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2012年3月18日 - 2012年3月24日

2012年3月23日 (金)

デザイン理論の矛盾 1: 目的の疎外(その2)

(その1からの続き)

 要するに、前者(一般設計学に代表されるデザイン論)においては、それが本来の労働の姿(資本主義的な労働の形態を否定する批判的視点によってマルクスが初めて抽象し得た本来の労働の姿)が、デザインや設計という資本制生産様式に特有な職能の中に共通に見いだされる特徴をそのまま「設計行為」という形で抽象化されてしまっているために、これらの職能から労働の第一義的目的が共通に疎外されているという事実が見えなくなるのである。

 当然のことながら、現在の資本主義社会においても、労働の目的は存在する。しかし、それが資本制生産様式特有の分業形態の中で、労働本来の目的意識から疎外されているのである。それはマルクスが分析し得た様に、資本制生産様式が形成される歴史の中で労働対象も労働手段も奪われてしまった労働者が、労働力を資本家に売り渡し、資本家が所有するそれら生産手段に従属させられ、資本本来の「売って利益を稼ぐために作る」という第一義的目的に従属させられる形でしか労働をなし得ないという事実によって明らかである。

 設計技術者やデザイナーという職能は、資本制生産様式が登場する以前に存在した職人的労働や、小生産者的労働が、資本に包摂されることによって「売って利益を稼ぐために作る」という資本の第一義的目的の立場から分割され、資本家に奪われ集中化された労働手段(機械制大工場)に従属し、労働の頭脳を奪われ単純な肉体労働の繰り返しという形で価値を生み出す労働部類と、労働の頭脳を資本の目的の具体化に従属させ、肉体労働者から奪われた労働の頭脳を資本家的目的意識を具現化させる労働として再構築された労働部類に分割された結果登場した分業種の一つなのである。こうした根本的矛盾が見えないことによって、次の様な深刻な状況が生じているのである、

 資本制生産様式特有の分業種がそのミッションとして共通に持っている、「売れるものを作る」という第一義的目的が達成されるためには、当然ながら売って利益をあげる商品しか作られなくなる。しかも「売れるための条件」はきわめて曖昧で非論理的な理由で現れる。「みんなが使っているし、かっこいいから」とか、「いまのトレンドだから」などなど。現代の資本主義社会全体が、この商品を売るための宣伝広告による世論操作やプロモーションによって特有の文化を形成しているといってもよいくらいである。こうして、売りまくられる商品を買うことが、資本家階級によって「消費者化」させられた労働者階級のミッションになっているとさえいえるだろう。

 その結果、過剰な消費を常態とする社会が「豊かな社会」とされ、その一方で限られた地球資源や環境が、一方で資本に莫大な利益を蓄積させながら、他方で同時に膨大な量の廃棄物やゴミと化して人々の生活環境を脅かすというとんでもない矛盾が起きているのである。そしてその回転を誰も止めることができないのである。たとえ設計者やデザイナーが、「設計行為」を通じてこのような矛盾に満ちた社会を改革できる(吉川氏の言葉を借りれば、「社会の邪悪なるものを技術によって食い止める」ことができる)と幻想しても、所詮それは現代技術の目的意識を握っている資本の手のひらの中で踊らされている姿でしかないことは明白である。いったい何のため、誰のためにモノを作るのか?という問いは常に必要である。そのことが問われずに、設計行為のプロセスがいくら論理的に整合性をもった形で記述できたとしても、それを通じていまの社会の矛盾を克服することなどできないのである。

 この問題は、形式論理学と意味の関係という深い問題にも繋がるのであるが、とりあえず、ここでは次のことだけは言っておこう。

 設計過程論は、現存する設計技術者やデザイナーの労働内容の抽象にもとづく、それらの職能のための一般的指導理念として構築されるべきではなく、それら現代社会特有の分業種である知的労働種が現実に直面している諸矛盾を明らかにし、そこから批判的に抽象される労働過程一般の論理として再構築されるべきである。それは労働の主体的目的意識が実現され社会的に存在化される過程の論理であり、目的意識の内省的評価とその外在的具体化を労働者自身の表現過程として記述することである。したがってその労働過程の実現のためには、現状での設計技術者やデザイナーという職能形態はまったく異なった形の労働形態に変化するであろうという想定をも含んでいるということである。

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2012年3月22日 (木)

デザイン理論の矛盾 1: 目的の疎外(その1)

