« マルクスの価値論めぐるディスカッション(8) | トップページ | マルクスの価値論めぐるディスカッション(9) »

2012年7月10日 (火)

閑話休題:2002年1月5日の日記より

 ハードディスクに入っていたふるいファイルを整理していて、いまから10年前の日記を発見した。当時自分はこんな気持ちだったのかと思う。くずかごに捨てるつもりだったが、当時の心の記録としてここに残しておこうと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2002年1月5日

 今日は昨日の続きではない。突然別のことを書くことにした。

人が宗教を信じる瞬間というものが、あるときに理解できたような気がすることがある。

 そこには一種名状しがたい気持ちの高まりがある。真冬の夜空に星を見ていて、この何万光年はなれた世界がかつて確かに存在し、それをこの僕がこうして見ている。この星からは絶対に僕という存在を見ることができない。しかし僕はこうして存在する。そのとき宇宙のどこからかかすかなひとつの楽音が聞こえてくるような気がした。僕はこの大自然というものが全存在を内部に包み込みながら同時に一つ一つの存在の内部にまで入り込み、この僕の細胞や血液のなかにまで滲み通っていることを感じた。自分が苦しんだり悲しんだりすることは、結局この僕の中に浸透した宇宙の成せるわざなのだと知った。

 それはやむを得ないことといえばそうだったに違いない。だが僕は自分の意志で苦しみ悲しんできた、すべてが僕から奪われてしまうときがきても、それはきっとやむを得ないことなのだ。だが、僕は自分の意志で生き、そしてきっと自分の意志ですべてが奪われることを許すことになるのだろう。やがて夜が明けて空は白み、星が見えなくなっても、この深い闇と遠い星は宇宙に存在し、そしていつも僕の意志で僕を悲しませる。聞くことのできない音楽がいつも僕の耳の中で奏でられているように。見ることのできない姿がいつも僕の脳に映っているように。見えない宇宙の摂理がそれを僕の意志でさせようとしている。

|

« マルクスの価値論めぐるディスカッション(8) | トップページ | マルクスの価値論めぐるディスカッション(9) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/55165996

この記事へのトラックバック一覧です: 閑話休題:2002年1月5日の日記より:

« マルクスの価値論めぐるディスカッション(8) | トップページ | マルクスの価値論めぐるディスカッション(9) »