだが)上乗せする余裕があったのである。その中で、われわれの生活は「高度消費社会」と呼ばれる様な大量消費時代を迎え、アメリカやヨーロッパと同水準の消費生活ができるようになった。そして先進資本主義諸国の労働者階級は自らを「中間層」と位置づける様になったのである。

 しかし、それは1930年代の世界恐慌を乗り切った新たな資本主義経済体制が、実は、その高度な生産力によって絶えず生み出される過剰資本の処理形態を大きく変え、東西対立の中での軍事バランスを生み出す軍需産業への莫大な投資(アメリカの場合)や、国中の道路や電力などのインフラ整備(日本の場合)への投資、そして資本家の搾取した富の一部を労働者たちに、一定程度の水準の賃金として前貸しすることで消費力を高めさせ、消費資料商品市場の活性化という形を通じて資本家階級の手にそれを還流させ、他方では労働者の購買欲を一定程度満たす「豊かな消費生活」の演出によって労働者が階級的な自覚や結束を高めない様に手なずけることに用いられた結果なのである。

 そのため、やがてその無計画でグローバルな消費拡大経済は、大量の排気ガスによる大気汚染や、石油や森林を初めとする自然資源の枯渇を招き始めることによって、物理的に「消費拡大」の限界を示すことになった。

 それに対して資本家側の立場に立つ知識人たちは「持続可能な経済成長」を訴えるようになった。これに対して以前挙げたセルジュ・ラトゥーシュが痛烈な批判を浴びせているのでそれも読んでほしいが、要するに彼らが目指す「持続可能性」は本当は「経済成長」ではなく、資本主義体制なのである。しかし、資本主義体制それ自身、「経済成長」と呼ばれている資本の拡大が見込まれなくければそれは絶対的過剰(投資した資本に見合う利潤が得られないという形の過剰)に陥ることであり、投資先を失った資本主義経済体制の運営は必然的に立ち行かなくなるのである。この矛盾がいまの資本主義経済体制の完全な限界状態をあらわにしているのだ。

 そもそも地球全体が人類の共通に生きる場であり、それはまた人類社会全体の共有財であるにも拘らず、私的にその一部を占有する個人(資本家)が自由にそれを売買し合って私的な富を増やして行くという矛盾した資本主義社会の原理において、地球という限られた空間における資本の拡大が、したがって資本主義経済体制の発展がもはや物理的に不可能であるという厳然たる事実がいまや示されているのだ。

 それに対して、いま資本主義国の社会的分業種のすべてを支配している資本家階級は、その矛盾した資本の論理を「個人の自由」という看板のもとにそのまま維持して、それぞれの国の状態に応じてその矛盾を取り繕うための対策を模索しているのである。

 日本やヨーロッパ諸国では、直接社会的に必要な財を生産する労働の場ではなく、「サービス産業」「レジャー産業」や「ソフト産業」といった第3次産業的分野に重点投資して資本を稼ぎだすことを模索したり、いわゆる「付加価値」の高い商品(高級ブランド品や高価な労働集約的商品など)を市場に送り出し、本来の価値よりはるかに高い市場価格の商品を富裕層に対して売りまくることで利益をあげるべく国の産業構成を変化させようと模索しているようである。

 これらの「サービス」や「ソフト」は、産業の形としては成り立つかもしれないが、あくまで別な国での生産的労働が生み出した膨大な価値の蓄積を前提としており、その蓄積された膨大な価値(資本)の存在あってこその「サービス」や「ソフト」なのである。サービスやソフトそれ自体は本来の意味での価値を生み出さない。それはいわばサービスやソフトという形での消費と交換にすでに蓄積された過剰流通資本の一部を獲得する寄生的産業であるといえるだろう。

 結局、日本などではこうした寄生的産業や金融業などの非生産的産業、それに消費市場を支配する商業資本や流通産業など間接的生産分野での産業により多くの資本を投入して、そこに労働者の雇用を生み出す「寄生産業国家」に変貌させることを考えている様だ。

 しかし、それは一方でアジア、アフリカ、中南米などのいわゆる後発資本主義諸国が、その安くて豊富な労働力を武器にして、生産的労働を行い、そこで世界中の労働者階級の生活に必要な物質的財の多くが生産され、その労働の成果を占有する資本家たちは、それをグローバル商品市場の中に投じ、先進資本主義諸国の商業資本家たちがこれを大量に買い取り自国内で労働者たちに販売することでその賃金を貨幣という形で還元させ、莫大な利益を上げることが前提とされている。

 先進的資本主義国の寄生的産業を経営する資本家たちは海外の後発資本主義国も含めて比較的富裕な労働者や資本家などを相手にサービスやソフトを売りまくることで莫大な利益を上げる。先進資本主義諸国の労働者の多くはこうした資本家たちの経営する産業に雇用され、生活する。だから彼らは、生活資料の生産を後発資本主義諸国の労働者や農民の労働に依存し、その生活資料を購入するお金を自分の雇用主である資本家から前貸しされるという形で生きているのであって、かつての「高度成長期」の「中間層」とは中身が異なる「寄生的労働者階級」になってしまっているのである。

(続く)

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