 こうして、デザイン労働の現実における諸矛盾をすっ飛ばして、無際限に「○○デザイナー」という言葉が取り入れられ、やがてあらゆる設計・計画的行為全体にまで拡張され「広い意味でのデザイン」として抽象化されたデザインという言葉は、一人歩きを始め、1960年代末にはすでに「デザーナー=文明の形成者」(川添登の説がその典型)という捉え方が登場した。そしてそれ以後、デザイン教育の場でもさまざまな個別の職能教育における理論を下位概念として含む、上位概念としてのデザイン論が登場し、理論化され始めた。吉川氏の「一般設計学」はその中で最も論理的に整備された理論としてデザイン論を専門とする教育研究者の手本とされてきた。

 しかし、そこに大きな落とし穴があった。それは、本来デザイン行為というものが目的的行為であるという事実に立って捉え返してみればすぐに分かることであるが、デザイン行為の基本的動機であるはずの「デザイン目的」がデザイン主体の外側から与えられるという形が前提となっているのである。

 デザイナーは、その雇用主たる企業の経営陣(資本の運動を人格化して実行する人たち)から与えられたデザイン目的を如何に具現化し可視化し、「目的意識の主」たる経営陣からゴー・サインをもらうかがミッションとなる。

 もちろん、デザイナー(工学的設計者も含む)は、与えられたデザイン目的を達成するために彼・彼女の職能としてのミッションの中でそれに対する意図と意欲を燃やして仕事に取り組むのであるが、職能上、クライアントから与えられた目的に関する異議申し立ては行えない。したがって当然ながら現在のデザイン論もそれを反映しているのである。

 吉川氏は一般設計学の枠組みについて述べた「設計学研究」(精密機械 43巻1号、1977年1月)という論文の中で次の様に言っている。「一般設計学とはあらゆる設計行為に共通にあらわれる人間の知的活動の機序を解明することを基礎テーマとしながら、技術におけるいろいろな分野の設計部門に共通に有用な、実用的向上のための指導原理を生み出すことを応用テーマとして持つ分野であるということができる。」そして「設計行為は、人間が概念として想定した機能を、それと等価な機能を持つ実体として存在化する行為である。この行為を過程としてみるならば、概念から実体への変換過程であると言ってよい。しかしこの場合、無既定に概念および実体という語を用いると、設計問題は非常に大きな範囲を対象とすることになり、問題が曖昧となる。...(中略)...とすれば、問題の範囲を限定して始めるのが良い。...(中略)...まず、概念は定義可能な言語、記号および図形のうちのいくつかによって表出可能なものに限定する。一方実体は、その属性を科学的手段によって認識する可能性のあるものに限定する。」とし、当面の問題は、「定義可能な言語、記号および図形によって表出可能な概念を、科学的手段によってその属性が認識可能な実体変換する行為であり、この実体は概念として提出された要求を充足する解(引用者註:生産物そのものではなく図面などを指す)でなければならないという設計問題を対象とする」ことであると言っている。

 ここでマルクスが資本論の第1巻、第3編「絶対的剰余価値の生産」の中の第5章「労働過程と価値増殖過程」の中で述べている次の様な有名な一節を思い出してほしい「われわれは、労働がもっぱら人間にのみ属するばあいの形態における労働を想定する。蜘蛛は織匠のそれに似た作業をなし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を顔色なからしめる。しかし、最悪の建築師でも、もとより最良の蜜蜂にまさるわけは、建築師が蜜房を蝋で築く前に、すでに頭の中にそれを築いているということである。労働過程の終わりには、その初めにすでに労働者の表象としてあり、したがって、すでに観念的には存在していた結果が出てくるのである。彼は、自然的なものの形態変化のみをひきおこすのではない。彼は自然的なもののうちに、同時に、彼の目的を実現するのである。彼が知っており、法則として彼の行動の仕方を規定し、彼がその意志を従属させねばならない目的を、実現するのである。...(中略)...労働過程の単純な諸要素は、目的に合致する活動または労働そのもの、その対象、およびその手段である。」(岩波書店版より)

 この両者の間の大きな違いは、前者が、設計労働あるいはデザイン労働という形の歴史性を刻印された分業種(ここでは「設計行為」とされている)としての内容を対象とし、しかもそれをそのまま一般化(つまり普遍化)してしまっているのに対して、後者は、歴史のある段階で登場した、資本制生産様式の立場からみた「合理性」に基づいて分割され、最初から労働対象も労働手段も持たず、手足と頭をバラバラにされた現実の分割労働諸形態(そこには工場で機械に従属した単純労働を行っている生産労働者と、その労働内容を規定する設計やデザインという形態の頭脳労働を行っているデザイン労働者を含む)を否定的に捉える立場において初めて見えてくる、本来あるべき労働の姿について述べているということである。

 だから前者においては、労働の目的は生産的労働者自身のそれではなく、そこから切り離された労働の頭脳を自分の意図を代行させる手段として自由に用いることができる雇用主(資本家的経営者)によって、外側から与えられることが前提とされるのである。(その2に続く)

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2012年3月19日 (月)

