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2012年7月11日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(9)

 先日このブログで書いた、7月4日のある購読会(研究会)での私の講演「マルクスの価値論をめぐって」に関する、主宰者のAさんからの質問状とそれに関する私の回答書をアップロードファイルで紹介したが、この回答に関してAさんから再び質問書が来た。その質問書は、以下にアップロードしてある。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/ValueDiscussion2.pdf

 また、それに対する私の回答書は以下にアップロードしたのでご覧頂ければ幸いである。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/ValueDiscussion2ANS.pdf

 ここでは、その一部のやり取りを載せるに停めておこう。

0)などの番号はAさんの質問、*はそれに対する私の回答である。

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0) まず最初の問題ですが、「交換価値によって表現される価値」と単純に「交換価値」の違いは何か?

* 単純な商品交換の場において、A商品所有者とB商品所有者の間で、交換が成り立つ場合、おそらく両商品所有者の主観的価値観による、A=Bという関係が成り立っていると考えてよいと思います。もちろん、AとBは異なる使用価値を持った商品でなければ交換する動機はありません。そして具体的にはA商品のある量とB商品のある量が「等価」であると二人の商品所有者の間で合意されて初めて交換が成立するわけですが、ここでの「合意」は交換価値が等しいということであると言えます。しかし、これはあくまで両商品所有者のいわば主観的合意であって、一般的なものではありません。そして実はこうした主観的合意に基づく交換が何十回も何百回も世の中で繰り返される場合、そこに全体として、交換価値の背後にあって、それを規定しているその本質としての「価値」が存在すると考えてよいと思います。これが、マルクスの言うところの「それらの商品を生み出すに要した抽象的人間労働」の量であるといえると思います。

 ですから、交換価値は、価値の現象形態であって、価値は交換価値によって表現されるものの本質であるという風に言えると思います。

A様のおっしゃる、「別物」の意味ですが、ここでは、交換価値と価値は、その現象形態と本質という意味で抽象のレベルが異なるが、本来は同じものであると言えるのではないでしょうか?

 質問 0.6)での柳生様の引用「第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の表現方式、すなわち、その現象形態でありうるに過ぎない… (交換される)1クオーター小麦にも、同様にaツエントネル鉄にも同一おおいさの、ある共通なものがある…したがって二つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない」という部分です。

* この部分の前回の私の回答書ではこうなっております。

「一定の商品、1クオーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金、等々と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は、唯一の交換価値の代わりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じくy量、同じくz量金等々は、1クオーター小麦の交換価値であるのだから、x量靴墨、同じくy量、同じくz量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しいおおいさの交換価値であるに違いない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の表現方式、すなわち、その現象形態でありうるに過ぎない。」(向坂訳岩波版p.47-48)

という部分で、上記のことは、明解に記述されていると思います。私の理解では、次のように言えると思います。

(1)交換される商品は互いに異なる「質」としての使用価値を有している。

(2)しかし、交換が成立するためには、両者の使用価値の異なる量(例えば、1クオーターの鉄、20ヤールのリンネルなど)においてではあるが、両者に何らかの「同じもの」が表現されているはずである。

(3)その「同じ物」は、直接的には「交換価値」として表現されているが、その背後にある本質は、それを生み出すに要した抽象的人間労働の量である

 マルクスがいう「交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)というようなものは、一つの背理(contradictio in adjecto)のように思われる。」は、向坂逸郎氏の訳のまずさもありますが、(valeur intrinseque)とマルクスがフランス語で表現している言葉は、英語的にはintrinsic valueであり、そこには「固有の」という意味よりも「内在的価値」という意味合いが強いと思われます。固有の価値はむしろ使用価値を意味するはずですが、ここで言われている「内在的価値」は、交換価値がその交換相手によってさまざまな量で表現される、という意味での「内在的価値」なのだと思います。したがって、マルクスはこの一見矛盾しているかのように見える交換価値の意味について、より深い観点から分析しようとしているのだと思います。

 その結果抽出されるのが、さまざまな交換相手において、等しい交換価値という関係を生じせしめている「第三のもの」で、その背後にある本質規定としての「価値」であるということだと思います。

 前回の私の回答書での引用、「商品の形態的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にする限りにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。」(向坂訳岩波版p.48-49)で、A様は、「したがって、等しい交換価値を有する商品群は等しい使用価値を有する」とおっしゃるのは、誤解です。異なる使用価値をもった商品群が、使用価値の相違にも拘らず、ある一定の量的関係による交換を成立させる、という意味であって、等しい使用価値の商品が交換されるということはあり得ないし、矛盾であると思います。

