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2012年3月 5日 (月)

いまふたたび次世代社会を考える(8:何のために生きるのか?)

 才能があり、努力した人がそれなりの見返りが得られるのが「自由な社会」である。確かにそうだ、しかし、「才能」とは何か?そして「見返り」とは何か?われわれの社会では、「才能」とは何らかの形で世間に名を売り、それにより成功することができる能力であり、「見返り」とはそれによってリッチでセレブな生活が送れることを指す様だ。

 しかし、特別に神が与えてくれ、選ばれた人のみが占有するかの様に見える「才能」とは、実は人類が社会の中で共に生きるために別々の形で分担しなければならず、それゆえそれぞれ異なっている個性であると言えるし、「リッチでセレブな生活」の中身はその人が努力によって獲得した富であるかのように見えても、実はその大半は他者の努力の成果なのである。

 われわれの社会は、個性が商品化され、それが高値で売れた人のみが「成功者」であり、そうすることで他者の努力の成果の一部を「自由に」取得できる社会であると言えるだろう。多くの若者は、そういう形で「成功者」になることを夢見つつ、(当然のことながら)ほとんどの場合それができずに、自らの個性を、資本家的に分割・合理化され、それゆえ画一化された労働種の中に封じ込め、雇用者からその労働と引き換えに生活費を受け取ってそれによって生きねばならない。世の中の歯車になることはやむを得ないこととあきらめ、雇用されている企業が競争に勝ち抜けるよう必死になって働き続け、その賃金のもとで家庭をもち、次世代労働者となるべき子供を一人前になるまで育て上げることが人生の目的となる。

 正確にいえば、こうである。人々の能力が、労働力商品の市場での価格(価値ではない!)によって決められ、自らの能力(労働力)を高く売ることによって世の中の上層部に這い出でることができた一握りの「才能ある」人々が、下層で働き世の中の土台を支えている大多数の「無名の人々」の労働の成果の多くを自由に独占し、それに対する支配力を発揮している社会である。そこでは社会を支えるためにさまざまな分業種の形で労働している大多数の人々は、自らの能力をこうした一握りの人々がリッチでセレブな生活を送れる様になるために捧げながら、そのほんの一部を生きるために前貸しされ次世代の賃金奴隷を生み育てるために生活しているといってもよいだろう。

 われわれは一体何のため、誰のために生きねばならないのか!

 自分自身と、そして同じ様にそれぞれの個性を持ち合わせながら、それを、いまは分割され変形された労働種の中に封じ込められながら、歯車の一つとして日々働いている人々が、共に手を取り合って自らの個性を発揮する労働のもとで働くことができ、それによって「われわれ」という呼称で人間としての尊厳を互いに認め合い、共に生み出した社会的共有財をわれわれすべてがともにそれを享受できるような社会を実現させるためではないのか?

 こうした大きな目標を実現させるために、団結し、日々、いまの社会の矛盾を暴きだしつつ、それと対決する中から一歩一歩新たな社会を現実に生み出し始めることこそ、われわれの「いま」という実存を意義あるものに変質させる道ではないのか?

 われわれの目標は、資本主義経済体制の推進実体でしかない「産業界」の活性化による「経済成長」や可変資本の還流による過剰資本の処理形態でしかない「消費社会の活性化」などでは決してないはずだ。

 そしてそのために、限られた地球資源の無駄遣いを加速させ、貧困化させられた国々で安い労働力を駆り集め、それらによって生み出されるガジェット商品の過剰な消費を拡大させ、「国」どうしの経済的植民地(市場)拡大競争に勝ちぬくために日々働かされることでは、決して決してないはずだ。

 貧困国の労働者も先進資本主義国の労働者もそれぞれの形でグローバル資本に支配されているいま、われわれの地球を守り、われわれ自身のための次世代社会を実現させるために、国境を越えて手を結ぶ必要があるのではないだろうか?

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コメント

再び遅ればせながら、資本の自由について。

中国資本のグローバル化は留まるところを知らない。イタリアの古都フィレンツェから北西約20kmkのプラート市は人口約19万人だが、うち約4万人は中国人、欧州最大のチャイナタウンが出来上がっている。中国資本が中国から安い生地と安い労働力を持ち込んで、衣服を作る。文字通りの、メイド イン イタリーである。かって2,000社ほどあったプラトー県の衣服メーカーは今は400社と激減。安い労働力は、観光ビザでやってくる不法移民であるが、旅券やビザがないと、中国大使館は中国人とは認めないし、強制送還のための協定もない。闇工場は一旦畳んで、別の場所で開設され、いたちごっこ。日16時間労働。イタリア製の服は全世界から買い付けられている。プラトーで縫製された正真正銘のメイドインイタリアとして知られる。知らない人もいる。もっとも資本には国籍も出生の記録も成長記録もない。どこでなにしようと自由なのである。中国資本の内訳を見れば、何が見えるかってえ。漢字も多かろうって。
そうそうデザイナーもいるだろう。小原糸子もコシノジュンコもこの有様には立ち往生する。

投稿: mizz | 2012年3月 6日 (火) 21時18分

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