« America is made in China | トップページ | マルクスの価値論めぐるディスカッション(11) »

2012年7月15日 (日)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(10)

 mizzさんから前々回のブログに関するコメントを頂いた。mizzさんのおっしゃる様に、Aさんは「価値」という語の既成概念があるためにマルクスの導きだした価値が理解できないでいるようです。たしかに、向坂訳の分かり難さと私の引用のまずさも理解の妨げになっていたようですが、私はAさんのもっとも重大な問題点は次の様な点にあるように思えます。

 Aさんは、あのときの私の講演のあとで、数学や物理学においては、その歴史的過程の中で、見いだされ、体系化されてきたものが、誰が見ても分かる形で記述されている。数学や物理の世界では、さまざまな定理や論理を見いだした人の名前が付されているが、その名前を忘れてしまっても、その論理の正しさは誰の目にも明らかなものとして歴史の中で残って行く。しかし、社会科学は、ある理論を唱えた人への「共感」が大事であって、それがなければ「理解」できない場合が多い。その意味で社会科学は本来の意味で「科学」とは言えないのではないか?と言っていたのです。

 私は回答書の中で、次の様に書きました。

「総じて私が考えますに、マルクスを理解するには、まず、いまの資本主義社会において「当たり前」と思われていることの背後に実は「当たり前でないこと」があるということに気づくことが必要であると思われます。これに気づかぬ人にマルクスの考えをいくら説明しても理解してもらえません。しかし、いったんそういう事実に気づき、そのような視点でマルクスを捉え返してみると、彼の分析がいかに鋭い物であり、現代社会の矛盾を根底から解明しようとしていることが見えてきます。

 私はある理論を理解しようと思う「理解の端緒」はそのようにして始まり、したがってまだマルクスの理論の全貌が分からなくともそれを何とか理解しようとするモチベーションが保たれるのだと思います。それはAさんが以前おっしゃっていた、「社会科学における理解はむしろ共感なのではないか」ということに当たるかもしれません。分からないなりにマルクスの意図を共有し共感を深めながら理解を深めて行くということが、ない限りこういう理論は理解できないのかもしれません。そういう意味で、今回のAさんと私の議論には、立場の基本的な違いがあるのかと思う様になってきました。」

 最後の部分は、私がAさんへの、ある種の怒りを表明しているのですが、Aさんはこの部分を読んで、やはりマルクスにシンパシーを持った人間でないとマルクスの理論は理解できないのだ。と思ったかもしれません。

 しかし、私が本当に言いたかったことは、次の様なことです。

 ある既成概念による世界観が普遍的であって、それこそが本来の理論の基盤になる世界だと信じていることが、土台から揺り動かされることがない限り、人はその中ですべてを理解しようとする。少しでもナイーブで人間的感性の鋭い人は、この既成概念の内側の世界があちこちで大きなほころびを見せ、ひどい矛盾が噴出していることに気づくのですが、すでにステータスを得てその世界に安住している人たちはそのほころびや矛盾をできるだけ見ない様に努めるか、あるいは自分がもっている既成知識の内部でそれを「理解」しようとするのです。

 だからこういう人たちに既成概念をはるかに超えた真理があることなど理解できないのでしょう。Aさんは顔にこそ出しませんでしたが、マルクスや宇野弘蔵の理論を「理論」とは思ってもいないことは明らかです。だからこういう人たちにマルクスの価値論を分かってもらおうと思うことはそもそも無理なのだということがよく分かりました。

