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2012年3月11日 - 2012年3月17日

2012年3月12日 (月)

デザイン労働の矛盾(2: トップダウン・デザインの顛末)

 こうして、「親方日の丸」的国家デザインがもたらした、産業界主体の国家デザインはもはや破綻しているとしか言いようがない。なぜならば、こうしたトップの政治家・官僚およびそのもとで利潤を確保しつつ産業を推し進めてきた資本家たちによる国家デザインのもとで、われわれの生活の質は少しも改善されず、ただ資本家たちが生み出す商品を買って消費することだけが、生きる意味であるかのような生活を強いられてきたからである。

 われわれは、資本家から「労働賃金」という名の可変資本の一部を貨幣の形で前貸しされ、生活資料商品市場でそれと交換に、 資本家たちが売る商品を買うことで日々生活を営んでいる。資本家たちはこの資本の回転のうちに莫大な利潤を蓄積し、市場での競争に勝つために、生産手段などにそれを投入する。やがて投資に見合った利益が難しくなれば、それを一方では輸出という形で海外市場での競争に振り向け、他方では国内の労働者階級に次から次へと新しい商品を買わせることで、過剰資本の形成を防いでいるのである。

 デザイナーという頭脳労働者はこうした国家産業デザインのもとで商品の販売や輸出促進をもたらすという使命を帯びて登場した。だから、一つの製品をメンテを繰り返しながらできるだけ長持ちさせて使ってもらうという発想はその役割上実現できない。よしんば実現できてもそれは恐ろしく高価な「高付加価値商品」の姿をとらざるを得ない。そうした「高付加価値商品」を買うことが出来るのは、資本家の利潤の分け前を多く与えられている「富裕層」だけである。

 やがてわれわれの生活はモノであふれ、まだ使えるモノをどんどんゴミとして棄てなければならなくなる。資本家が獲得した利益の過剰部分がこうしてゴミの山と化し、その一方で貴重な限りある地球の資源はこれら膨大なゴミとなることでわれわれの生活環境を脅かす。デザイナーは「クリエイティブな発想」で次々と新製品を考え出すが、その「創造性」は結局過剰な商品として販売購入され、ゴミの山の高さを増すことにしか寄与しないことになる。

 われわれは、その労働において自らの生活を直接デザインすることはできず、資本家たちの意図を代行して「売れるデザイン」をするデザイナーの労働の結果を買わされることでしか生活を実現できない。

 気がついてみれば、われわれ自身、「モノを買う」ことだけが生き甲斐になっり人生の意味になってしまっている。まさに「消費者」(正確には購買者)なのである。

 家電製品、自動車、パソコン、デジカメ、そして住宅などを購入することこそ生活であり人生そのものであるという意識は結局、われわれの実存をむしばみ、人間としての尊厳や倫理を脅かしていることにわれわれは気づき、やがてモノではなくコトに関心が向けられるようになる。しかし、そうした動向も資本にとっては「ビジネスチャンス」でしかなく、レジャー産業やエンタテイメント産業に資本の食指が動く。生産手段にあまり金をかけなくとも、莫大な利益を得ることができるこれらの産業に彼らは競って投資する。ゲームデザイナーやエンタメをデザインする労働者(アニメスタジオで働く労働者もこれに含まれる)が雇用され、デザインの世界はモノからコトに移ったと言われるようになった。

 やがて、モノづくりに必要な莫大な生産手段への投資に見合った利益を得るために必要な安い労働力を求めて資本は海外に生産拠点を移す。そこで作られたモノは大半輸出に回されるとともに、需要が飽和状態となった国内市場に海外の安い労働力で作られた低価格商品として逆流し、価格破壊を繰り返しながら、海外に生産拠点をもてない中小企業はどんどん潰されていった。輸入業者や小売り業者は利益を上げる一方で、国内のモノづくりは衰退の一途をたどる。

 失業者が増え、多くの若者はレジャー産業やエンタメ産業に労働力として吸収され、それらに乗り遅れた人たちは、非正規雇用労働者として働かざるを得なくなる。その中で生活や人生デザインもできなくなり、結婚も子育ても考えることが難しくなっていく。そして急速な人口減と高齢社会化が進む。

 こうした現実の中で、「デザイン学」の構築を志す人たちは、「デザインとは未来に向かって、あるべき姿を構成することである」と定義している。何とむなしく現実離れした「定義」であろう!

 私は言いたい、誰が何のためにデザインするのか?少なくともその主体はわれわれではなかった。われわれはいまの日本をデザインした人々によっていま「未来に向かって、あるべき姿を構成すること」などとてもできない状況に追い込まれているのだから。

 われわれ自身がわれわれの生活や人生をデザインできるようになるための必要条件を獲得できない限り、この「定義」はむしろわれわれを脅かすものでしかない。

 

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