« 「生活水準」の差とグローバル通貨の矛盾 | トップページ | マルクスの価値論をめぐるディスカッション(14) »

2012年9月 2日 (日)

閑話休題:「津波てんでんこ」から考えさせられたこと

 昨日NHK TVで放映されていた「釜石の奇跡」という番組を観て感じたことをひとつ。
「釜石の奇跡」では地震のあと、やってくるかもしれない津波に対して鈍感で反応が鈍かった大人たちに比べ、小学生などの子供たちの中には、的確な判断をして早々と安全を確保した実話が語られていた。
 そこで、被災地に昔からあった津波の際の心がけとして「津波てんでんこ」という言葉があることが指摘され、要するに津波の際には、まず自分が逃げることを考えろ、という教訓が語られた。そしてそれは決して自分本位という意味ではなく、互いに生きてさえいれば必ずまた会えるということを強調していた。
 それはそれで、納得のいく話であったが、私は、そのとき考えた。あの大津波のときに、高齢者や身体の不自由なひとたちを思い、その人たちを助けにいってともに津波に巻き込まれて死んでいった多くの人々がいるという事実である。そしてもうひとつ、津波が間近に迫ってきたとき、車で安全な場所に移動しなければ間に合わないということになって、家族が車に乗り込んだが、全員が乗り切れなかった。そのとき一番高齢のおばあちゃんが、「おれはいい、おまえたちはやく逃げるんだ!」と叫び、あとに残った。そしてすぐ後ろまで迫った津波にのみ込まれながら「これでいいんだべ、万歳、万歳!」と叫んで波の中に消えていったという話を思い出した。
 おそらく「津波てんでんこ」という言葉の中には、つらく悲しい東北の人たちの歴史や思いが詰め込まれているに違いない。
 もうひとつ、数年前に遠野に出かけたとき、郊外の田んぼの端っこにある林の中に、「でんでらの」という小さな小屋(というより竪穴式住居のようなもの)があった。それは農家で歳をとって働けなくなった老人が、ひとり移り住む場所で、老人はそこで家族からまったく離れて一人で暮らす。そして元気なときはたまに農作業の手伝いをするが、やがて動けなくなればひとり寂しくでんでらので死を迎えるのである。
 この風習は、働き手として役に立たなくなった老人が、家族に迷惑にならないようにすすんで孤独死の道を選ぶという東北の貧しい農民の生活の中で自然にできたものであろう。
 そうした悲しい歴史の中でうまれたであろう「津波てんでんこ」という教訓は、そこに万感の思いを込めて、自ら生き、そして死ぬという覚悟が込められているのだと思う。
 3.11 の大津波で、まず、老人や身障者の人たちを助けようと、自らの危険を顧みずに救助にむかって、非業の死を遂げた多くの消防団の人たちの気持ちを思い起こすとき、「自助」と「自己犠牲」という深刻な矛盾に直面せざるを得ない問題に思いを至らさずには居れなかった。そろそろ「役立たず」になり始めた私にとって、これは人ごとではない。そして普段あまり深刻な危機に直面したことのない人々も、いずれどこかで、これに似た状況に直面し、そのとき初めて「生きる」とは何なのか?という深刻な疑問が自らに投げかけられることになるのだろう。

|

« 「生活水準」の差とグローバル通貨の矛盾 | トップページ | マルクスの価値論をめぐるディスカッション(14) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/55560664

この記事へのトラックバック一覧です: 閑話休題:「津波てんでんこ」から考えさせられたこと:

« 「生活水準」の差とグローバル通貨の矛盾 | トップページ | マルクスの価値論をめぐるディスカッション(14) »