 Aさんは数学基礎論が専門のようですが、彼の「信じている」数学的論理が、いかに多くの「暗黙の前提」のもとで組み上げられた体系であるかを私は知っています。彼らが「信じて」いる論理実証主義は矛盾だらけで、しかもそれを基礎として生み出されたいまのコンピュタ・サイエンスが暗黙のうちに持っている論理的矛盾は、彼らにはまったく見えていないのだと思います。彼らのいう「抽象クラス」や、Trueの「否定」がFalseであるなどという論理はおおよそ本来の抽象や否定(マルクスが価値論において駆使している弁証法的論理)とかけ離れたものだと思います。彼らには、資本が、資本家の利潤獲得視点による労働の抽象化(収奪という具体を貨幣という価値体に抽象化している)にもとづくその否定、(つまり同じ物が対立している状態)であり、一方の極にある資本家に私有化された労働の成果を、他方の極にあってそれを生み出した無産労働者が取り戻すことでしかその否定が具体的に止揚されることがない、という真理は到底理解できないものだと思います。

 私のマルクスへのシンパシーは、宗教的「信心」などと決して同じものではなく、この矛盾にみちた資本主義的世界観の内部にどっぷり浸かっている人たちからは理解することが難しい、より深い真理をマルクスがわれわれに解き明かしてくれていることへのシンパシーです。

|

« America is made in China | トップページ | マルクスの価値論めぐるディスカッション(11) »

哲学・思想」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

野口さん、今晩は。

数学や物理の世界では、その論理の正しさは誰の目にも明らかなものとして歴史の中で残って行く。しかし、社会科学は、ある理論を唱えた人への「共感」が大事であって、それがなければ「理解」できない場合が多い。その意味で社会科学は本来の意味で「科学」とは言えないのではないか? 「社会科学における理解はむしろ共感なのではないか」

とAさんが云う。

社会科学とし理解するのがあくまでも基本である。何に共感しようと、科学的な理解に至らないなら、何も始まらない。どう理解させるかはいつもながら難しい問題であるが、猿や鶏に理解させる話ではないでしょう。共に生活し、働いている人間として、互いに話しあい、議論し、追究していくことで、互いに理解するに至る、理解を深めることしかないでしょう。

人はピラミッドを建てた。共感して建てたと理解しても、なんの展望もない。それなりの歴史的な生産関係、社会関係からその理由を知れば、それを応用することができるし、また反面教師としても学ぶことができる。我等の溢れる資本主義社会についても同様、科学的に理解することがなんとしても必須である。

興味もない。勝負事は苦手。聴きたくもない。でもこの話は、将棋理論や麻雀理論ではなく、実生活、実社会、実歴史の理論であって、趣味やゲーム・賭け事の話ではないのである。避けることは何人もできはしないのである。投票や民主主義も歴史の産物に他ならないが、どうでもいいと思っていても、その成果を捨てることはできはしない。投票に行かなくても、他人の投票や、他人の投票妨害に影響される。やはり今度は投票しようと考えることになるだろう。これが社会科学理論であって、その理論的追究も人間が生きている限り続く。民主主義の理論に発明者名はないが、小学生でも知っている真理であろう。5減1増の選挙制度改革論との関係も自明であろう。

資本主義社会では討論でもやらせが混じる。よく知っていることである。買収とか会社ぐるみとかインサイダーとかがしっかりと結びつくと云う特徴もある。それはなぜか。簡単な理論的追究で十分足りるはずである。共感するからのか。資本主義社会でも犯罪行為とされているにも係わらずこれが続く。容易に続く。商品の自由が前提の社会の大きなひずみであり、かつ究極の権力だからである。札束の痛さなどなんでもないと麻痺している。資本主義社会の考察こそ現代の基本的社会科学理論なのである。無視も、傍観もできはしないのである。いはば、いじめに関与している構造こそ、ちょっと見回せば、見えてくるはずであり、その原因の理論的追究を迫っている。失業者がなぜ増えるのか。失業した経験がない人の方が今では少ないだろう。身をもって知るはずである。Aさんだとて、その淵に立たされているはずである。

理解してもらうまで、続く一つの作業なのである。野口さん、いつものように続けるだけのことです。

投稿: mizz | 2012年7月17日 (火) 21時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/55204157

この記事へのトラックバック一覧です: マルクスの価値論めぐるディスカッション(10):

« America is made in China | トップページ | マルクスの価値論めぐるディスカッション(11) »