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2012年6月18日 (月)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(5)

 6月17日のmizzさんからのコメントにあるように、「価値」という概念規定に対するマルクスの表現は、たしかにそれが資本主義社会という、いわば商品経済社会が全面化した社会の歴史的に特有の規定(その意味で限定つき)であって、生産物の有用性からくる使用価値といった普遍的概念とは異なり、むしろ交換価値という形で使用価値を捨象してはじめて得られる概念であるということを言わんとしているのだと思う。

 そして使用価値を捨象した交換価値から生まれる「価値」という概念規定からみれば、それを形成するのは、具体的有用労働を捨象した抽象的人間労働だと言っているのだと思う。そしてその分析から始まる資本論冒頭の「商品」の解析こそ、なぜ、そのような捨象が行われ得たのかを明らかにし、さらにその結果が結局どのように矛盾した(つまり人間の労働がその産物である資本によって支配されてしまう)社会を築き上げることになったのかを明らかにしようとしているのだと思う。

 この基本的立場が、マルクスの労働価値説と彼にによって否定された古典派経済学者たち(スミス、リカードら)の「労働価値説」との本質的違いであると思う。

 しかし、重要なことは、ここでマルクスによって初めて明らかにされた「価値」の実体である「抽象的人間労働」という概念は、人類の歴史上あらゆる社会で行われてきた、社会的生産をさまざまな個別の労働種によっておこなう社会的諸分業種とその分業間で、個々の分業種の生産物を必要とする人々に分配供給し、またその供給が可能である様な社会的労働力の適正な配置が行われる様にするために必要な社会的メカニズム(宇野弘蔵の言う「経済原則」)を、資本主義社会では、価値法則を通じて行っていることから現れた概念であると言えるだろう。

 資本主義社会では、社会的に必要な生産物がすべて「売って利益を得る」ために作るというかたち(使用価値はそのための手段でしかない)で、商品として生み出され、市場での「売りと買い」によってそれらが分配供給される。それを支配しているのが「価値法則」であり、そこでは労働力までもが商品として扱われ、価値法則のもとで雇用されたり解雇されたりしている。いかに「良心的資本家」であっても市場を支配する価値法則のもとでは、かわいい労働者を「泣いて馬謖を斬る」ように首切りせざるを得なくなるのである。

 そして一瞬だけ「泣いた」資本家もやがて気を取り直して立ち上がり、「日本の労働者の賃金が相対的に高くなれば、人件費削減のために生産拠点を労働力の安い国へ移すしかない!」と叫びながら、その国の労働力を搾取しはじめる。これも労働力をモノと同等な商品としてみなす「価値法則」ゆえのことである。ひところ日本から中国へと生産拠点を大挙して移して行った日本の資本家たちは、いまやその中国でも労働者の賃上げ闘争が激しくなり、それよりはるかに労働賃金が安いミャンマーにどっと生産拠点を移し始めたではないか。これも価値法則ゆえである。

 そして労働者は、まるで資本家と対等な「商品所有者」(実は、労働力という商品しか持っていない)であるかのようにイメージづけられ、それぞれが「平等の市民」として商品を交換し合いながら社会を形成しているというのが「市民(ブルジョア)社会」という名の資本主義社会の外観である。

 そしてその社会は、表面上どんなに取り繕っても、次々と形を変えて出てくる労働者階級と資本家の基本的対立関係を覆い隠すために「国家」という政治的支配のツールを使う。「国家の危機」に際して、国家経済を支配している「産業界」という名の資本家階級を護るために「国民」として駆り出されるのはいつも労働者階級である。政治的紛争決着のための戦争しかり、経済危機での消費税値上げしかり、である。

 しかし、この資本主義社会特有の価値法則は、それが社会全体で必要とする生産物を生み出すのに必要なあらゆる分業種への労働力の社会的配分を決めるために指標として、それぞれの生産物を生み出すのに要した労働時間という形できわめて明快に理解された社会においては、それが「商品を売るために作る」という目的ではなく、「必要なものを必要なだけつくり、必要な人々に分配供給する」というストレートなシステムを生み出すために用いられるだろう。

 そのときには「価値」がそれを生み出すのに要した平均的労働時間として客観的に表示され、それに基づいて交換される社会が成立しうる様になるだろう。そこではもはや「価値法則」に支配されることはなく、価値は必要労働時間という指標で数値化されることによって、それに基づいた労働力の社会的配置は、資本家の商品取引の場である市場の動向によってではなく、労働者階級自身が自らの目的意識にもとづいて行えるようになるだろう。

 マルクスによる価値の分析とはそのような次世代社会への展望も含んだきわめて重要な研究なのである。

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コメント

野口さん、HIROさん、今晩は。

資本論からの引用で申し訳ないのだが、そして多少長くなるのだが、価値の形式に触れるところを改めて読んで貰いたい。そしてスミス リカードの価値論、古典経済学のそれに触れる注を訳して付け加えた。

