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2012年2月23日 (木)

いまふたたび次世代社会を考える(3: 私的所有に基づく個人の自由という矛盾)

 では、われわれが目指す次世代社会とはどのような姿なのだろうか?すでにこのブログの「現代における資本家階級の構造(3)」において、次の様に書いた。

 「新たな社会を築き上げるための必須の第一目標は、社会的労働の目的を労働者階級自身の側に取り戻し、労働者階級が主体となって社会的生産と消費の合理的で計画的な推進を行うことにある。それはきわめてシンプルで明快な社会経済システムとなるだろう。社会的に必要なものを必要な量だけ生産し消費できる社会である。そこには過去の労働の成果は「資本」という私的所有において疎外された形では存在せず、初めから社会的共有財の形を採るだろう。だから労働の生産性が高まり、剰余労働部分が増えれば、それが資本や過剰資本としてではなく、そのまま社会的共有財を増加させることになる。」

 そこでまず「私有」と「個人の自由」とはどのような「誕生の秘密」をもち、したがってどのような「論理」として成り立っているのかを見てみよう。けだし「発生の論理は存在の論理である」のだから。

 もともと人類が自然の産物として数十万年前に地球に現れた存在である以上、地球という物質的自然は人類の「所有物」ではなく、その存在条件として自然界から与えられたものであった。人類が社会を形成し、そこで生活に必要なモノを分担労働によって生み出しながら生きて行く様になってからは、自然はいわば社会的共有資源という形で扱われていたと考えられる。自然の一部を人間が必要とする形に作り換えそれを必要なだけ消費する一方で、社会の組織やモノを作り出す方法などが進化発展するにつれて、剰余生産物が蓄積されて行くようになり、それらは天災や戦争などの非常事態に備えるために備蓄され、それを管理する役割の人々がその権利を主張するようになったと考えられる。そういう物質的基盤の所有関係のもとで社会の内部に階級が生まれてきたと考えられる。階級社会においては、剰余生産物を支配的階級が所有し、彼らはそれらの生産物を生み出すために日々労働する人々を特定の「権威」のもとで支配するようになる。

 その中で、ある社会での剰余生産物を取得し、それを他の社会に持ち出して売ることで生活する商人たちが登場した。商人たちは通商という形で貨幣経済と交易ルートを拡大させながら、あるときは略奪や支配階級の権威を利用した戦争によって、莫大な富を獲得し、それを私的に占有し、その財力を背景に、職人たちにものを作らせ、それを買い取って売る(つまり売るために作る)という形で社会的な生産システム全体を支配し始め、商品経済を社会に全面化させた。資本主義社会の登場である。

 商品市場においては、買い手の要求に応じて商人たち同士が自由な競争を通じて損をしないで売れる範囲において決まる価格で商品が取引されることになり、ここに市場の動きに社会的な生産全体が支配されるこという状態が確立され、その中で生産に必要な労働力までもが商品として扱われることによって、一方では、社会的に必要な様々な生産部門への労働力の配分までもが、労働市場での需要供給バランスのうちに「自動的に」調整されるという資本主義的市場経済のメカニズムが完成し、他方では「資本家的個人主義」のイデオロギーが確立されたと考えられる。

 この資本主義社会では、剰余生産物の一部を「私有する」商人たちが、古い権威や圧力から解放され「自由に」市場で売買できるということが前提条件となっている。そこでは支払い手段である貨幣が社会的流通全体を支配し、商品所有者である資本家は市場での売買を通じてその万能の力を持った貨幣を獲得することが主目的となる。つまり「私的所有」とそれを市場で処分し金に換えるための「自由」とそれによって得た貨幣であらゆるものが買えるという形の支配権を獲得することが経済活動の第一義的目的となる。しかし同時にそのような「自由な私的所有者」が互いに「対等の立場で」市場において行う売買行為全体から生じる「市場の法則」に彼ら自身も支配されることにもなる。

 そして、その中で社会的に必要とされる労働を行う人々の労働力も商品と同じ土俵で扱われ、資本家は生産手段の所有者として、労働者は労働力の所有者として労働力商品市場で向き合うことになる。資本家から見れば、これは「対等な商品所有者」同士の取引であるが、労働者側から見ればこれは労働力を資本家に売りに出さねば生きて行けない賃金奴隷としての関係である。こうして資本主義社会は資本家から見れば、「自由で平等な」商品所有者の世界であり、労働者としては生産に必要な手段を持たず、したがって資本家に労働力を売り渡たすことで生きるために必要な生活手段を購入し、労働の成果である剰余価値を含むすべての生産物は資本家の占有物となるという階級社会なのである。

 しかし、このような「自由な商品所有者」による市場での自由な競争がもたらす市場の法則(「神の手」)によってすべての社会的生産消費システムを自動的に調整される(アダムスミス的「レッセ・フェーレ」)、という資本家的神話はすでに100年近く前に行き詰まり、世界大戦や世界金融恐慌といった形でその矛盾と限界を露呈しているのである。

 それは、本来社会的な共有財であるべき生産手段および社会的労働力や剰余価値の蓄積が、それらを私的に所有する資本家たちによる金儲けのための自由な競争の手段に貶められているという根本的矛盾から来る必然的結果であるといえる。だからその根本的矛盾をそのままにして、如何にケインズやフリードマンなどのように資本主義経済体制の仕組みをいじくり回してみたところで、そこからは結局さらなる新たな形の矛盾以外の何物をも生み出さないのである。(続く)

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