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2012年8月 8日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(12)

 すでに、このブログの「マルクスの価値論をめぐるディスカッション」シリーズでこれまで、11回に渡って書いてきましたが、その後、7月4日に、ある研究購読会で行った私の「マルクスの価値論をめぐって」という演題の発表に関して、その会の主要メンバーであるA氏(数学基礎論が専門で、ある有名ソフトウエア会社の取締役だった人物)からすでに2回の質問状をもらい、それに対する私からの回答を送っていますが、7月19日にA氏から3回目の質問状をもらいました。

この3回目のA氏からの質問状は以下のファイルからダウンロードできます。

ダウンロード Aquest3.doc (62.5K)

 昨日私は、そのA氏の3回目の質問状に対する私からの3回目の回答書を以下のファイルで示すような内容で書き送りました。

ダウンロード HNans3.doc (55.0K)

 少々分かりにくいやりとりかも知れませんが、マルクスの価値論に興味のある方はぜひ、このシリーズの中で何回かにわたってアップロードされたファイルをお読みください。その中で非常に重要な問題がディスカッションの対象になっています。

前回までのやりとりは以下のファイルでご覧になれます。

1番目の解答書

ダウンロード ValueDiscussion.pdf (160.7K)
2番目の質問状
ダウンロード ValueDiscussion2.pdf (143.0K)
2番目の質問状への回答
ダウンロード ValueDiscussion2ANS.pdf (188.2K)

 私は、このディスカッションを通じて、ひとつ考えさせられたことがあります。それは、近代資本主義社会の成立とともに現れ、近代科学と、その発展形である現代の科学を基礎で支えている「論理」(A氏のいう「標準論理」)が、いまの社会ではいかに「普遍的な論理」として確固とした座をかちえているか、ということと、同時にそれがいかに近現代科学の矛盾を覆い隠しているかということです。
 ヘーゲルからマルクスへと否定的に引き継がれた弁証法的論理が、資本主義社会では隅に追いやられるのは、いわば当然かも知れませんが、それがあたかも自ら「標準論理」であると確信している人々に、その歴史性を突きつけ、その歴史的変革における無力性を自覚させるまでにはまだ時間がかかりそうです。
 マルクスの弁証法的論理が新しい「標準論理」に成長するためには、それを土台で支える社会の変革が必要であり、同時にその論理が社会的変革への強力な武器になるだろうと思います。
 マルクスの価値論で展開されているような弁証法的論理がわれわれにとって「難解」であることは事実ですが、そこに内包されている、新たな歴史を生み出すであろう強力な論理の力を、自らの理解として獲得しようとする意欲は消し去ることはできません。
 残念ながら私には肉体的にも精神的にも残された時間がそう長くはないことを感じます。しかし、私という個人における普遍への実現過程は、必ずや次世代の人々の実存の中へと引き継がれていくものと信じています。

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コメント

野口さん、今晩は。
読ませて頂きました。ご苦労様です。でも、やはりこの繰り返しが大切です。私ごときが繰り返しても大した役割は果たせませんが、多少なりとも加わらして貰います。

労働の価値を認めたアダム・スミスはその一瞬後に、地代と資本に立ち戻り、これらを労働の価値から切り離して、労働の価値をすっかり忘れたブルジョワ経済学を開陳します。

Aさんも、価値とは労働の量であると理解しながら、本質とか実体とか内在的価値という文字に引っかかって、それが未定義だと言い出して、労働の量のことをすっかり忘れてしまう様です。

資本論は、資本主義的生産体制が作り出す多くの商品をその入口にして、その商品に込められた意味合いを解き明かして行く理論です。それらの商品は、多くの人々の労働から成り立っていて、全労働が全商品を生み出しているという全体から、平均的労働単位の集積が全商品となっていることを説明します。

さて、個々の商品はそれゆえ、平均的労働単位で表され、その単位量が同等であれば、それらの商品の所有者同士間で、互いに交換に合意することができることになります。そうして初めて労働力商品と賃金との交換の問題や、剰余労働時間の問題に言及して行くことができるようになり、資本の実体を暴き出せるのです。まさに資本主義的生産体制の社会ならではの仕組みが歴史的に登場し、人々を支配する実体と、その社会の進展を描き出して行くのです。社会の変革が必然的に追究されざるを得ない状況を刻々と今も見通しているのです。

Aさんは、労働の量を忘れて、交換とは社会的合意による価格で形成されると云い出し、商品の価値には様々あって、労働量で決まるものではないと、突然ブルジョワ社会の価格一般論、需要・供給論や、技術格差、特許等々の条件で変化する価格こそ価値であるとなる様です。労働量を忘れてしまえば、資本による労働力の搾取は消え、天から与えられたかのような資本主義的生産体制しか見えなくなるのは当然で、資本主義社会における階級闘争は跡形も無くなるでしょう。どうでもいい貨幣決済の問題程度のものとなるでしょう。ブルジョワ社会維持論者となんら違いはなくなるでしょう。でも、資本主義生産体制下の生活から脱けだせるものではないし、その矛盾から逃れ去ることもできはしません。なぜ失業者が増大するのか。資本はなぜ海外に進出するのか、その結果はどうなるのか。金融崩壊はどのように進展せざるを得ないのか。労働を忘れてはこれらの社会的問題に数学的解もないことでしょう。

価値論は資本論の入口です。やはり資本論を読んで、資本主義的生産体制の歴史的状況を把握し、社会の必然的変革を考察する地点に進んで貰いたいものです。

投稿: mizz | 2012年8月10日 (金) 21時05分

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