« マルクスの価値論めぐるディスカッション(5) | トップページ | 閑話休題:ゴーン氏の報酬と超小型車 »

2012年6月20日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(6)

 mzzさんからの新しいコメントから、次の様な重大な事実が明らかになった。それはmizzさんが和訳の原本として用いているサミュエル・ムーア訳の英語版資本論と、向坂逸郎が和訳の原本として用いているドイツ語版資本論との間でかなり内容が異なっているということである。以下にその証拠を挙げよう。

 miaaさんが挙げている(19)と(17)は、資本論のドイツ語版、英語版では入っていないようだ(向坂版にもそれがない)が、mizzさんによって付された区切り番号であろうと思われる。そしてmizzさんが挙げている注33も向坂版では注32となっていて違っている。

 mizzさん訳の該当部分はコメントを見て頂けば分かるので、ここでは向坂版の該当箇所を引用してみよう。mizzさん訳の(19)に該当する部分は向坂版ではこうなっている。

 「商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未熟な形態であり、そのために商品形態は今日と同じようにように支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格は、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。より具体的な形態を見ると、この単純さの外観すらも消える。重金主義の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表しているが、特別の社会的属性をもった自然の形態で、これをなしているということを見なかった。そして上品に重金主義を見下ろしている近代経済学も、資本を取り扱うようになると、物神礼拝につかれていることが明白にならないか?地代が土地から生して、社会から生じるものでないという重農主義的な幻想は、消滅して以来どれだけの歳月を経たか?」(1972年、岩波版、p108-109)

 そしてmizzさん訳では(17)に当たる部分は「さて経済学は不完全ではあるが価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのであるが、それはまだ一度も、なぜこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?という疑問すら提起しなかった」(同上、p106)

 さらにmizzさん訳では、注33となっている部分は、向坂版では、注32として次の様に書かれている。

 「古典は経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A. スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということだけにあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、このような生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱したそしてもっとも矛盾した観念をみることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取り扱いに表れる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としてしか見ないような新装の重商主義(ガニー等々)が、ここに発生した。ーーこれを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W.ペティー以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学とは反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探求するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつきまわるだけで、いわばもっとも荒削りの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学にとってとっくに与えられている材料を、絶えず繰り返して反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理屈づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである」(同上、p106-p107)

 さて、この両者の明らかな違いは、主として、おそらくドイツ語原本とムーアの英訳との違いであろうと思われるが、難解な向坂逸郎を少しでもわかりやすくしようと努力されているmizzさんの成果との違いでもあるように見える。これについて、しかしもう少し突っ込んだ考察が必要かもしれない。次回以降でそれを行おうと思う。

|

« マルクスの価値論めぐるディスカッション(5) | トップページ | 閑話休題:ゴーン氏の報酬と超小型車 »

哲学・思想」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

野口さん、皆さん、今晩は。

(1)段落に振った番号の件
これは私の訳にある特別な順番記号で、英文段落との関係を、作業用の意味と以後の照合用にと付けたものである。

(2)注の番号は、ずれていますが、ドイツ語原本と英語版とはその番号はそのまま対応していませんが、該当注の位置と内容は全く同じです。注の多少の出し入れは各国語版で僅かながら生じているものと思う。

ここにドイツ語版と英語版の本質的な差に該当するものはありません。

(4)さて当方訳と向坂訳の違いは、この段落では、文字使いは違っても、内容、概念、規定等についてはなんら問題はないと思います。なにも本質的な差異はないと思いますが。

(5)向坂訳の難解挫折点について
ここで最もそれが顕著に出ている点は、以下の箇所でしょう。

(向坂訳)重金主義の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表しているが、特別の社会的属性をもった自然の形態で、これをなしているということを見なかった。

(当方訳)どこからこの重金主義の幻想が生じたのか? その金や銀が、通貨を務めると、生産者間の社会的関係を表すことなく、奇妙な社会的特質を表す自然的な物となった。

重金主義者の目には、金銀が通貨として社会的生産関係を表しているのかいないのか。消えたのか。見る目がないからなのか。見たくないからなのか。

奇妙な「社会的特質を表す自然物」と見ているのか。特別の社会的属性をもった自然物の形態で、これをなしているということを見なかったのか。そもそも社会的属性をもった自然物の形態とは何か。マルクスは重金主義者をどう見なしているのか。

つまり自然物なのか、自然物ではないのにそう見てしまっているのか。自然物と見るとどういうことになるのか。

重金主義者の幻想はどこから生じたのか? どのような幻想に陥っているのかである。向坂訳は意味を外している分けではないのですが、把握が難しく、かつ全く逆に読み取れる可能性もあって、混乱を産む。

本質的な差異ではなく、訳の問題なのである。向坂訳を読んで正確に概念を把握するのは期待しがたいことが少なくない。とはいえ、我が訳が最上のものではないことは十分に承知している。ぜひ、いろいろとご指摘いただければ幸いである。


投稿: mizz | 2012年6月20日 (水) 22時03分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/55009272

この記事へのトラックバック一覧です: マルクスの価値論めぐるディスカッション(6):

« マルクスの価値論めぐるディスカッション(5) | トップページ | 閑話休題:ゴーン氏の報酬と超小型車 »