デザイン労働の矛盾(3: 民主主義という名のトップダウン・デザイン)

 実際に世の中でデザイン労働を行っている人々のほとんどが、デザイン実現手段を持たず、一方デザイン実現手段を保有する人たちはそれを資本の法則に従って利潤を拡大するための手段として位置づけ、デザイン労働者をそのために使う、という構図が見えてきた。ここではデザインを実現すするために必要な手段を保有する人たちの意図が抽象的で実利的な「メタ・デザイン」として機能をしている。つまり、実際にデザイン労働を行っている人々はその実現手段を保有する人々(デザイン労働者の雇用主)の抽象的な意図を具体化(正確にはMaterializeというべきだろう)するために働いているのであって、その意味では雇用主のメタ・デザインを「デザインされた商品」として可視化しているにすぎないのである。

 そしてさまざまな業種の資本家のメタ・デザインの利害が無政府的にぶつかり合う市場(資本主義経済は本質的に無政府的な「自由経済」である)の混乱を防ぐため総資本の立場でそれらを調整しつつ国家経済体制としてまとめ上げるのが政府の役割となっている。これをここではトップダウン・デザインと呼んできた(メタ・デザインのメタという意味で、皮肉も込めて「メタ・メタ・デザイン」とでも呼んだ方がいいかもしれないが)。

 この「国家の意思」を決定する人々は、「民主的な選挙」で選ばれた代議員であって、労働者階級もその民主的選挙に参加している以上、この体制は「トップダウン」ではないと、普通は考えられてきた。しかし本当にそういえるのか?

 この体制下では、確かに「ボトム層」にある人々がそこそこ自由にものを言えるし、「公序良俗」に反しない限り一応何をしてもよいことになっている。しかし、ボトム層の人々はその考えを実現させる手段を持たず、実現手段を保有する人々(つまりトップ層)が許容する範囲内でなければその「自由な意見」は「非実現的」として排除されてしまうのである。そしてさらに悪いことには、ボトム層の人々が、こうしたトップ層の連中の意図を先取りして「分別ある現実的な」意見と行動しか行わなくなってきたのである。トップ層の人々はこうした状況を「民主主義のもとで適切な形で形成された民意であり、健全な民主主義の表れ」と見なすのであろうが。

 言うなれば国の「トップダウン・デザイン」の調整下で、資本家たちは、自らの意図を実現させる手段を保有しつつ、彼らの「国際市場でシェアを拡大して利益を増やす」という抽象的で実利的な(本当は破壊的な)意図(メタ・デザイン)を実現させるため、雇用した労働者の労働(例えばデザイン労働など)によってそれらを物質化(Materialize)させることが「社会的任務」となる。

 しかし、いまその矛盾が吹き出している。トップダウン・デザインによって生み出されてきた原発の事故、それを含む大震災の被災者への支援は結局、大企業が潰れれば、雇用が減って、経済が成り立たたなくなるので資本家たちの利益を優先した形でしか成し得ない。そしてその「つけ」は結局「増税」という形でただでさえ生活の苦しいボトム層を直撃することになるのである。

 貧困による孤独死が激増する社会にあっても、トップ層にとっては社会福祉問題などは国政にとって最大の「お荷物」に過ぎないのである。本当は金は掛かるが役に立たない高齢者や障害者などは早く居なくなって欲しいというのが本音であろう。いったい誰のための財政政策なのか?労働者階級として社会全体をそれぞれの労働によって「物質的」に支えている人々のボトムアップ的意図はこうして常に「メタメタなトップダウン・デザイン」によって踏みつぶされるのである。

 われわれの求める「ボトムアップ・デザイン」はそのようなボトムを従属させるトップダウン社会の仕組みを根底から否定しつつ、しかも単なる「非現実的デザイン」ではなく現実的な労働の場を通じて直接的にそれを実現させようとするものでなければならないだろう。そこには労働が生み出した莫大な富をリスキーな投資や無用な国際競争で勝つためにつぎ込み、そのために過酷な労働を課せられている労働者たち、その結果生み出される低価格商品群による「価格破壊」、それを理由に労働賃金を実質的に減らされる「先進諸国」の労働者階級、価格競争に負けて倒産する中小企業や、増大する失業者、そして税収が減って国家財政が苦しくなり、金融資本と連携した国家財政のやりくりが失敗すれば国家破綻し世界的な経済恐慌をもたらす、というまったくどうしようもなくひどいメタメタなトップダウン・デザインの補完や修正などでは決してあってはならないのだと思う。

 もちろん、それは長年続いてきたこうした体制下で「衆愚化」させられた民意による「無分別」であってはならず、しかもトップダウン的視点からの「分別」でもない、歴史の必然性を洞察するという意味での本来の分別を持ったものでなければならないだろう。

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