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2012年2月27日 (月)

いまふたたび次世代社会を考える(5: グローバル資本の「人工国家」論)

 今朝(2月27日)の朝日新聞に、「<カオスの深淵>国を見限り「選ぶ自由を」」という解説記事が載っていた。あのケインズ主義にたてついたシカゴ派代表で、自由市場経済主義者のミルトン・フリードマンの孫のパトリ・フリードマン氏が推進しようとしている市場中心国家「アップルトピア」の話である。

 まずサンフランシスコ沖にいくつもの人工島を作り、既存の国家権力が及ばない治外法権的地域を獲得し、そこに同じ考え方の人間が「トップダウン民主主義」によって合意した必要最小限の基本的なルール(憲章)のもとで、グローバル資本を導入して自由な企業活動を行える様にする、いわば「社会が市場に奉仕する」形の様々な「人工国家」を生み出し、人々は、商品を選ぶ様にその中から自分の好みにあった「国」を選択し、そこに住んで企業活動に参加する、という計画だ。

 まだるっこしい民主主義的手続きなどを経ずに、市場の競争に任せた「スピーディーな」対応ができ、そこでフリードマン的な「自由市場経済社会」を実現させようというものだ。

 これに触発されて中米のホンジュラスでも、「貧困からの自由」を達成するため、同様な方法で治外法権地域を設け、外国企業を呼び込み、諸外国から有識者を集めた「外部委員会」にそこでの社会運営を任せる、という構想が出てているらしい。そして地元の労働者たちは、雇用のチャンスが増えるので助かると歓迎しているらしい。

 いずれの場合も、民主主義的手続きや、既得権という制約や束縛なしに、市場の原理に従って、「自由に」経済活動が行える「特区」を設け、そこで人々が「自由に」仕事にありつき、生活できることを目指しているようだ。各国の資本家たちの関心を集めており、巨額の資本が動き始めているらしい。

 これらの提案を推進しようとしている連中にとっては、本来の民主主義は「自由」の敵であり、民主主義の束縛から解放されて市場が自由に動ければ社会はうまく行く、という市場至上主義、あるいはハイパー資本主義の実現こそが次世代社会の姿なのであろう。

 だが、彼らが冒している決定的誤りは、これらの「理想人工国家」はもう一方で、過酷な労働によってそれらの国の礎となる資本を世界中で日々生み出している、圧倒的多数の労働者の存在が無視されていることだ。彼らは効率のよい市場経済が富をもたらすと考えているが、その「効率のよい市場経済」を進めるためには、労働の「合理化」が行われ、多くの解雇者を生み出し、それらの失業者たちは、より労働条件の悪い企業に雇用されるということが日常的に繰り返されるのである。

 これら圧倒的多数の労働者たちがその立場と権利を主張することで、資本家たちの勝手極まる「自由な競争」に歯止めをかけているのがボトムアップ民主主義なのある。そのようなボトムアップ的民主主義は「理想国家」で富を享受する「トップダウン民主主義」者にとっては、不都合で理不尽な束縛となるのは当然だろう。

 どちらにせよ、いまやグローバルに蓄積された巨大資本のもとで世界中の労働者たちの労働の搾取を繰り返しつつ資本家的「自由」を確保するためには本来の民主主義は束縛以外の何物でもなくなりつつあり、彼らはそれに対して様々な言い逃れやご都合主義的提案を行うことで、逃げ切りを図っているようだ。

 われわれがいま一番警戒しなければいけないことは、これらのグローバル資本家階級が、世界中の労働者たちを「消費者」という形で位置づけ、「消費者の要求に応える」という名目で、労働者たちに「賃金」という形で前貸した資本を、消費財商品の購入において還流させている資本家たちの支配的イデオロギーである。

 そこには個別的には熾烈な競争を行いつつも、実は資本家同士が互いに結託して総資本の立場と利益を護り合うグローバル資本家階級のもとで、半永久的に労働とその成果を搾取され、彼らの賃金奴隷となりながら、市場の無政府性を盾に、市場を束縛から解放させ活性化させることこそが社会を明るく活気のあるものにするのだとして「自由な市場社会」を信じ込ませようとする「オピニオン」が社会通念化しているという状況がある。

 だが、決して忘れてはいけない。資本家的「理想の人工国家」に実現されようとしている富は、すべて世界中の労働者たちの血と汗の結晶であることを。

(続く)

 

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コメント

そうそう。でも有名なケイマン諸島国家とか、香港、シンガポールなどいくつもあるジャン。歴史を見ればギリシャのアクロポリスとか、ベネチアとか、モナコとか、バチカンとかいろいろあるでよ。でも、奴隷制度を基礎に置いた市民都市とか、宗教的な土地所有制度の上にたったキリスト教都市とかいろいろな歴史的な背景があっての話であり、資本主義的な都市国家もすでに十分散在している。ただ奴隷とか教徒とか農民とか労働者から独立している都市国家はないでよ。そのためいつもこれらの人々からの抵抗を受けて、維持するのに苦労し、終には都市国家の寿命も尽きる。なぜならば、そうした人々から独立できないからである。彼等の要求は民主主義であるから、特権を許さないからである。それを逃れての民主主義はまたすでに中東を想えば沢山ある。リビア カダフィーの大衆民主主義は立派なもんだった。湾岸産油国なんかもいい例だ。サウジも怯えている。中国の党民主主義もかなりのものだ。この上なにが必要なのかである。またなんでサンフランシスコ沖なんだ。アルカトラスを借りれば済むんじゃないん。ついつい云いたくなりました。マルクス資本論は云う。奴隷制度の上に立っていては、人間が見えない。資本の上に立っていては多分島しか見えまいって。

投稿: mizz | 2012年2月27日 (月) 11時57分

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