以下アップロードファイルを参照していただきたい。

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コメント

野口さん、 Aさん、今晩は。

Aさんの質問を要約すれば、
価値と交換価値の違いは何か?
から始まるのですが、「商品価値、価格、使用価値、交換価値、価値」の資本論上の論理として記述されている文字と、日常的・観念的・言わせて貰えば、ブルジョワ的論理として使用される同様の文字との混乱があって、0.14)(商品としての生産物の)価値は交換価値でも使用価値でもそのいずれであっても差し支えない。なぜならば同一の使用価値を有する商品は、同一の交換価値を有する故である。との理解に至っているようです。いや、疑問が深まるばかりの状況にあるとお察しします。

資本論を読まれて居られるようですが、でもよく理解することができない陥穽の中に居られるご様子ですね。0.4)の引用から、0.5)価値—商品価値は交換価値によって表現されると読めるが、「価値—商品価値」が交換価値とは別物のようにも見えるし、と、本題質問の出発点に戻って、違いがあるはずとの思考に立っているようです。

さらに0.6)—0.12)の引用とその論理的追究から、一層の混乱、論理矛盾、に撞着して、反射・対称・推移律を満たす関係、即ち同値関係の示唆を見出し、同値類が、それに属する商品の交換価値であるという解釈が登場します。違いが見えて来ないでしょう。あるいは違いがないことも見えては来ないでしょう。それに属さない商品の交換価値は全く論外に放られています。

マルクスが論じている点と、読者向けに注として、こんな理解はしないようにと書いている点をごちゃ混ぜに読めば、当然おかしなことになるのは目に見えるでしょう。向坂訳の難解・挫折構造に起因するところです。

この部分の私の訳を改めて読んで頂ければ、大いに解消することと思います。少し長いですが、あしからず。簡単明瞭なんの矛盾も発生しません。そればかりかマルスクはここで特徴的な言葉を発しているのですから、その内容理解を際立たせて呉れます。

(5)  交換価値は、ちょっと見た限りでは、数量的な関係に見える。あるものの有用さと他のものの有用さの比例的な関係に見える。しかもその関係は時や場所によって常に変化する関係に見える。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。しかしながら、一方では、商品とは切り離せない固有の価値にも見える。この相対性と固有という関係には言葉の矛盾を感じるだろう。これらの内容をもう少し細かく考えて行くことにしょう。

(6 ) 与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々と交換される。これらの商品はそれぞれ全く違う特質を有しているにも関わらず、交換される。小麦という一つの交換価値は、従って、様々な交換価値を持つことになる。
しかし、交換した結果から見れば、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々の交換価値は、1クオーターの小麦の交換価値ということになるので、さらに、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々それぞれの商品は、相互に交換価値があり、交換することができることになる。
これらの事を踏まえれば、第一に、様々な量の商品達の交換価値は同一の何かを表しているということになる。第二に、交換価値とは、一般的に、商品に含まれ、識別できる何んらかのものの、一つの表現形式・現象形式だということになる。

(7 ) 二つの商品を取り上げてみよう、トウモロコシと鉄である。それらは、それなりの比率で交換可能である。その比率がどうであれ、常に、与えられた量のトウモロコシは、ある量の鉄と、次のような等式で表わすことができる。
1クオーターのトウモロコシ=x ツェントナーの鉄
この等式は、我々に何を語っているだろう? 二つの違った事を語っている。まずは、1クオーターのトウモロコシとx ツェントナーの鉄には、両者に共通な大きさの何かがあるということである。次いで、従って、二つの物には、1クオーターのトウモロコシとx ツェントナーの鉄以外の、ある大きさを持った何かが存在しなければならないということになる。しからば、交換価値を持つこれらの二つの商品は、両者以外の同じ大きさを持つ何かと交換することができ、それらも等式で示しうるということをも語っている。

(8 ) 簡単な幾何学図で説明してみよう。多角形の面積を求めたり比較したりする場合、我々は三角形に分解して計算する。ところで、三角形の面積は、その形とは別な、底辺の1/2と高さの積で表される。同じ様に、様々な商品の交換価値は、各商品に共通のある物で、その量の多いか少ないかで表すことができるということである。