第一章第四節(19)(17)を逆順になるが示したい。
(19 ) 商品の形式を取る生産物、または直接交換のために作られる生産物の生産様式は、最も一般的であり、ブルジョワ的生産の最も萌芽的な形式である。であるから、その外観は、歴史上早い時期に作られた。ただ、現在今日と同じような優越的支配や独特の挙動はない。それゆえに、その物神崇拝的性格は、比較的簡単に見通せた。しかし、より具体的形式に直面するようになると、この単純な外観も消えた。どこからこの重金主義の幻想が生じたのか? その金や銀が、通貨を務めると、生産者間の社会的関係を表すことなく、奇妙な社会的特質を表す自然的な物となった。そして、重金主義を蔑視する近代経済学は、資本を取り扱う段になるといつも、その迷信的幻想を白昼のもとに明解に連れ出さない。経済学が、地代は大地から生じ、社会から生じるものではないという重農主義的幻想を放棄してから、かなりの年月が過ぎているではないか?

(17) 不完全とはいえ、政治経済学は、この通り、価値とその大きさを分析した。そして、これらの形式の下にあるものを発見した。だが、いまだかって、次の疑問を発してしていない。なぜ、その生産物の価値が労働によって表されるのかと。またなぜ、その価値の大きさが労働時間で表されるのかと。*33

 本文注: *33 古典経済学の主な欠陥の一つは、商品の分析、そして特に、それらの価値の分析によって、価値が交換価値となる形式の発見に、失敗していることである。アダム スミスやリカードというこの学派の最上の代表者でさえ、価値の形式をなんの重要性もないものとして取り扱っている。商品固有の形質にはなんの係わりもないものとして見ている。その理由は単に彼等の感心がもっぱら価値の大きさばかりに注がれていたからではなく、もっと深いところにその理由がある。労働生産物の価値形式は最も抽象化されたものであるのみでなく、最も世界的に普遍化されたものなのである。だが、ブルジョワ的生産の生産物によって取得されたものであり、社会的な生産の特別なる種類の生産によって取得されたものとスタンプが打たれている。それゆえ、その特別なる歴史的性格をそれに与えている。かくてもし我々がこの生産様式をいかなる社会においても自然によって永遠に固定化されているものとして取り扱うならば、我々は必然的に価値形式の、そしてその結果として商品形式の、そしてそのより発展した貨幣形式や資本形式等々の本質的な差異内容 を見落とすはずである。(フランス語 イタリック) その結果として、我々は、これらの経済学者が、労働時間が価値の大きさを計るものであると完全に認めていながら、貨幣やその完璧化された一般的等価概念について、奇怪で矛盾した概念を持つのである。このことは、彼等が銀行業を取り上げる時、日常会話で貨幣の定義を取り上げる場合に、もはや理屈が合わなくなって、持った桶から水が漏れ出すという驚くべき珍事を披露するのを見ることで分かる。このような概念が復古的な重商主義 (ガニー等) の再来をももたらす。彼等のそれは、価値には何もなく、ただ社会的な形式だけと見る。またはその形式をありもしない幽霊のようなものと見る。はっきりと言っておくが、これがあの古典的政治経済学の見解なのである。私は、その古典的政治経済学とは ウィリアム ペティ以後、ブルジョワ社会における現実の生産関係を考察してきた政治経済学と理解している。俗流経済学とは対照的な地点に立って考察してきた経済学と理解している。さて、俗流経済学は、外観のみを扱う。遠い昔に述べられた科学的経済学の文言をあいもかわらず繰り返す。そしてブルジョワの日常用に最も気になる現象のまことしやかな説明を捜す。後の残り全部は、いかにも格好がつくようにそれらをまとめることであり、ブルジョワジーが、これぞ自分の世界であり、自らにとって最上のありうべき世界なりと、自己陶酔する陳腐な概念を、永遠に続く真理とでも宣言することである。

 (本文に戻る) 価値・価値の大きさ、労働・労働時間、かれらの空疎な文句でも、間違いようがない文字を商品の上にスタンプしている。商品は社会の状態に属していると。そこでは、人が制御するのではなく、商品の方が人間を支配している。この空文句はブルジョワジーの知性に、生産的労働そのものが、自然から賦課された、自明の不可欠事項であると顕れる。まさに、ブルジョワジー形式以前の社会的生産方式をブルジョワジーが取り扱うようなものだ。キリスト以前の宗教儀式をキリスト教の神父が執り行うみたいなもんだ。

注33を新たに訳出した。それと最後の部分のブルジョワジー形式「以前の」と以前のが抜け落ちていたので追加修正しました。

G20とやらで、俗流ブルジョワ系政治家がどんな文言を労したかとなる。世界の税で決済を支援するというとんでもない水漏れ事件語なのである。銀行の銭と証券がまるで自分が天から授かったものと思っている。

投稿: mizz | 2012年6月20日 (水) 00時03分

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