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2012年1月8日 - 2012年1月14日

2012年1月11日 (水)

再び「自己犠牲」について思うこと

 最近、よくTVの海外ニュースで、中東の紛争中に行われる自爆テロの凄惨な場面の片鱗を見せられることがある。一見平和な日常生活を送っているわれわれとはほど遠い世界の出来事のように思えるが、2001.9.11のように突然われわれの日常生活の意識を覆すような出来事としてこれが現れるのである。もちろんテロリストはそうしたわれわれの「平和ぼけ」に対する命と交換の抗議をすることが目的なのである。

 考えてみれば、われわれの先輩たちも太平洋戦争で特攻攻撃という形で、命と交換で「敵」の戦意を萎えさせようとする行為を行ってきたのである。そこで考えさせられることは、当時の日本は明治維新以来欧米一辺倒で来たが、世界史上で一定の地位を獲得した後、資本主義体制内にあって、アメリカやイギリスによる資本主義経済から相対的に自立した経済圏を作ろうとしていた時代である。その時代はまた文化的にも、西欧の「自由とデモクラシー」に対する批判とそれに対置するような天皇を中心とした「日本主義」が昂揚されていた時代である。その時代精神と特攻攻撃という形での自己犠牲の容認は切っても切れない関係にあると言ってよいだろう。

 背景が異なるが似たような形で、それから70年も経った21世紀まで生き延びた資本主義的世界と、アメリカに代表されるその生活文化と人間観に対する、イスラム社会からの強烈な反発と抗議の中で、宗教的自己犠牲という形での自爆テロが登場したのである。

 アメリカ的文化における人々は「商品を買うこと」や、それによって「生活を楽しむこと」が生きる意味であり、その人間観は、自己主張と自己利益だけが社会を動かす「自由主義経済」(資本主義的市場経済)に基づく社会である。そこには基本的に自己犠牲という思想はない。平たく言えば、自分にとって損をすることをわざわざ選ぶ人間は馬鹿であるという考え方である。

 しかしイスラム圏の人々は、苦しく貧しい生活を営んでいても、アッラーのために命を捧げることが、自分にとっての幸福であると考えている。自己犠牲こそ、それまで自分が生きてきた意味を示すものでもある。そのことは宗教的教義においてはイスラムに限らない、仏教でもキリスト教でもその教えには自己犠牲という考え方が説かれている。しかし、資本主義社会を存立させている「原理」の中に自己犠牲という概念はないのである。

 しかし、私はだからといって宗教的自己犠牲を礼賛することはできない。なぜなら、そこにある自己犠牲は、特定の神という存在への絶対的な帰依であり、その神は異なる神の思想は受け入れない。一つの宗派は他の宗派に帰依する人々の存在を基本的に否定する。だから昔から宗教間、宗派間での争いは熾烈で凄惨を極めた殺し合いが行われてきたのである。結局、宗教はある経済体制の社会の上部構造としてその社会に内在する矛盾を覆い隠しながら、社会的倫理観を築き上げるために、その社会を支配する階級による政治的支配の道具としての機能を果たしてきたのである。

 もし仮にあらゆる宗教の上に立ち自然界を生み出した絶対的創造主が存在すると主張するのであれば、それはまさに人間という存在が自然の産物であり大自然全体の一部として存在しながらそれをとらえる際に、何か特別な創造主という「存在」をイメージすることによって、人間の大自然に対する理解の不十分さを表現するものでしかないだろう。この宇宙を生み出したのも自然のなせる技であり、何か目に見えない神の手がそれを行ったわけでは決してない。

 人は生まれながらにして、大自然のこれまでのあらゆる歴史(その中には人類史も含まれる)を一人の個体の中に「一個の全体」として内包しているのである。そして一人の人間の人生は、その人を存在させた社会の中で、どのような役割分担を担って生き、労働を行ってきたのかによってその存在意義が表現される。「私」の中には全自然史の過去が「私」という場所的な形で存在し、私が考え行動することが自然史の「いま」を創造しつつあるのだ、ということである。マルクスのいう「人は一日24時間づつ死んで行く」という考え方の背後に彼のこうした深い思想があると私は考えるのである。人は一労働日の労働の成果で生み出した対象物の姿で「過去の(死んだ)労働の凝固した結晶」として日々現在の世界の新たな「自然」を獲得し、これによって他の人々との絆を生み出しつつ共同生活を営むのである。人間はこうして労働の中で一日24時間づつ死にながら、それを過去のものとしつつ現在の新たな自然を生み出していく。マルクスの唯物論は人間を抜きにした「タダモノ主義」では決してないことを感じさせるのである。

 マルクスの目指していた普遍的な人類共同社会(彼はそれを共産主義社会と呼んでいたが)の実現の過程で、もし「自己犠牲」があり得るとすれば、それはそのような社会を目指す人々との関係において過去の資本主義社会の人間観の残滓を背負っている自己を否定しつつその先を求めて生きるということではないだろうか?

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