« 2012年4月8日 - 2012年4月14日 | トップページ | 2012年4月29日 - 2012年5月5日 »

2012年4月15日 - 2012年4月21日

2012年4月21日 (土)

デザイン理論の矛盾 6 : 計画性と無計画性の矛盾

 前回では、デザインという概念を、社会を築き維持発展させるための政策というレベルにまで高めて論じる場合、それは、生産手段(これ自体労働者階級の過去の労働の成果である)を「資本」として私的に所有する階級の視点ではなく、現実に社会を築き、維持するためのあらゆる労働形態で社会的労働に直接従事している労働者階級全体の意図が反映された立場でなければならないと述べた。

 そこで、今回はその労働者階級的視点による社会の維持発展のための計画性(つまり資本家的視点による「デザイン」に対するアンチテーゼ)と、資本家に代表される現在の支配階級の視点による「社会デザイン」における「計画性」との違いについて考えてみよう。

 資本家的「社会デザイン」には、無計画あるいは無政府的であることが本質の「自由市場」と、その市場に自ら所有する商品を売りに出す個別資本家たちがそれぞれの所有する企業内で生産手段とそれに従属させる労働力の運営に対して行う、計画性(つまり資本家的「合理化」)との間の矛盾が内包されている。資本家達は、自分の企業での生産は市場での「自由競争」に勝つべく、徹底的に合理化し、相対的剰余価値の増大を図るのだが、一方で市場は、個々の資本家達の思惑を超えた競争的無政府制(資本家的経済学者はこれこそ「自由経済」の本質であると主張する)を持っており、つねに予期せぬ需要供給間の変動が起きる。資本家達は、これが資本主義経済の本質的矛盾であることなど気づきもせず、ただ、市場の動向を見極めようと懸命になる。

 しかし、1930年代に過剰資本の蓄積が資本主義経済体制に壊滅的打撃を与えて以後、いまでは過剰資本の処理が「有効需要」の創出などにおいて、資本家的計画性(資本家代表政府による経済政策)を発揮しない限り資本主義経済体制そのものが存続し得なくなっているのである。それにも拘わらず資本家階級は、一方で「自由市場」を主張しつつ、他方でそれをコントロールしようとするという矛盾から逃れることができなくなっている。それは彼らが「大きな政府」政策と「小さな政府」政策の間で揺れ動くしかないという現状からも明らかであろう。

 しかし、本来の社会の主人公である労働者階級が社会的主導権を持つならば、この矛盾は、次のような形で克服されるだろう。

 いまや完全にインターナショナルな形になった世界経済体制は、いわゆる「グローバル資本」の支配の元で世界的な低賃金労働や希少資源の奪い合いを起こしながらアンコントローラブルな状態で地球資源の無駄遣いと自然環境の破壊を繰り返しているが、労働者階級の国際的連携が、この資本家的支配の打倒に成功すれば、国境を越えた労働者階級による国際的機関の創立を経て、地球資源の全人類的共有化、無意味な市場競争による膨大な無駄の生産と浪費を生み出さなくとも維持発展できるような、生産と消費に関する基本的計画性を持った経済体制の確立が、まず目指されるであろう。

 同時に、個々の企業内での生産現場では、生産手段を直接管理運営するようになった労働者たちが、もはや「市場の無政府制」という資本家的「法則」から解放され、「売るための商品」ではなく、諸個人の生活において必要とされる消費財を「必要に応じて」直接生産するための労働を行う(消費者=生産者として)ようになる。資本主義的生産様式が残していった高度な生産力は、そのまま剰余労働時間が、社会的福利厚生に必要で充分な社会共有財の生産に回されたのちに、労働時間は短縮され、労働者たちは自由な生活と労働によって社会を支えることができるようになるだろう。

 いうならば、社会全体の生産・消費における計画性の確立と個人の生活と労働における自由の確立が目指されるであろう。そこにおいて、初めて、資本家的「自由」がいかに矛盾に満ちた欺瞞的「自由」であったかが証明されるはずだ。

 「広い意味での」デザインは、もはや「デザイナー」という資本家的労働特有の形態においてではなく、あらゆる形の社会的必要労働の中で再現される本来の労働過程の論理として位置づけ直され、研究の対象にもなるであろう。

 われわれの目指す「デザイン学」はこうしてまったく姿を変えた形になるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月17日 (火)

