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2012年2月24日 (金)

いまふたたび次世代社会を考える(4: 「自由市場経済」と「計画経済」の矛盾的対立)

(3)から続く。

 前回では、資本家的な「商品所有者」としての立場からすれば、「自由に」商品を市場で売り買いし利潤を獲得できる社会が、労働者の側から見れば、社会的に必要となる労働力を、生産手段を所有する資本家に売りに出さねば生活することができず、その結果そこで生産される生産物は剰余価値部分を含めてすべて資本家の手に占有されているという形の階級社会であることを述べた。社会を支える諸労働を行っている人々が、資本の賃金奴隷となり、自由な社会の主人公になることが決してできない社会なのである。例え労働者が努力して金を集め、企業を経営する資本家になり資本家的自由を獲得したとしても、それは必ず他方で賃金奴隷としての労働者が存在しなければ成り立たない「自由」であり、それゆえ資本家自身も、「市場の法則」の奴隷とならざるを得ないという矛盾のもとに置かれるのである。

 例えば、ハイエクやフリードマンなどが主張する「自由」とはそういう資本家的生産手段の私有とそのもとで働く賃金奴隷としての労働者たちの存在を前提とした「自由」なのであり、したがって商品所有者(資本家)同士の「自由」な競争のもとで、社会的経済活動全体が、本質的に無計画な市場の動向に振り回され続けるという矛盾において初めて可能となる「自由経済」なのである。

 それを否定して、労働者階級の立場から計画的な生産と消費を行える社会を対置しようとすると、資本家たちやそのブレーンたちは「自由な個人の行為を否定する統制社会だ」と言って猛烈に反発する。

 彼らのいう「悪しき計画経済」のイメージは、かつてのスターリン的体制の「社会主義経済」やそれを横目で見ながら、資本主義体制の修正を図ったケインズ型資本主義経済などにおいて実施された「社会資本の国有化」という政策とその失敗(この失敗とは、いわゆる「社会主義」諸国での党と国家官僚独裁体制下での経済統制とそれによる労働者の労働の「ノルマ化」やケインズ的政策を採ったイギリス労働党政府の政策下でのいわゆる「イギリス病」という形の経済の不活性化などを指す)がもとになっているようだ。

 しかし、これらの「国有化」や市場経済への統制の形は、マルクスが目指していた本来の共産主義社会とは異なり、かつての「社会主義」諸国では、インターナショナルな共産主義社会への過渡期であるはずの「社会主義経済体制」が、「一国社会主義」という旗印のもとで党と国家官僚による労働者への独裁的支配体制として固定化され疎外された形となっていたことが問題なのであり、イギリスなどの労働党政府での政策は、あくまで資本主義経済体制の枠組みの中で、いわゆる「社会資本を」国家が管理運営するという形ゆえの矛盾であったと考えられるのである。

 だから、こうした経済の「社会主義化」や「国家管理体制」が挫折したあとに、「新自由主義」といわれる初期のアダム・スミス的資本主義思想が形を変えて再び登場することになったのである。彼らが「自由がない国家統制社会ではなく自由な個人の活動が保障された社会」を提唱し、「小さな政府」を主張する中で、労働者階級は再び混乱に巻き込まれることになってしまったのである。

 では、本来の計画経済体制とはどのようなものであるべきなのだろうか?そこでのキーワードは「だれが社会全体の経済を計画し運用するのか?」である。それはもちろん党と国家官僚によるトップダウン体制ではなく、また生産手段を占有し、それを元手に市場で「自由に競争する」資本家たちが、そのために共通に必要とする社会的経費を「社会資本」として国家機構の管理運営に任せるような体制でもない。

 まずは「国家」というものの形をこれまでの様な、中央集権的な総資本代表政府とは全く違ったものにして行くことが必要であろう。それはひとことで言えば、自立経済的地域社会の連合体というイメージである。もう少し具体的にいえば、自然発生的な地域社会内で基本的に必要な生産と消費をまかなうための経済的骨組みがその地域社会の中で自足されているような形の社会を一つの単位として、それぞれことなる地域社会同士が互いに必要に応じて生産物や労働力を交換し合えるような形の連合体を形成する「国家」である。それは総資本的利害を守るために作られ、「民族」や「宗教」などをも統治手段として駆使した政治的な「幻想共同体」としての国家を作り上げ、労働者階級を「国民」の名の下に結束させ、他国との戦争(例えば経済的国土支配権や資源の奪い合いという形での戦争)に駆り出すことを可能にさせるような国家では決してない。

 こうして作り出される自立経済的地域共同体の主要な構成員である労働者たち(この中には従来の様な土地所有者としての農民ではなく、共有地において農業に従事する人々も当然労働者として含まれる)がボトムアップ的統治機構を通じて自分たちの社会の生産と消費の計画的策定を行い、社会的共有財を管理運営をするのである。

 そしてそれらの地域共同体の連合政府は、各地域社会の運営をバランスよく保つことのみが目的となる。そこには「強力なカリスマ的リーダー」など必要ないし、共同体構成員としての絆の中で、民族や宗教での対立の原因となるものはほとんどなくなるだろう。

 こうした社会の形において初めて、社会のために働く人々が、「市場の法則」から解放され、計画的経済体制をデザインし運営する一員であると同時に、自分自身の主体的判断による自由な生き方や生活を手にすることができるのではないか?けだし「自由とは必然性への洞察である」のだから。

 (続く)

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