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2012年6月20日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(7)

 mizzさんのコメントで、私の前々回のブログの書き方が悪かったことを反省しています。ドイツ語版を訳した向坂版とムーアによる英語訳を和訳したmizzさん版の内容が違っていることについて指摘しただけで、中途半端であいまいな終わり方をしてしまいました。それは実は、新聞紙上で報じられているカルロス・ゴーンの話を早くブログに書きたくて、価値論の方を途中で切ったため、いっそうそうなったのだと思います。そこで、前々回のブロウで書き足りなかったことの続きをここに書きます。

 区切り番号のことは了解しました。たしかにその方があとでどの部分か指摘するのがやりやすくなりますね。それから注の番号がずれている理由も了解しました。

 そしてもっとも肝心なことは、向坂版での分かり難さの問題です。mizzさんが指摘されるように「重金主義の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表しているが、特別の社会的属性をもった自然の形態で、これをなしているということを見なかった」という和訳はまったく意味不明といっても良いでしょう。mizzさんがこれを分かりやすく表現することに努力されていることは非常によく分かりますし、またそうすべきだと思います。

 問題は、向坂逸郎が、ドイツ語版、英語版など標準的な原本と言われているものに複数目を通し、資本論をできるだけ原本に近い形で訳したいと思っていたにも拘らず、結果は惨憺たる難解さになっているということだと思います。

 ここで私は資本論第2巻と第3巻のそれぞれ巻頭で、編纂者エンゲルスが書いた序文を読んで感じたこととの関連で上記の問題を次の様に考えました。

 ご存知の様に、資本論はマルクス存命中には第1巻しか出版されませんでした。彼の死後、マルクスの娘エレノアの委託を受けて、エンゲルスが、まだ手稿の段階だった第2巻を苦労してまとめあげ、出版したのがマルクスの死後、2年後のことでした。そして続く第3巻は、バラバラなメモ書き程度の手稿をエンゲルスが苦労して繋ぎ合わせ、出版されたのは、実にマルクスの死後11年後のことだったようです。そしてエンゲルスは第2巻の序文のなかで次のように言っています。

「マルクスが第2冊のために残した、自筆の材料を数えてみるだけでも、彼がその偉大な経済学的諸発見を公表する前に、いかに比類なき誠実さをもって、いかに厳格な自己批判をもって、それらの発見を、究極の完成にまで仕上げることに努力したかがわかる。この自己批判のゆえにこそ、彼は、ただまれにしか、新たな研究によってたえず拡大される彼の視野に、叙述を内容的にも形式的にも適合させるまでには至り得なかったのである」(岩波版、第2巻 p2)

 つまりマルクスは彼自身の思想の内容がどんどん広がって行くために、試行錯誤の繰り返しの中で、なんとか第1巻の原稿をまとめあげることができたのですが、資本論全体としては未完の書のままであるということです。

 エンゲルスが資本論の原本を出版するにあたって、マルクスの表現を忠実に再現するよう努めたことは、まったく正しいことだったと思いますが、一方で、おそらくマルクスは彼の思想をできうる限り労働者階級の人々にも分かりやすい形で表現したかったであろうことも確かでしょう。しかし、おそらくそこまで行けなかったのだと思います。

 それを思うと、原本をテキストとしてその内容を的確にそして分かりやすく読者のために訳すのが訳本をまとめる者の務めであろうかと思います。その意味でmizzさんの努力は正しいと思いますし、向坂氏の訳は、それをあまり意図していなかったと言われても仕方ないと思います。

 難解な原本をただ忠実に訳すだけでは何年経ってもマルクスの意図が労働者階級に浸透しないだろうと思いますし、それにしてもマルクスの意図を内容的にねじ曲げないで、できるだけ分かりやすく述べるということの難しさは一筋縄では行かないとも感じています。