デザイン理論の矛盾 5 : 「社会のデザイン」という矛盾

 すでに「デザイン労働の矛盾」でも述べたが、デザイン理論における「広い意味でのデザイン」という視点が現代社会におけるデザイン労働の実情を見ていないため、デザイン実現手段(デザインを実際の生産物に実現させる手段)としての生産手段を所有している階級の視点にならざるを得ないことから生じる「トップダウン・デザイン」の矛盾が「矛盾」として眼に映っていない。そのため、その視点をそのまま「社会のデザイン」に適用する場合に、当然のことながら、支配階級の、支配階級による、支配階級のための「社会のデザイン」にならざるを得ないのである。

 この視点の典型的なものの一つが、最近登場した「システム創成学」と言われる研究領域である。この領域の研究グループが主催する最近のシンポジウムの趣旨では、次のように語られている。「環境・エネルギ・資源の問題、金融危機、災害による甚大な被害は、作り上げた社会のシステムが、副作用として自然や未来に負の影響を与えていたり、経済活動や社会の安全を脅かす脆弱性を含んでいたりするということを、私たちに警告しています。巨大で複雑な社会というシステムのふるまいを理解し、あるべき姿にデザインしていく、それがシステム創成学が目指すものです。」

 つまり現に起きている、環境・エネルギ・資源の問題、金融危機、災害による甚大な被害などは、いまの社会システムの「副作用」や「脆弱性」であり、この「副作用」や「脆弱性」を少なくするような社会システムを創成しようというのである。その前提には、すでに存在する社会システムはいろいろな「副作用」や「脆弱性」があるが、基本的には正しいのだという暗黙の了解がある。少し前に、別の学会で「社会をデザインする方法」というテーマでの研究提案があったが、これも同様であろう。

 これらの研究者の頭脳には、なぜ環境・エネルギ・資源の問題、金融危機、災害による甚大な被害などのような大きな矛盾が生じているのかを、現在の社会システムそのものにおける矛盾にまで掘り下げて直視しようとする視点がない。

 この矛盾に満ちた社会の中で、社会システムをデザインしようとしている人は誰なのか、どのような立場でこの矛盾をとらえ、それに対決しようとしているのかが問題なのである。同じ客観的問題状況に直面しても、それを見る視点の違いによって、それをどのような「問題」としてとらえ、どう解決していくべきなのかがまったく異なるのである。

 「デザイン」という概念は、デザイナーという現代社会特有の職能の登場から始まり、そのさまざまな対象領域での労働内容の共通点を抽出して得られた「広い意味でのデザイン」は、国家政策やいわゆる「社会ガバナンス」の運用にまで抽象化され、適用されると考えたことが、こうした理論研究を生み出したといえる。

 しかし、実際、職能としての「デザイナー」は、そのデザインの実現手段を持たず、それを所有する支配的階級の意図を代行している頭脳労働者(デザイン労働者)に過ぎないという事実、そして、その支配的階級が、もはや資本主義社会の歴史的使命を終えてしまったが故に生じている莫大な過剰資本と、それによる利潤獲得への圧迫を逃れるべく、労働者階級に過剰な消費を強い、それに拍車をかけることによって延命を図るしかなくなったために生じている社会矛盾を「副作用」としてしかとらえていないという事実を冷静に見るべきである。

 現実に社会に必要な財を各種の資本主義的に分割された現代社会特有の労働形態において生み出している労働者階級が、資本家が労働者の手から奪い取り、彼らの私的利潤を獲得するための手段として、高度な生産力をもつようになった労働手段を自分たちの手に取り戻し、そこから生まれる莫大な剰余価値をすべて、労働者階級の社会福利厚生や社会全体の維持発展のためにそのまま使える社会共有財とすることができるのでなければ、本当の「社会デザイン」は不可能であろう。

 いまの資本家階級代表政府にあっては、それらは「産業界の活性化」を前提条件とし、資本家階級の利益を守るために労働者階級から税金(消費税など)を取り立てて賄おうとする政策しか思いつかないのである。産業界、つまり資本家階級の利潤追求のための生産活動はもはや、労働者階級を貧困に追いやり、莫大な無駄の生産によって地球資源を食いつぶし、地球をだめにすることにおいてしか維持できなくなっている現実を直視しようとしていない。

 労働者階級が、社会的生産手段と、社会的生産の主導権を取り戻すというスコープのもとで、はじめて、莫大な過剰消費を行わず、資源の無駄使いをせず、したがって無駄な競争を行わず、戦争を引き起こす無駄な領有権争いをやめ、本来の意味での経済的社会を築き上げ、歴史を前に進めることができるような、社会のありかたやその運営方法をデザインすることができるようになるのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年4月8日 - 2012年4月14日 | トップページ | 2012年4月29日 - 2012年5月5日 »