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2012年7月 4日 (水)

ある購読会(研究会)での講演にて

 もう数年前から私が関わっている、あるソフトウエア会社のOBたちが行っている購読会(研究会と言った方がよいかもしれない)で、今日私の講演の順番が回って来たので、「マルクスの価値論をめぐって」という演題で2時間の講演を行ってきた。事前に13ページにわたる講演資料と56コマのパワーポイントをプレゼン用に用意して会場に臨んだ。この講演資料の原稿は、以下にアップロードしてあるので、まずそれを読んでから以下のやりとりを読んで頂きたい。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/20120704HN.pdf  

 ところで今日の講演では、いつものことながら途中で質問が続発して、予定の1/3も行かないところで時間が来てしまった。

 この会の参加者はバリバリの数学屋さん(日本のソフトウエア開発者の第一世代)ばかりで、ヒルベルトだのブルバキだのは常識として知ってなければ馬鹿にされるという恐ろしい人たちである。

 しかし、その質問には、私は手を焼いた。炉の例を挙げてみよう。

Aさん:価値とはある生産物を生み出すのに必要な社会的に平均的労働時間によって決まる規定である。と言っているが、例えば、金10グラムを鉱石から抽出するのに10時間を要して、銀20グラムを抽出するのに20時間かかったとすれば、両者はあきらかに異なる使用価値を持っているのに、金20グラムと銀20グラムは同じ価値として交換可能なのか?

私:この場合、交換はありえないと思う。交換する意味がないから。

Aさん:そもそも価値とは何かということをいうのに、交換価値とか使用価値というものも定義できていなければ動議反復になるではないか。

私:使用価値はある目的をもって人間が生み出した生産物のもつ属性や機能つまり有用性のことであって、交換価値は、リンネル所有者が上着所有者にたいして、自分の所有するリンネル20ヤールを交換に出して上着を獲得しようとしているわけであって、その場合、上着1着という使用価値によってリンネル20ヤールのもつ交換価値を表現していることになる。そこで交換価値によって表現される価値は、それを生み出すために要した平均的労働時間と言える。

Aさん;何を言っているのかさっぱり分からない。

ーーこのやりとりは約40分くらい続き、結局私が、商品所有者同士の交換においては両者の主観的判断によって「等価」が決まるが、これが社会において何百回何千回と繰り返されることによって、その平均的な値として、それを生産するに要した労働時間に応じた価値が決まって来るということであって、価値はその意味では事後的に決まるものである。という説明でなんとか、不服ながらAさんは納得し、その先に進むことができた。

 そして必要労働と剰余労働の話に入り、剰余労働は労働力を買い取ったときに支払われる賃金が示す労働力の価値を超えて労働が継続することで生み出される価値であって、これを資本家が無償で獲得する。という説明をしたところ、

Bさん:資本家が「無償で剰余価値を獲得する」なんていうのは感情的な表現であっておかしい。資本家が剰余価値を獲得することは当然のことであって、それによって労働者は雇用されるし、生産が続けられるのではないか。

私:絶句。

 ことごとがこの調子で行くものだから、ついに私の講演は予定の1/3も進まずに時間切れになってしまった。

 私が作った資料やプレゼン用スライドでのマルクスや宇野弘蔵の本からの引用が部分的であって分かり難かったこともあるが、もっと深刻なすれ違いがあったと感じた。

 講演の後で会食になったときに、酒を飲みながらこの人たちと話し、Aさんが言っていたことが気になった。

Aさん:数学はだれが見ても誤解のない論理の組み合わせでできているので、明快であるが、社会科学は、きちんと言葉を定義していないし、同じ言葉でも一人一人その内容が違っていたりする。だから社会科学は、「原著主義」であるが、数学はそれがだれの理論であろうとも間違っていなければ、その内容が的確に伝えられる。これが科学の基本ではないのか?その意味では社会科学は科学とは言えない。

私:例えばマルクスの資本論を読もうとするときに、マルクスがそこに表現しようとしていた内容を正しく理解するためには、まずその原著をきちんと読むことが必要なのは当然ではないのか?

Aさん:数学や自然科学での「理解」と社会科学での「理解」とは言ってることが違うのではないか?

私:そうかも知れない。社会科学での理解は、理論を構成する要素を一つ一つ論理的に証明しないと理解できないというものではなく、あいまいであってもまず全体の意図が理解できれば、そこから詳細な概念規定を論理的に理解して行くという仕方だと思う。

Aさん:それは理解ではなく「共感」だろう。それは数学や自然科学ではありえない。

 という具合で、ついにこの人たちと議論がかみ合うことができなかった。

しかし、こういう人たちが実は世の中の大部分なのかもしれないということに気づいた。こういう人たちを、マルクスの「共感者」として取り込むことは本当に難しいことだと思った。

 疲れた〜!

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コメント

野口さん、お疲れさま。計算バカの条件式が見えた。

数学屋さんに自然科学的思考があるならば、簡単な通帳上の無に等しい低率複利計算にはどのような自然科学的条件が含まれているかに思考を延長して貰いたい。すぐに銀行科学から社会科学という自然科学的な世界に飛ぶだろう。
減価償却とか税金・金融プログラムにはいかに多くの条件式が組み込まれているか知らないはずもない。その条件式が自然科学由来の条件ではないことを証明するのに時間は係らないだろう。だが、ブルジョワ計算屋にとっては、それが自然の至上の条件式に見えているかも知れない。剰余価値素粒子を信託銀行の門前で発見するのかも知れない。普通の多くの人間の労働がそれであるという極く当たり前の歴史的・社会的なる自然科学が欠落していないか。既存的・資本主義的条件式以外は計算式に想定しない特質を自然とか、理論とか、科学とか、理解とかって云うかって。

投稿: mizz | 2012年7月 5日 (木) 11時59分

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