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2012年7月29日 (日)

「直接民主主義」の流れとその行方

 中国江蘇省では1万人規模の大衆による抗議闘争が一時、地方政府庁舎を占拠するという事態が発生した。この秋の中国共産党大会で要人が交代する時期にあり、こうした大衆の抗議運動が反政府運動へと発展することを極度に恐れているようだ。だからこうした大衆の抗議運動について、ある程度までは、それを容認し要求の一部を受けるという態度を示すが、結局は、警察権力や「人民解放軍」による弾圧が事態を制することになっている。

 一方、日本では、東日本大震災と福島原発事故の後、その対応や、これまで原発を推進してきた政府への不信感が高まっている。このところ毎週金曜日に大規模な反原の発抗議運動が首相官邸付近で行われている。そしてさらに日本版「緑の党」が発足したようだ。

 これに先立つ数ヶ月前からアラブ圏で独裁者の支配に対する民衆の反政府運動が激化し、シリアではいまも血みどろの闘いが続いている。

 こうした世界的な規模での大衆運動の盛り上がりを背景に、今朝の朝日新聞<ザ・コラム>で、「直接民主主義 文明への問い、が生む機運」という論説記事が載っていた。

 その中で、根本編集委員は、「さようなら原発10万人集会」での大江健三郎の言葉を引用しながら、「群衆という印象ではない」「ひとりひとりの注意深い市民たちが、個人の意志によって集まっている」とし、「確かに「注意深い市民」らのうねりは、議会制民主主義ではないかもしれないが民主主義そのものであり、政党政治ではないかもしれないが政治そのものである。」と書いている。そしてこの現状は、これまでもあった、政治不信とは何かが違う、とし、その主張の構えが大きいことを挙げている。すなわち「私たちは、石油と原子力に象徴されるエネルギー大量消費型の文明に、踊り、踊らされてきた」「自然を征服と操作の対象としてきた近代の文明的枠組みからの大転換をめざす」「経済成長優先主義から抜け出す」といった主張が、以前の様に「非現実的主張」ではなく、現実味を帯びて受け止められる様になってきたことを挙げている。

 そして一橋大の坂口教授の次の様な捉え方を引用している。「民主主義のありかたに二つの次元があり、ひとつは日常的な政治でぶつかりあう利害に折り合いをつける調整と取引の政治であり、そこではふつうのひとびとは「私人」として自分の利益に関心があるが政治にあまり関心を示さない。もうひとつの次元は、直面する危機を乗り越えるために国の基本的ありかたを変えなければならないという意識が社会に共有され、私益を超えた熟議が重ねられる」。さらに坂口教授の「原発推進と経済成長の追求は、ともに戦後日本の「国策」であり、この社会を支配する根本原理だった。それをいま人々が自覚的に変えようとしているなら、政治は第二の次元に近づいていく。」という言葉を引用している。

 少しニュアンスが違うかもしれないが、私がこのブログで今年の1月3日と4日に書いた「二つの民主主義」と内容は似ている。私の場合は、トップダウン民主主義からボトムアップ民主主義へという捉え方で書いた。

 またこのブログの別の投稿でも書いたことであるが、問題は、この「市民」によるボトムアップ的民主主義運動が、どこまで、トップダウン民主主義政治の機関である現政府の基本政策を変えることができるような実力を持てるようになるかであろう。

 これもこのブログで何度か書いてきたことであるが、その一つのキーは、いかにして単なる「市民意識」から抜け出し、自分たちが置かれた社会経済的位置、そしてそこで負わされている役割の本質を自覚できるかであると思う。マルクス的な言葉でいえば「階級的自覚」である。

 「労働者階級」といえば、油にまみれたナッパ服の工場労働者しかイメージできないようでは古い。いまでは日本のような資本主義の「腐朽化」が進んだ国では、工場労働者は海外の労働力の安い国々にシフトし、国内的には建設労働者や物流センターなどで働く非正規雇用のアルバイターなどが肉体労働を担う労働者であり、その他の多くは、資本家的企業で雇用され、資本家の頭脳の役割を分担して行わされている頭脳労働者である。

 彼らは企業の経営管理、財務管理、商品企画、宣伝広告、営業販売などなどという形で資本家の分身としてのさまざまな機能をその職能として果たしている。設計開発部門で働く技術者やデザイナーもそうである。そうした様々な分業種(職能)という形で、企業に雇用され、働いているのが現代の労働者階級の姿である。

 それでは、資本家は?といえば、かならずしも企業の経営陣だけが「資本家」であるわけではなく、彼らは資本家的機能の中枢をなす労働者の雇用関係や利潤追求の意思決定最高責任者としての資本家的業務を分担しているだけであって、じつはその企業に投資している株主や金融機関が、彼ら経営陣のクビを切ることもできるという意味で本来の資本家であることが多い。しかもいまでは株主というのは、機関投資家だけではなく多数の個人投資家(こういう人たちも「市民」とされている)をも含んでいるので、ますます、「資本家」の姿が見え難くなっている。

 しかし、そのような状況において依然としてそしてますます強力にそれらの人々の「資本の機能の一部」としての役割を実現せしめているのは。いわゆる市場原理という資本主義的経済法則である。いかに「市民」として親密な関係の経営者と被雇用者であっても、この経済法則の前では、情け容赦ない「解雇」や「倒産」が発生するのである。

 だから、こうした社会的な職能や労働の諸形態をそれとして機能させている経済法則を誰が推進させ維持させているのかが問題なのである。それが、私の言う「資本家代表政府」である。それは資本家的経済法則を推進、維持させようとする総資本の立場を代表しているのであって、その政治論理と対決しなければ、労働者階級は勝ち目がないのである。彼らは言う「経済成長がなければ、企業も利益を得られず雇用は減り、税収も減る。そうすれば安定雇用も社会保障も何もできなくなってしまうんですよ。」われわれはこの「脅しに近い論理」に対決しなければいけないのである。

 「民主主義」を装い、「市民の代表」を装いながら、結局は資本家的論理を「社会の成立原理」として押し進めようとしているのである。

 そうしたトップダウン的民主主義に対していま、人々はその本質的な矛盾と欺瞞に感づき始めたのである。われわれは、資本家的機能の一部を果たす自らの職能の視点からものごとを見るのではなく、もっと高い視点から将来を見据えるべきだと思う。

 トップダウン「民主主義」に対するボトムアップ民主主義による異議申し立ては、日本だけではなく、グローバル資本主義経済のネットワークに組み込まれた中国や欧米諸国でも、そしてアラブ圏でも起きている。それらのボトムアップ民主主義への流れはいづれは互いに手を結び、連帯してグローバル資本主義に代わる社会システムを生み出して行かなくてなならなくなるだろう。

 だからこそ「市民意識」だけではダメなのである。もっと労働者階級の歴史的使命を自覚しなければダメなのである。

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