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2012年3月 6日 (火)

閑話休題:再び春がやってきた(デザインの矛盾に悩む日々)

 日本社会の大きな転換点をもたらした、あの3.11からもうすぐ1年になる。人々の想定や人生計画を無慈悲に打砕く大自然の猛威の前で、なすすべもなく茫然自失し、あまりに多くのものを失った被災地の人々に再び春がやってきた。

 それでも生きねばならないと耐え忍び立ち上がろうとする被災地の人々に大きな感動と共感をおぼえ、私自身も自分の人生を振り返り、残り少なくなってきたこれからの人生をどう生きるべきか考えざるを得なくなった。

 TV、インターネットや新聞などを通じて毎日入ってくる情報に触れながら、自分なりに、今後の社会のありうべき姿を模索し続けてきた。これは大学でデザイン学を専攻してきた私にとって残された人生最大の「デザイン課題」である。

 それはまた、デザイン研究と、マルクスの思想という2足のわらじを履いて生きてきた私にとって、最後の結論となるべきものでもある。

 デザイナーを養成する職能教育機関の出身である自分が、その教育機関に奉職することになり、その直後、あの1960年代末〜70年代始めにかけての学生運動に遭遇し、学生や他の教員との連日連夜にわたる激論の中で、私なりに「デザイナー」という職能のもつ本質的矛盾を探り当ててしまったのである。

 そこから抜け出てまったく別の世界に行くか、そこに踏みとどまって闘うべきかと10年にわたる孤独な思索の果てに、再び一歩踏み出した生き方が、2足のわらじを履き、一足のわらじから発せられた矛盾への喚起を2足目のわらじに問い、2足目のわらじから発せられた批判的視点を1足目のわらじに向ける、という生き方であった。しかし、これは必ずしもうまく行かず、おおむね平行線を辿ることになってしまった。この平行線を1点で交わらせることが私にとって最大の課題であり、そのための試行錯誤はまだ続いている。

 最初の試みは、「デザイン」という概念を、それがたとえ資本主義社会のある時期に台頭した職能を根拠としており、それゆえにそれが抱えている歴史的で本質的な矛盾があるにも拘らず、これを人間労働が本質的にもつ普遍的側面から捉えなおすという試みであった。創造性や発想支援という領域への取り組みはその立場から始めたものである。しかし、これも大きな矛盾にぶつかった。

 それは、デザインの創造性や発想が現実に発揮されている場が、実は現代的形態の資本主義社会が、高度な生産力によってつねに蓄積される過剰資本を消費材の生産と消費において処理し、それを際限なく拡大していくことで地球環境や資源を無駄遣いしながら延命を図っている社会であったという事実をあらためて認識したからである。母校から転職した北陸のある大学院大学を退職する前後から、この自己矛盾に堪え難い苦痛を感じ始めた。

 なぜ最初から分かっていたであろう矛盾に深入りしてしまったのかを考えた。そしてその原因は、「抽象化」の方法にあったのではないかと気づいた。歴史的に特殊な社会に登場した分業種である「デザイナー」という職能が、実は人間労働の普遍的側面の歴史的に特殊な現象形態なのだ、としてさまざまな種類のデザイナーの労働内容に共通する要素を抽出し、これをデザイン行為一般として捉えるという抽象である。この抽象の典型例はかの「吉川一般設計学」である。

 かつて理解したと思っていた、資本論で展開されているマルクスによる資本主義経済学批判の方法を、実は、私は自分の研究において適用していなかったことに気づいたのである。その結果、人間労働の普遍的側面としての「デザイン的行為」は、現にあるさまざまな職能の共通点をそのまま抽出するのではなく、現に行われている職能がどのような矛盾をもち、どのようにそれがごまかされているかを批判的に明らかにすることを通じて、「そうでないデザイン的行為」を浮き彫りにさせていくという方法を採るべきであることが分かった。こうして私が多くのことを学び、個人的にも知己であり尊敬してきた吉川氏の理論を批判の対象とせざるを得なくなったのである。

 そのような試行錯誤を重ねているさなかにあの3.11がやってきたのである。私の頭の中は真っ白になった。津波に襲われた沿岸の町で、がれきの前に立ち尽くす人々、そしてそこにはそれらの人々が営んできた生活を物語る家具や電気器具などが巨大な「ゴミの山」となって積み重なっているのである。こうした家具や電気器具を買い揃えていくことが、生活を豊かにすることであると思わされてきた人々のささやかな夢は、もろくも一瞬のうちに崩れさってしまった。

 私は思った、デザイナーたちが毎日与えられた労働の中から生み出してきた製品は、結局はすべて「ゴミ」なのではないかと。われわれが豊かな生活として描き出してきた「便利なモノ」にあふれた生活は、実はゴミの集積に過ぎなかったことを大自然がその猛威の中で嘲笑いながら示しているかのように思えたのである。

 そしていま、再び春がやってきた。人々は再び立ち上がろうと懸命に努力している。しかし、そこには「何かが間違っていたのではないか?」という疑問と反省が潜在しているように思う。「そうでない社会」を生み出すために一歩を踏み出す努力が始まっているように思えるのである。

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