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コメント

野口さん、皆さん、今晩は。

改めて、「『松山大学論集』、第13巻4号、2001年10月マルクス価値論における使用価値捨象の誤謬」の誤謬について触れて置きたい。

彼(筆者)は、マルクスの価値論として資本論第一章からの引用を示した後に、

「aが商品Aを生産するために行った労働の具体的な形態(aの個人的労働力の支出形態)とbが商品Bを生産するために行った労働の具体的な形態(bの個人的労働力の支出形態)とは、当然異なっている。また、x量の商品Aを生産するためにaが費やした労働時間(aの個人的労働力の支出量)とy量の商品Bを生産するためにbが費やした労働時間(bの個人的労働力の支出量)も、やはり異なっている。にもかかわらず、マルクスは、それらの質的同一性、無差別性、そしてそれらの量的同一性、無差別性を主張した。マルクスは、いかにしてそれらの質的および量的同一性、無差別性を主張しえたのであろうか。」-なる疑問を発する。

前段の労働力の支出形態は当然異なっているは当然正しい。だが後半のそれは、労働時間は同じなのであるが、異なっているとする際、x量・y量の比例定数を忘れている。このため、「マルクスの推論は、さまざまな種類の労働が投下されるさまざまな種類の生産部門において、それぞれの部門の「普通の人間」は単位時間当たり等しい価値を生み出す、あるいは等しい価値を持った商品を生産する、という前提があり、しかも「複雑労働」の「単純労働」への還元が絶えず行なわれていることを示す「経験」が実際に存在することによって初めてその正当性が保障されるであろう。しかし、このような前提と「経験」は、マルクスにあってはアプリオリに措定されていて、なんら論証ないし実証されているわけではない。」-と書いており、マルクス価値論(社会的平均的抽象的人間労働)を読み取れていないという誤謬に陥っている。

そして論を展開するのだが、この誤謬が尾を引いて、
「その生産物の中に「同一かつ無差別な人間労働」が含まれているにもかかわらず、ある生産者の生産物は交換に成功し、したがって価値の実現に成功し、別の生産者の生産物は交換に失敗し、したがって価値の実現に失敗するという現実をいかに説明することができるのか。交換に成功する生産物には一様に社会的使用価値が含まれている、というまさにこの点にこそ私的諸労働の質的同一性、無差別性の根拠、そしてその結果である諸商品の質的同一性、無差別性の根拠を求めるべきである。これらの根拠は、使用価値の捨象を通してはけっして求めることはできない。」-という資本主義的生産様式の現実G20版に直ちに、その歴史的進展を度外視して適用しようとする。値下がり証券をどのような人間労働と考えているか自己解析してもらいたいもんだ。

かくして、ご感想的結論は、
「以上から明らかなように、マルクスの価値論はきわめて特殊な状況下での商品交換を想定しており、より一般的な商品交換を説明するには不十分である。」-と、自分の頭の中のというか、ブルジョワ社会の歴史的特殊性をあたかも自然な一般法則であるかのような倒錯が起きる。

そして、「商品生産者は、その生産活動を通じて商品という社会的使用価値を生み出す。社会的使用価値の存在は商品交換において実証される。社会的使用価値の実証過程は、同時に商品生産者の生産活動の社会的有用性の実証過程でもある。商品交換の成立において明らかになる価格は、社会的使用価値の大きさを表すと同時に、商品生産者の生産活動の社会的評価の大きさをも表すことになる。これが社会的使用価値論にもとづく商品の価値規定である。」-という珍妙なるブルジョワ社会御用達の資本家ご判断市場原理主義的価値論枠に陥る。

「社会的有用性の予測不可能性を前提として、したがって市場の存続を前提として、なおかつ人々の活動の社会的有用性を最大限保障するにはどうしたらよいか」-が世界の人々の問うべき課題とおっしゃーる。商品、交換価値とは、資本主義的生産様式の生産物であるという歴史的特殊性を全く読んでいない。弁証法的唯物論の世界を見失っている。

資本論を読む難しさは、向坂訳だけではなく、己のブルジョワ的既成観念にもあるのである。

投稿: mizz | 2012年6月21日 (木) 15時25分

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