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2012年6月17日 (日)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(4)

 mizzさん、コメントでの「(資本論第1編第1章の)第2フレーズのただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。という過渡的条件の設定もあり、この訳も苦心するところなのだが、ここの我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。という設定も出だしでしっかりと認識して読む上での条件と確認して、読み進められるようにとさらに苦心したところなのです。資本論とはそもそもが資本主義的生産様式の考察そのものなのですから。価値論として純粋に独立した観念論があるはずもないのは云うまでもないと思います」と言われていることは私もおっしゃる通りだと思います。

 マルクスが使用価値を捨象しているのではなく、商品経済社会が生産物の有用性である使用価値を捨象したその反面(これは社会的分業種どうしでの生産物の交換を通じてそれが需要されることの必然的結果ではあるのですが)である交換価値によって逆に手段化されてしまうメカニズムを論理的に解明しようとしているのだと思います。ここに商品交換を媒介するために生まれた「第3の商品」である貨幣がうまれ、それが物神化されて資本に育っていくメカニズムの秘密があるわけで、マルクスは、この使用価値を手段化してしまう交換価値の本質を、その背後にある社会的に抽象的な労働という概念で把握し、これが「価値の実体」であるということを突き止めたのだと思います。

 マルクスはこの価値の本質を正しく把握することができたので、剰余価値という概念を導きだすことができ、それにもとづいて、資本主義社会ではあらゆる社会的生産を行っている労働者の労働が、その剰余価値部分をつねに無償で資本家に搾取されているという事実を見いだすことができたのだと思います。

 だから、この資本論の最初の部分である「商品」の章は、きわめて重要でありかつそれを正しく理解する必要がある部分なのだと思います。これは決していまの「ブルジョア経済学」の「商品学」と一緒にしてはいけないものであり、それとはまったくそれこそ「天と地」ほどに違う内容なのです。

 しかし資本主義社会を永久化(社会経済の普遍的な形態に)しようとする視点からは、その価値の実体や本質は決して正しく把握することができず、あたかも商品経済が未来永劫に続くかのようなイメージでしか価値の問題が扱えなくなるのだと思います。

 資本論を生半可に読んで「マルクスはもう古い」などと言っていばっている「経済学者のセンセイ」たちはこのことをまったく理解せず無視し、そして意図的にねじ曲げて解釈しようとするのです。

 大学に入学して経済学や商品学を学ぶ若い人たちにこのことだけはまず頭に入れてほしいと思います。さもないと、やがてやってくるであろう世界大経済恐慌の本質を理解することもできなくなるし、われわれの次の世代にうみだされるべき社会やその土台となる経済的基盤について考えるための科学的根拠を獲得することができなくなるでしょう。

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コメント

野口さん、HIROさん、今晩は。

HIROさんのコメントから以後のやりとりは私にとっては大変有難いことでした。
HIROさんのコメントに改めて感謝するところです。

英語版資本論の翻訳の最初の部分は、向坂訳の読み取れない頭初部分の内容の解明です。特に知る必要もないが、この段階ではの限定的な条件であり、その意味するところが商品要素の考察という最初の段階のことであると分かり、初めて納得できたのがなにより嬉しいものでした。私が難解挫折の証明書と記したのも、それだからなのです。
マルクスの論法は、多くのこの限定的範囲での規定、その限りにおいてとか、そのような条件においてはとかの規定が当たり前のように前提されていて、しかも省略されて記されているものです。これを見落とし、一般論化する愚はどうも後を絶たないようで、私は訳においては、わざわざその条件的規定を書き起こすようにしてきました。そうすれば、単なる一般論には陥らないと思うからです。

それと諧謔、この面白さは抜群で、絶対に訳してやるといつも本気で訳を考えています。この最初のものが、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。と云うものです。上司にとある大学の商品学部を卒業した奴がいて、特に気にいらないものですから、奴に任せておけばいいと言いたい放題の文字を用いました。秘かに溜飲を下げたところなのです。マルクスさん、お偉いさんごめんなさい。

この部分の向坂訳は、「商品の使用価値は特別の学科である商品学の材料となる。」また英文は、The use values of commodities furnish the material for a special study, that of the commercial knowledge of commodities.

さて、価値について書いてところにも触れて置きたい。それは商品から使用価値を取り除いて見たとしたら、そこになにが見えてくるかの驚きの部分である。残っているものは一体なんなのか。(どのように取り除き、どのように見て行くかは本文でどうぞ)

Let us now consider the residue of each of these products; it consists of the same unsubstantial reality in each, a mere congelation of homogeneous human labour, of labour power expended without regard to the mode of its expenditure. All that these things now tell us is, that human labour power has been expended in their production, that human labour is embodied in them. When looked at as crystals of this social substance, common to them all, they are – Values.

向坂訳は、「われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性以外に、すなわち、無差別な人間労働の、言いかえればその支出形態を考慮することのない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの以外に、労働生産物から何物も残っていない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されているということを表しているだけである。これらの物は、お互いに共通な、この社会的実体の結晶として、価値――商品価値である。」

私の訳(11 )さて、この生産物から諸々を取り去って残った何かを、今こそ取り上げて考察してみよう。それは、それぞれに同じ様にありながら姿は見えない。ただ一様に混ざり合った「人間の労働」の混成物、「人間の労働力」をどのように混ぜるかに関係なく混ぜ合わせた代物なのである。「人間の労働力」が注ぎ込まれた生産物、「人間の労働」が生産物となっていると、これらの考察が語っている。このように、生産物全てに共通する「人間の労働」という社会的実体の結晶を見れば、それが――価値である。

そしてここにも、

The progress of our investigation will show that exchange value is the only form in which the value of commodities can manifest itself or be expressed.

とくる。つまり
我々の考察の進展は、やがて、交換価値が単に、商品の価値を証明するか、表現するかの形式であることを教えてくれることになるだろう。と云うのである。交換価値あるいは価値、は商品の価値を表現する形式であると云う。価値という万古不易のなんやらではないのである。

だから、どこまでも資本主義的生産様式の考察の断面として価値を手がかりとして取り上げているのであり、価値 あるいは交換価値 の絶対化ではないのである。そう、そこが二重にブルジョワ経済学者には理解できない。

投稿: mizz | 2012年6月17日 (日) 15時55分

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