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2012年6月15日 (金)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(1)

HIROさん

 貴重なコメントをありがとうございました。早速ご紹介いただいた下記のサイトにあるI氏の論文「マルクス価値論における使用価値捨象の誤謬」を読ませて頂きました。

http://www12.plala.or.jp/iwabayas/kachiron.pdf

 これに対する私の感想(批判)は以下のファイルから読むことができます。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/noguchires.pdf

 少し厳しい批判だったかもしれませんが、やはりマルクスの言わんとしていたことをきちんと理解することから始めるべきだと思いますので敢えてこのようなことを書きました。

 私もマルクスの価値論をもう一度読み直しています。マルクスの思考水準までは到底及ばないにせよ、それを正しく理解することは努力すれば誰にでも可能だと信じています。資本論が難解だからとあきらめてしまえば、もうそこでマルクスの考えていた資本主義以後の社会への一歩を踏み出せないことになるでしょう。

 それには互いに批判し合う中で、それぞれの誤解や無理解に気づき、少しずつでも歴史の真実に近づけることが必要だと思います。

 私のこのブログで書いていることにも、ビシバシ厳しい批判をしてください。より深い認識はディスカッションからしか生まれてきません。

野口

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コメント

マルクスの価値論をもう一度読み直す際に、下記の考察も考えてくれませんか。
 URL http://www11.ocn.ne.jp/~ecospot
google検索で 「社会的使用価値」、「DDMの理論」等で検索可能です。

投稿: | 2012年7月 6日 (金) 13時42分

野口さん、HIROさん、今晩は。
前回に名前を入れ忘れて申し訳ありません。mizzです。

追加します。
向坂訳と英文をです。

向坂訳は前のものよりはよいが、それでもそれを読み取ることは容易ではない。

使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に――交換価値の素材的な担い手を成している。

英文はこうである。
Use values become a reality only by use or consumption: they also constitute the substance of all wealth, whatever may be the social form of that wealth. In the form of society we are about to consider, they are, in addition, the material depositories of exchange value.

私の訳ならまず誤解は生じないだろう。

In the form of society we are about to consider, they are, in addition,

のところである。われわれがどんな社会に居て、どの社会体制を考察するのかである。ここでは追加的に交換価値が登場するのである。どこが使用価値の捨象となるのか。むしろ以後の社会では捨象される対象の一つに交換価値があると読めるだろう。

投稿: mizz | 2012年6月16日 (土) 10時21分

野口さん、HIROさん、今晩は。
私も当該松山大学論集の「マルクス価値論における使用価値捨象の誤謬」と、野口さんの指摘を読みました。いや驚くべきことを発見しました。I氏の引用する資本論を見て、これではこのような捉え方に陥るのもありかなと思いました。

まず、彼の最初の引用文は、「ある物の有用性(なんらかの種類の人間的欲求を満たす性質)は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値または財である。使用価値の考察にさいしては、1ダースの時計、1エレのリンネル、1トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている。そして使用価値は、ただ使用または消費においてのみ、実現される。使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしており、同時に交換価値の素材的担い手をなしている。」となっています。

この部分の私の英訳の和訳で見れば、[(4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。
つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。
 この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。
我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。
 しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。
 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。]となっている部分です。

同じ様に読めるかも知れませんが、重要な点を抑えれば、かなり違っていることが明白なのです。彼のは、使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしており、同時に交換価値の素材的担い手をなしている。ですが、私のは 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。となっています。引用が恣意的でなければ、現資本主義社会においてはと云う部分が極めて重要な点であることを捨象しています。どんな社会でもと読んでいるようです。

以下も同様に、引用文のというか、引用した元の訳が全く正確でも、的確でも、理解して訳しているものでもないということに帰着します。この訳を読んでいては、まさに論者の誤謬の原因がここにあると分かってきます。彼の論は資本論の訳そのものに間違いがあるから発生した悲しき産物なのです。ぜひ、私の訳と比較してみてください。ちょっとおこがましい点があるかと思いますが、この野郎程度でご勘弁ください。

投稿: | 2012年6月15日 (金) 23時19分

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