(9 ) この共通のある物は、商品の幾何学的特質でも化学的特質でも、その他の自然的な特質でもあり得ない。その特質は、それら商品の有用性つまり使用価値にあるのではないかと思わせる。がしかし、明らかに商品の交換は、使用価値を全く考慮することもなく実行されるものである。結果的に、ある使用価値は、量が十分対応していれば、別のものの使用価値と同じと見なされるだけである。かのバーボン老が「ある衣料は、もしその価値が他の何かと等しいなら、あたかもその何かと同じものとなる。ある物と他の物の価値が同じで、そこに差異や異存がないならば、100ポンドの価値なる鉛や鉄は100ポンドの価値の銀や黄金と同じ価値であるように、同じ価値、同じ物となる。」と云ったように、見えるだろう。勿論、様々な商品の使用価値はそれぞれ違った特質を持っている、しかし、交換価値となると、量の違いだけである。これらから分かるように、交換価値には、使用価値の1原子も含まれていないと云うことである。

(10 )もし、我々が、商品から、商品の使用価値を取り除いて見たとしたら、何が残っているだろうか。ただ一つ共通的な特質がそこにまだ残っている。商品を作り出した労働がそれである。しかし労働の産物だとしても、それはすでに、我々の手の中の物ではなく、変化してしまっている。
 もし、我々が、使用価値を取り除いて見たとしたら、同時にまた、使用価値であるその生産物の素材や形をも取り除いて見たとしたら、もはやそれはテーブルでも家でも糸でも、その他の有用物でもないものを見ていることになる。その物としての内容が視界から消えている。その物はもはや、家具職の労働の産物とも思えず、大工職の労働の産物とも思えず、紡績工の労働の産物とも、その他職種の労働の産物とも云えない。
 その物の有用な質も、そこに込められた有用な労働も、労働の内容も見ないとしたら、もう、その物には何も残らない。しかし、それらの物に共通する何かが残るのである。それは、ただ一つのもの、同じ意味での労働、つまり「人間の労働」が、この様に子細を取り去れば、そこにあるのが見えてくるだろう。

(11 )さて、この生産物から諸々を取り去って残った何かを、今こそ取り上げて考察してみよう。それは、それぞれに同じ様にありながら姿は見えない。ただ一様に混ざり合った「人間の労働」の混成物、「人間の労働力」をどのように混ぜるかに関係なく混ぜ合わせた代物なのである。「人間の労働力」が注ぎ込まれた生産物、「人間の労働」が生産物となっていると、これらの考察が語っている。このように、生産物全てに共通する「人間の労働」という社会的実体の結晶を見れば、それが――価値である。

(12) 商品が交換される時、それらの交換価値は、全く、使用価値から独立したあるものであると明らかに示す。我々が見て来た通りである。しかしもし、それらの使用価値を取り去っても、見て来たように、そこには価値が残存する。であるから、商品の交換価値の中に、価値を示す共通なあるものの存在が明らかである。交換されるものはいつでも、その価値なのである。
 我々の考察の進展は、やがて、交換価値が単に、商品の価値を証明するか、表現するかの形式であることを教えてくれることになるだろう。が、今の段階では、この交換価値とその形式から逆に、それから独立している使用価値の方について思考を深める必要がある。(と進みます。)

どうでしょう。価値は交換価値です。資本主義的生産体制を考察する上では、使用価値と交換価値というものをマルクスは取り上げています。後者の価値とその増殖こそ資本主義的生産体制を再生産する仕組の根幹であり、その資本主義社会がそこに成り立っているからです。それ以外の諸々の価値はこの考察に関しては必要もないのです。それが分からないと、資本主義生産体制が商品を売るために作り出した詐欺的価値とか、幻想上の価値とか、特殊な希少価値とか、伝統的価値とか、落札合戦上の価値とか等々の自由商売的な自分勝手な価値解釈の混乱を伴い、そこから脱けだせないのです。独自の価値観があってもなんら差し支えはないのですが、それでは、現社会の問題を把握することはできないので、この価値(交換価値)を把握する以外の道はないのです。そして自分や他人の労働の意味するものが理解でき、将来の人間の労働や社会体制について、検討していくことができるようになるのです。資本蚊にかなり労働奉仕した(血を吸われた、もう少し云えば、吸わせるのを手伝った)ものとして、反省を込めて理解するに至った者の一人です。

少々余計なことを書かせて貰いましたが、参考にしていただければ幸いです。

投稿: mizz | 2012年7月15日 (日) 21時03分

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